|
ク−・ジュン・ガ展――降りる・潜る |
|
2/2〜17 重森三玲邸[京都] |
|
|
|
ク−・ジュン・ガ展をコマンドNの坂口さんと観に行く。以前、このサイトでも紹介したG・オロズコ展と同じシマ・プロジェクトの一環だ。オロズコ展のときとは季節も違うので、庭の趣きも随分異なる印象だ。おや、作品は何処に?と思ったら、庭を一望できる位置に座布団が1枚、そしてその傍らにオペラグラスが用意されていた。勿論これが作品のわけではない。オペラグラスを目にあてて、庭を見渡してゆくと、キラキラ光るものを発見。説明をこれ以上するのは野暮って気さえします。この展覧会に来た人にしかわからないってことにしておきたい……。なぜなら、言葉にすると陳腐になってしまう恐れが“大”なので。すぐ、帰るつもりだったが、本展キュレイターのナタリー・ヴィヨ とク−・ジュン・ガとのトークがあり参加することにする。ヴィラ九条山に移動。嘉藤さんの顔も見えたので詳しくは彼女からリポートがあるかもしれません。
[2月3日(土) 原久子] |
|
|
シンポジウム「〈美術/展示〉の現在――表慶館からの遠近法」 |
|
2/3 東京芸術大学音楽学部5-109 |
|
|
|
東京国立博物館の表慶館で行なわれている「美術館を読み解く」展に関連したシンポジウム。各地の美術館学芸員が、表慶館の歴史や東博のコレクションのこと、近代美術館の矛盾、金沢市現代美術館の展望などについて報告したあと、出席者全員でディスカッションした。それぞれそれなりに興味深い話だったが、いちばんおもしろかったのは最後に出てきた浅田彰。表慶館の展覧会もそれまでの報告も「知的でない」「10年前と同じ」などとバッサリ。たとえば金沢市現代美術館については、「この程度でだまされるようじゃ金沢市民の文化度は低い」と毒づいて、「巨大なゴミ箱に終わるだろう」と予言。彼の言いたいのは、「美術館は古いものなんだから保守本流で突っぱれ」ということだ。ごもっとも。その後のディスカッションでは、金沢の長谷川祐子がなんとか取りつくろおうとしていたものの、あとの学芸員たちは押し黙ってしまい、浅田彰のひとり舞台。これだから美術はさげすまされるんだよ。
[2月3日(土) 村田真] |
|
|
アモルファス・アイ/不定形の〈私〉 |
|
2/4〜27 京都芸術センター(ギャラリー) |
|
|
|
昨年4月にオープンした京都芸術センターのギャラリーの空間にふさわしい作品プランを公募。入選作家の木村望美・森太三のそれぞれの作品がギャラリー北・南の各部屋を用いて発表された。真っ白な四角い部屋にただ透明なバルーンがあるだけなのだが、木村望美の空間を捉えるセンスは、絶対的な計算の上に成立するものではなく、彼女の身体感覚が捉えたもののようだ。「ゼロ」というタイトルは、バルーン業界(?)の専門用語だとか。地についてもいないし、あがってもいない状態。
[2月4日(日) 原久子] |
|
|
徳田憲樹展――嗅覚の生理学―失われゆく身体 |
|
2/6〜17 ギャラリー16[京都] |
|
|
|
香り付きの石鹸をスライスして貼り、会場にインスタレーションをする徳田氏。すでにこの素材を使い始めて4年ほどになる。今回の個展では、目・鼻・口・耳などの部分や胴体の石膏像にスライスした石鹸を貼りつけている。画廊の展示室ではなく、事務所の壁に石鹸だけでつくられた鼻があった。これまでの展覧会で使用済みとなった石鹸を再利用したものだそうだ。人工的な強烈な香りも時間がたつと鼻のほうが慣れてきてしまう。
[2月6日(火) 原久子] |
|
|
東恩納裕一 |
|
2/3〜27 book cellar amuse[大阪] |
|
|
|
食卓テーブルとそれを囲む椅子、レースのカーテン、新聞広告などに出てくるモデル住宅の輪郭線やシルエット。ある種の典型的な豊かさのアイコンでもあるそれらはちょっとファンシーだったりする。黒いゴムひもでつくった格子のなかに閉じ込めるなどし、愛着を込めて皮肉っている。
[2月7日(水) 原久子] |
|
|
Photography 写る、写す(後期) |
|
2/9〜22 大阪府立現代美術センター |
|
|
|
前期は、アンセル・アダムスやブレッソンなど20世紀を代表する写真家たちの作品の展示だった。後期は20代の作家がほとんど。新しい世紀をこれから引っ張っていくであろう世代と言っていいのかもしれない。澤田知子の証明書写真を使ったIDシリーズはいつ見てもおかしい。山中葵のアパートのベランダのコラージュは、これまでのコラージュとは少し違うデジタル世代の感覚だ。
[2月9日(金) 原久子] |
|