フォーカス

盒の中のパフォーマンス

多田麻美

2010年12月01日号

言葉を見つめる

 一方、言葉と身体の関係を追求したパフォーマンスの記録フィルムに関して言えば、以下の二つのビデオ作品も興味深かった。
 まずは「Art Issue Projects」で行なわれた「陥穽(Trap)」展での作品、《附身【声】者:介紹(腹話術をする者:紹介)》。台湾にいるさまざまな国籍の人々を一人ひとり撮影したもので、登場人物自身が言いたがっていると思われる言葉が、標準的な国語のナレーションで語られ、それを登場人物らが同じように繰り返す。だが、彼らには強いなまりがあり、どうしても同じ発音というわけにはいかない。だが下の字幕は彼らの発した言葉を、そのなまりも含め、忠実に文字化していく。それが時にまったく意味をなさない言葉になっても、だ。言葉の内容がそもそも本人の考えから出たものであるだけに、規範となる言葉と個人の発する言葉との間のずれが大きければ大きいほど、話者の個性や言語環境の特徴が際立つ効果が生まれる。そして、表現を的確に伝達するはずの「規範」が、むしろ個人が本来可能な表現のなかの何かを抹殺しているのでは、と感じられてくる。


余政達(ユー・ゼンダー)《附身【声】者:介紹(腹話術をする者:紹介)》ビデオ・インスタレーション 2008年[写真:張全]


同[写真提供:芸術ISSUE]

 この作品が、規範化された言葉と個人の発する言葉のずれを「規範」の面から観察していたのに比べ、純粋に「個人の言葉」に強い焦点を当てていたのが、若手作家6人の新作を集めた「Mizuma & One Gallery」での「I’m on the road to...」展における黄栄法(Morgan Wong)の作品、《無題》だ。
 こちらは対照的にまったく音のない空間の中で、作家がひたすらボディーランゲージを繰り返す、というもの。観る側はそれらの動作が何を表わしているのかなかなかわからないのだが、そのしぐさがとても表情豊かなので、いつしか必死で意味を読み取ろうとし始める。本来介在しないはずの意味判断の基準を、個人の直感や経験によって何とか見出そうとし始めるのだ。そんな自分に気づく時、観客はコミュニケーションに不可欠な前提は言葉そのものより相手への関心なのだ、と改めて悟らされる。作者の黄栄法は香港出身で、現在は北京で創作活動をしている。この作品は、黄の日本でのコミュニケーション上の体験が基になっているという。




黄栄法(Morgan Wong) 「無題」 ハイビジョン・カラー(無声) 5′39 2010年(写真/「Mizuma & One Gallery」提供)

  • 盒の中のパフォーマンス