「もてなし」展のそもそもは、いくつかの個人的な出会いに始まります。「障碍(しょうがい)の美術」シリーズを手がけている和田千秋さんが茶人の中村海坂さんと共同執筆した、「障碍の茶室」の企画書を拝見したのが去年の夏頃。実現のめどがたっていないと聞き、いつか一緒に実現させようと約束したのを覚えています(その後、ミュージアム・シティ・福岡2000で最初に実現しました)。きむらとしろうじんじんさんの「野点」に初参加したのは、一昨年の秋、アサヒビール本社前でした。じんじんさんの九州初上陸の野望(?)を聞き、ぜひ、ともに果たしてみたいと心密かに思いました。
「障碍の茶室」と「野点」は、簡単にいえばお茶つながりです。しかし、和田さんたちはお茶や福祉をめぐる問題をいかにアートにしていくかを、じんじんさんは「屋台商売」としていかにアートから離れるかを課題としており、この両者はかなり異なるスタンスに立っていることがわかってきました。
けれど、子どもと一体となった訓練の日々から、現代美術のリハビリテーション(社会復帰)ともいえる「障碍の美術」を手がけている和田さんや、さまざまなボランティア活動を日常的に行うなかで茶道を見つめなおしている中村さん、そして、公共施設や建築のプロジェクトなど、美術館や画廊での発表で完結するのとは異なる表現システムに注目している坂崎さん。そして、HIV・AIDSに関するNGO「エイズ・ポスター・プロジェクト」に参加しつつ、「野点」を展開中のじんじんさん。4人の表現者たちが社会とアートとかかわりに深い関心を寄せており、それが彼らの生活そのものであることに大きな共通項も見出せました。
ある限られた時間と空間と機会においてのみ成立する《茶会》は、人ともの、人と人との「出あい」からすべてが始まる、安らかでいて奥深い「現場」です。そこでは、見ること(人)と創ること(人)は限りなく近づき、融けあい、分けることができません。《障碍の茶室》と《野点》の作家たちは、創り手がすべてを司る世界ではなく、「現場」で出あう人たちとの共同から生れる幸福な世界に、大きな可能性を感じています。心を込めて人を迎え、丁寧に人と接するという意味の「もてなし」。コミュニケーションが本当に創造的であるためには、この「もてなし」の態度が大切なのです。
これは、リーフレットに執筆した本展のメッセージです。茶会プロジェクトを二本立てで行い、それをもって「もてなし」展とした理由はこのとおりですが、「もてなし」の亭主として、いかに美術館(美術展)が機能しうるか、という課題もここには含まれています。
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今回の「障碍の茶室」のテーマは「対立を越えて」。障碍をもつ方はもちろん、さまざまな人たちが自由に交流できる場として、茶会へ誘う伝統的な「もてなし」の空間である「待合、露地、茶室」を、坂崎さんが非日常の美術館の中に取りこみました。
まずは室内から美しい庭や池や森の入り口を眺望する見立ての「待合」でくつろいでいただきます。
「露地」では車イスの練習もかねて、和田さんが読み解いたさまざまな時代やジャンルの福岡県立美術館コレクションの森を散策。意外な組み合わせや方法で展示された作品群は、「美と醜」「貴と賎」などの対比を際立たせながら、美の多様なあり方を静かに語りかけてきます。
そして、「無碍(むげ)」というネオンに導かれながら長い坂道を上り、回廊を通って、いよいよ茶室に向かいます。週末の《峠の茶会》は、《障碍の茶室》のシンボル、車イスで通れる高さにあわせた「にじり口」をくぐることに始まります。また平日は、居ないはずの亭主・中村さんの気配やもてなしの心を伝える映像が茶室内で放映されます。
障碍を持つ方には限りなく楽に、持たない方には少々不自由を感じていただきますが、ともにお茶を楽しめるように工夫された和田さんたちの茶室では、心地よい緊張感と思いがけない出あいが待っています。亭主の中村さんによれば、お茶会の間中、たまたま席を同じくしたお客さんたちがお茶を仲立ちにいろいろなおしゃべりを気楽にされるとか。お茶会を終えられてでてこられた障碍者の方の表情が、お茶会前と異なってとても明るかったことがうれしかったです。
楽焼きの窯やお茶道具を乗せたリヤカーを引いた、ドレスアップしたじんじんさんが、福岡の日常にふらりと現れるのは来週。絵付けに挑戦して自分だけの茶碗をつくったり、お茶やおしゃべりを楽しむなかから、予想外の事件や生き生きとしたコミュニケーションが次から次に「誘発」されていく《野点》の醍醐味を、多くの方たちが(もちろん私も)心待ちにしているところです。