フォーカス
「ルール」を介した表現
多田麻美
2011年02月01日号
「目覚める女性」という枠
最後に、本題からははずれるが、カテゴライズ化のもうひとつの例として、この冬の北京の展覧会のなかでも規模が大きく、個々の作品のレベルも高かった中央美術学院美術館での「セルフ・イメージ 中国の女性芸術1920-2010」を挙げたい。1920年代から現在に至るまでの中国における女性作家の自画像を主なテーマとしたもので、展示作品には女性が自分以外の女性をその個性を突出させる形で描いた作品も含まれていた。
女性の「自らを描く行為」に注目し、大量の関連作品を集めていたのはたいへん貴重だったが、正直、社会の変革に従って目覚める女性、という既存の枠組みを踏襲した面があり、上述のように自画像以外の作品も含まれていたため、全体として焦点がぼやけていたのが残念だった。また、アニメ的表現の導入など、実際はUNMASKなどの一部の男性作家にもみられる傾向を一緒に語っていたのも、「女性のアート」というカテゴライズにこだわり過ぎているように感じた。
さらに正直な話をすれば、21世紀に入って十年も経った現在に至っても、女性がイメージとしての女性を描いた成果が、ただそれだけで「女性作家の自画像」というカテゴリーで強引にくくられうるという事実は、女性の作家が未だ背負わされているハンディを想起させ、筆者には少しショックだった。
二重の逆説
本題に戻れば、社会には誰もが従うことを余儀なくされているルールがある訳だが、そのルールからある程度解き放たれているはずのアートを敢えてルールで縛る表現がある。その一方でまた、アートのもちうる多様性を敢えて制限し、ゲームのもつ単純化された関係を生かす表現もある。
でも実際のところ、中国の現代アートの環境そのものは、そういった逆説を楽しめるほどの自由な土台を獲得しえているのだろうか。ルールを設けることは、その不自由さの逆説的発散ではないか? 逆説の逆説、つまり二重にひねられた空間をくぐりぬけた直球がもつ力強さ、それこそが、結果として多くの中国のアーティストの表現にみられる自由で奔放な底力を支えているのでは? と改めて考えさせられてしまったのが、この冬のいくつかの展覧会だった。