この展覧会を見ての率直な感想は、「空間」に対する意識の希薄さである。いきなりネガティヴに聞こえる書き方をしてしまったが、この展覧会に対する否定的な見解を示すつもりで書いたのではない。この原稿を書いている筆者のものの見方の偏りがそういう判断をさせたであろうことも含めて、まずは率直な感想、つまりはこの不思議な展覧会の際だった特徴が「空間に対する意識の希薄さ」であったことを指摘したいのだ。
しかし、一般的に見れば、この展覧会にももちろん空間に関わる作品が含まれている。ポスターにも使われているチャーリー・シュタイガーの光を使った《improptu》や、観客の動きによって会場の照明を変化させるアヒム・ヴォルシャイトの《place, art and visitors》 などは空間との密接な関わり抜きには成り立たない作品であるし、ほかにもそれぞれの仕方で空間との関わりを指摘できる作品はかなりある。では、にもかかわらず、筆者がこの展覧会から「空間に対する意識の希薄さ」を感じたとすれば、それはどういうことだろうか。
まず筆者自身の美術に対する偏った見方を前提にすれば、筆者の関心が過剰に「空間」へと向いていることに起因することを明記しておかねばならない。しかし、筆者の偏向をもう少し一般化した上で次のように述べることも可能だろう。すなわち、美術に関わる人間が意識している「空間」と、この展覧会の出品作品が関わっている「空間」とが、異なった認識において成り立っていることに起因するのであると。その事を考えるに及んで、ようやく私の思考はこの展覧会の本来の趣旨を射程におさめることになった。
つまり、私が感じた「空間に対する意識の希薄さ」とは、ある別の問題についての過剰ともいうべき強い意識が打ち出された結果なのではないかということである。では過剰なまでに強く打ち出されたのは何かといえば、展覧会タイトルにもある「出来事」である。「出来事」の重視の結果、「空間」に対する意識が希薄になる。現代美術の展覧会としてのみではとらえきれないこの展覧会を、あえて美術の文脈で語ろうとすれば、絵画の空間から現実の空間へと射程を移行させたミニマル・アート以後、自己完結的空間が崩壊し、イベント(=出来事!)やパフォーマンスが盛んに試みられ、また、それらのインストラクションや記録としても重要であった言語や写真を主要な媒体としたコンセプチュアル・アートの浮上という歴史の局面とクロスオーバーしてくる。実に興味深い。断っておくが、この展覧会の出品作家が作品が直接にコンセプチュアル・アートからの影響を受けているかどうかを論じたいわけではない。そうではなくて、作家や企画者の意図するところではないかもしれないが、見る側からすれば、この展覧会について言及するならばコンセプチュアル・アートを避けて通れないということがいいたいのである。
具体的な出品作家や作品にふれないまま話がどんどん抽象的になってしまったが、そういうことを考えさせる展覧会だったということでご了承願いたい。最後に、ここで論じてきた議論をさらにすすめていくと見えてくる問題を指摘しておくならば、ミニマル・アートの限界のひとつである「現前の限界」を超克する契機を、かつてのコンセプチュアル・アートとの相違を視野におさめながら見いだすことである。そうした視点で注目すべき作品として、文字に注目した古屋俊彦の《合成六角文字文書群》、周波数という人間の通常の感覚では把握できないレベルにおいて空間をとらえようとした志水児王の《perspective movement or diagram》、音の反射や音の移動によって知覚と空間把握の関係を問う角田俊也の《点の反射を聞く》などを挙げることができる。もし許されるならば、稿を改めてもう少し具体的に論じてみたい(説明不足の点はご容赦願いたい)。[埼玉県立近代美術館学芸員/うめづげん]