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福島  木戸英行
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exhibitionアートみやぎ

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青野文昭「無縁-有縁 井戸浜 1999.3.15」1999年
青野文昭「無縁-有縁 井戸浜 1999.3.15」1999年

 大都市仙台を抱え、東北のリーダーたる宮城県の出身または在住の作家を紹介する展覧会。見逃すわけにはいかないと、最終日に慌てて行ってきた。
 出品作家の年代は、1943年から1968年生まれまで。日本画、インスタレーション、写真とメディアもさまざまな8人である。企画者たる美術館サイド自らが「展覧会自体に特にテーマを持たせず、選考の対象としたのは県在住また出身者で、ここ数年の間に個展やグループ展で意欲的に制作発表している美術家とした」と言うとおり、多様な出品作品を一つにまとめあげる美術館側のポリシーやメッセージはあえて隠されている。「地元ゆかりの作家にもこんなに優れた人たちがいるんですよ」というお国自慢程度の気楽な印象。
 しかし、見終わっての感想は、こう言っては失礼かもしれないが期待以上だった。個人的に印象に残ったのは、土器の復元や絵画の修復のように、空き地に野ざらしで棄てられた古ソファ、看板、古カーテンなどを復元して見せた青野文昭。<無縁-有縁>と題されたこのシリーズ、展覧会カタログによれば、棄てられていた物(無縁)を忠実に「修復」する作業(有縁)を通して、作家の主体性に代わって作品固有の強度を保証しようという意図があったようだ。もっともぼくの目には、「無縁」と呼ぶべきは作家によって修復された部分のほうで、たっぷりと歴史やら時間やらを染み込ませたオリジナル部分のほうが「有縁」に相応しいように思われたが。むしろ面白かったのは、廃棄物の朽ちた部分が放つ過剰なほどの物語性と、作者の丹念な「修復」によって獲得された、フォーマリズムの作品と見紛うほどの復元部分の抽象性が、一つの作品に同居してある種不穏な気配を漂わせていた点である。作家が「造形性」や「作者の意図」を越えたところで物としての作品の強度を回復することを狙ったとすれば、物語性と抽象性のスリリングな出会いこそが、それを実現していたということか。いずれにせよ作者の着眼点の鋭さは十分に新鮮だった。
作間敏宏「治癒」1999年
作間敏宏「治癒」1999年

 もう一人、「治癒」と「colony」という作品を発表した作間敏宏にも触れたい。<治癒>は表札によるインスタレーション。電話帳から無作為に抽出した人名の表札と電球を、照明のない暗いギャラリーの壁全面に無数に設置する仕事である。ここで作者は、「家」や「家族」の象徴である無数の表札によって、「個人」の存在が他者と交換可能であることを暗示しようとしている。その交換可能性を積極的に承認することが、近代以降の個人観がもたらした病の「治癒」につながるというわけである。他者と交換可能な個人とはいかにも冷ややかなものを感じさせるが、作品自体は、街灯がともる夕暮れ時の家並みを想起させ、懐かしさにも似た叙情性を帯びていたようにぼくには思われた。交換可能な個人と言うより、帰るべきところとしての家や家族を強く思い出させるという印象である。この感想はセンチメンタルに過ぎ、おそらくは作者の意図したものではないと思うが。
 ところで、「お国自慢の展覧会は気楽」と書いたが、政治性から一切自由な展覧会など存在し得ないように、本展にしても、作家選考を巡って学芸スタッフ・サイドの思惑はいろいろとあったはずである。しかし、そうした思惑は思惑として、こうしたお国自慢展覧会の有効性については毎度のことながら考えてしまう。
 同種の展覧会は地方の公立美術館がほとんど義務のように必ず行う企画である。地域社会の知的、文化的中枢として奉仕する役割を担った公立美術館が当然なすべき仕事の一つであり、地元ゆかりの作家を紹介したり、地元の作家に発表の機会を与えることが、地域社会の芸術文化振興に貢献するという論理である。宮城県美術館も過去「みやぎの5人」展シリーズや「東北の作家」シリーズと題して多くの展覧会を開催してきた。しかし、本展の場合、先に挙げた作間敏宏をはじめ、出品8作家のうち3名が東京を拠点に活動する作家である。もちろん、その状況は宮城県美術館だけに限らずどこも似たり寄ったりだろう。地域社会の知的、文化的中枢としては、視野を県内に限定せず国内全域から海外にまで広げ、地域社会の「文化・知的水準」向上に貢献すべきということであろうが、だとしたら、「地元ゆかりの作家」というお国自慢的な看板はそろそろ降ろしたほうが地域住民のためにも良いのでは、と思う。本展のように個々の作家の充実した仕事が見せられればなおさらである。あるいは、本当の意味で地域に根ざした良質な美術を作り上げいくために、別の方法が求められているのではないだろうか。
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アーティスト:青野文昭、翁ひろみ、木村太郎、作間敏宏、佐藤健吾エリオ、虎尾裕、能島和明、樋口徹

会場:宮城県美術館
   宮城県仙台市青葉区川内元支倉34-1
会期:2000年1月22日(土)〜3月26日(日)9:30〜17:00
入場料:一般800円/大学・高校生400円/小・中学生300円
主催:宮城県美術館、河北新報社、NHK仙台放送局
問い合わせ:Tel. 022-221-2111

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report学芸員レポート[CCGA現代グラフィックアートセンター]

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 CCGAは企業が経営する施設である。そこに勤める身にとっては、「企業とアートをどう結びつけるか」「ここで行う活動は企業にいかに貢献するか」ということが、つねに最大にしてもっとも難しいテーマだ。先日も、インターネットの掲示板で、企業によるアート関連事業ではトップランナー的存在だった某社の社員の家族という人の書き込みを見つけた。書き込みの内容は、ぼくたちにはあれだけ光り輝いて見えていたその会社の美術館も、他部署から見れば「お荷物」以外の何物でもなかった、というものである。そういう反応にいまさら驚きもしないが、だからと言って無視していれば良いという問題でもない。
 公立美術館が地域社会に果たすべき使命をもつように、企業美術館には企業に対して果たさなければならない使命がある。ところが、この使命というものが公立館のように自明なものとしては存在しない。企業の業種や成り立ちに応じて多様なケースが考えられるし、さらにやっかいなことには、企業自身が運営する施設の目的をはっきりとは定義しない場合も多い(これは無理のないことである。芸術の存在意義などそう簡単に定義できるはずもないのだから)。だから、ぼくのような立場の人間は、まず職場の存在意義について自ら考え、答えを出さなければならない。実際それについてはいろいろ思いもあるのだが、最終的には企業である以上、いかに金銭的な利益に結び付けていくかという問題に帰着する。すなわち、場合によっては活動停止によるコスト削減も、貢献手段の選択肢に入るということである。もちろん、そうなってしまわないよう担当者は必死なのだが。
 とりあえず、ぼくは今の自分の仕事が、会社にとっては将来に向けた基礎研究か先行投資の一つだろうと思っている。たとえば、ニューヨーク近美やホイットニーといった有名美術館、あるいはソーホーやチェルシーのギャラリー群は、ニューヨーク市の重要な観光資源として、もしくは世界中の優秀な人材を惹きつける磁場として機能し、そのことでアメリカ企業は計り知れない恩恵を受けているはずだ。同様に日本の同時代のアートも10年後、20年後には、日本企業に莫大な利益をもたらしてくれるかもしれない。そうなるためには基礎研究が必要だし、それが現実となった時、先行投資をしていた者がその恩恵に第一にあずかる、という考え方である。これが、ノルマに追われ激務に耐えている他部署の同僚たちになかなか理解してもらえないことは重々承知している。しかし、こちらとしてはそれが現実のことになる日を夢見て日夜次なる戦略を練るだけである。

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