Dec. 3, 1996 | Dec. 17, 1996 |
Art Watch Index - Dec. 10, 1996
【ブロードウェイ・ミュージカル『ブタが空を飛べば』 (ハワード・クラブツリー作)】 ………………● キース・ヴィンセント
【《プロメテウスの解放》(ハイナー・ゲッペルス演出)】
【何故ダンス以外はおもしろいのか
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《プロメテウスの解放》
《プロメテウスの解放》舞台
彩の国・さいたま芸術劇場 http://www.uinet.or.jp/ ~ishiyasu/artheatr.html
People: David Moss
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Time & Again - Berlin Wall
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《プロメテウスの解放》 ●四方幸子
ハイナー・ミュラーのテクストを音によって創出
ゲッペルスがメタルプレートに石を投げつける。この物理的な行為の結果生じた音を端緒として、さまざまな音の断片や塊が、炸裂しはじめる。作曲家であり演出家、演奏家として独自の活動を続けるドイツのハイナー・ゲッペルス演出による《プロメテウスの解放》(彩の国・さいたま芸術劇場)は、ハイナー・ミュラーのテクストを音によって、また音との関係において新たに創出した。 境界を越えて移動する音とテクスト ステージはいたってシンプルである。キーボードを中心にさまざまな手法で電子音を駆使するゲッペルス、ドラムスほか豆の投下やアルミフォイルなどを音源としてとりいれるだけでなく、自身を楽器として破裂音、摩擦音などを駆使した超絶的な肉声で特定の"味や人称から離れ、複数性へと開くデヴィッド・モス、そして舞台を歩き回りながら、マイクによってこの情念的かつこっけいなテクストをマシニックに語るアーネスト・シュトッツナー。ここに演奏とアクターとの空間の分離はなく、音とテクストは、同じ場所から生起することになる。音でさえ、断片、連続や衝突、またロックやジャズ、映画音楽などさまざまな様式に時には乗り入れ、テクストは、言葉としてのみならず拡声装置によってパロールとして空間に放たれる。演奏家/俳優、音/テクストは、つねに境界を越えて移動しうるのだ。 批評/問いとしての作品
神と人間とのインターフェースであるプロメテウスは、ここでも両義的な存在として浮上する。極度の苦しみと悪臭による鷲との同一化、つまり抑圧による愛着が、解放という<暴力>によって喪失されたことへの痛みとなる相反性。これをドイツ統一という文脈において解釈することも可能だろう。ミュラーの72年の作品《セメント》の作品内作品からゲッペルスがこの作品を創作したのは、ベルリンの壁崩壊直後の90年である。東側の反体制的闘争家としてのミュラーによる作品を、西側の戦後世代であるゲッペルスが再統一前後において上演することの意味。それは、闘争対象を喪失した闘争、もしくは闘争対象自体が外部にはなく内在化された状況での闘争/闘争自体への問いということになるだろうか。 [しかた ゆきこ/美術批評家]
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『珍しいキノコ舞踊団/電話をかけた、あと、転んだ』
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何故ダンス以外はおもしろいのか ●桜井圭介
ダンスは本当におもしろいのか??? 「ダンスは本当におもしろいのか?」というシンポジウムをどこかでやるらしい。僕の答え―「今どきのダンスはそれがダンスであるぶんだけおもしろくない」。ダンスという形式、ダンスというメディア、ダンスという名(指し)、それを選択する理由がわからない。というようなことを『珍しいキノコ舞踊団/電話をかけた、あと、転んだ』で僕は強く感じたのだった。 グルーヴィなものならみんなダンス? 実はこの公演のパンフレットには、キノコたちと僕、それからもう一人の劇作家のトークが掲載されていたりもするのだ。たしかにこのカンパニーのようなポップなものが、今どきの日本のダンス・シーンに必要だという点で擁護したいと思っているのも事実だ。ダンスはグルーヴがなくっちゃ、グルーヴィなものならみんなダンスと呼ぼう、という意味では、彼女たちの「くーだらないことをおもしろがって実践する」勇気は評価し得る。今回のステージでも「勇者ライディーン」(のつもり)が登場、“うまく身動きの取れない”着ぐるみでダンスしてくれたが、実にグルーヴィでよい! あるいは、ひたすら寝ているだけの奴とか、動物や自動車、富士山のイラストを切り抜いた書き割り、稚拙かつキュートなアニメーション映像、などなど要するに“ダンス以外(or以下)”なもの、がグルーヴを獲得していた。では「ダンス」=「踊り」のほうは? ダンス≠グルーヴィ、ダンス≒ダンシー 「それ」はあまりにも「ダンス」であった。よく身体のきくダンサーを使ってそれなりに考えられた振付である「それ」は何故かちっともグルーヴィじゃない、ダンシーじゃない、ただ、「ダンスなわけだな」としか言えない。ライディーンその他がダンシーなだけにその落差はより歴然としてしまう。こうなると、『電話をかけた、あと、転んだ』というパフォーマンスの“ガン”はダンス(部分)、ってことになるじゃないか。おそらく、彼女たちの場合、手っ取り早い対処法は、舞台上での「踊り禁止」にまさるものはない。一度やってみたら、とも思う。それはそれでダンシーなパフォーマンスであろうし、それを「ダンスです」と言ったって全然いいわけだから。でも、それでいいのか、キノコ? たぶんよくないだろう。僕もダンスが好きなのであまりうれしくない。 ダンシー、観るものの身体がほころぶ瞬間 何故「ダンス以外(or以下)」はおもしろいのか? それは、それがダンス(・パフォーマンス)の「領域の越境」、「表現の相対化」だからではなく、繰り返すが単にダンシーだからだ。ダンシーとは関節はずし、観るものの身体がほころぶ瞬間、正しい意味で「ディコンストラクティヴ」であることだ。ならばどうしてダンス=踊りじたいのズッコケを目論まないのか? あるいはどうしてズッコケ・ダンスを踊らないのか? このことは「どうしても優等生」な日本のコンテンポラリー・ダンス全般の一番の問題かも。ダンスやる奴はみんな、マイケル見ろってんだよ、とまではいわないが(あれは“黒人”のグルーヴのなかの最高ネ)ジャミロ・クヮイのジェイ・ケイなんかもごらんになったらどうすかー?って。
[さくらい けいすけ/ミュージシャン]
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