フォーカス
盒の中のパフォーマンス
多田麻美
2010年12月01日号
回顧される体制
最後に、「GALLERIA CONTINUA BEIJING」で行なわれたネッコ・ソラコフ(NEDKO SOLAKOV)の個展「社会主義が恋しい、多分…(I miss Socialism, maybe...)」をご紹介したい。個人的にこの秋、インパクトが最も大きかった展覧会のひとつだった。作家のソラコフは1957年生まれのブルガリアの作家。タイトルからもわかるとおり、彼が31歳になるまで体験した共産主義政権下での生活が、その作品には大きく反映されている。
会場に入ると、観客は展覧会のタイトルの中国語訳、「我想念社会主義、也許」を象ったソファにゆったりと座り、作者のパフォーマンスのフィルムやビデオ作品をテレビ画面で鑑賞することができる。米ドルとデンマーク・フランとの間の両替を、残高がゼロになるまで相互に繰り返す作品《交易》、芸術家たちが党組織に協力したことを示す極秘資料を一枚ずつめくっていく《最高機密と関係のある映像》、劇場を象った箱の中で、手を縛られたキャストたちが討論を行なう《言論の自由(あるいはいかに適度に論争をするか)》、「耳が動かせる」「舌が鼻に届く」などの自らの身体の些細な特技を連ねていく《私のいくつかの能力》、そして自宅の亀が水槽の中で橋から前半身を乗り出し、反空中状態になってあがくさまを撮影した《飛ぶカメ》。
冒頭で紹介した作品と同じで、時に無意味に見える行為のなかに、強烈な風刺、寓意が込められている。しかもこれらが、現共産党政権下の中国で発表されていることがまた、とんでもなく意味深だが、その主張は押しつけがましくなく、どこか飄々としてユーモラスだ。もちろんこれは、中国でこういった作品を発表するにあたって不可欠な自己防衛にもなっているが、そこらへんもまた、ツボを押さえている、と感ぜざるをえない。
パフォーマンスには場の設定が欠かせない。この作品は、展覧会を行なう行為そのものを一種のパフォーマンスとし、場所を今の中国に設定したことで、展覧会そのものが、画廊の内、外を超越したダイナミズムで、一種の作品としてのインパクトをもつに至った例と言えるだろう。