「脱世界史的」東京の模像?
─Nest "Syntax Error"
●熊倉敬聡
何やら仰々しい肩書き「intermedia performance unit」の付いているNestの新作"Syntax Error"を観た。実は、Nestを観るのはこれが始めてである。2回ほどチャレンジしたのだが、都合が付かず、だいたい以前からダンスに多少とも詳しい友人たちが観て一言「ひどい」と言っていたので、もともとあまり観る気がしていなかった。そして今回ようやくそれを自分の目で確かめるチャンスが訪れたわけだ。
すべてが「様式」に捧げられたステージ
装置、映像、音響、ライティング、衣装デザイン、ダンスと、すべてがスピーディで「かっこよく」、しかも一見すると爆発的なエネルギーに満ちているようなのだが、そこでは、すべての要素が内在的な強度をあらかじめ失っていて、ただ「様式」に空しくも捧げられていた。たとえば、壁面に目まぐるしいフラッシュとして投影される様々な映像。「科学」的なスキームや、都市の断片的なイメージ、デジタル数字など、いかにも「意味」ありげな映像が続くのだが、そのフラッシュのスピードがあまりにも速すぎて、映像の持つメッセージがほとんどつかめない。おそらく、彼らにとって重要なのは、それらのイメージがいかなるメッセージを持っているかどうかなのではなく、あくまで「スタイル」としてそれらの映像を造形的に使うことなのだろう。あるいは、上下に昇降する4本の水平の「メタリックな」外見のバー。この昇降の運動にダンスが絶えず絡んでいくのだが、そこにもいかなる強度も生まれてこない。たとえば、ダムタイプの"pH"の有名な2本のトラスがダンサーたちと生み出したテンションと比べると、そこから「スタイル」だけを借用してきたようにしか思えない。あるいは、ダンスそのもの。ダンサーの身体は、もちろんある種のメッセージ性を担うこともなければ、“肉”の闇の方へと「残酷の演劇」を生成するのでもなく、ただただ「ダンス」という様式、記号を外在的になぞっているにすぎない。
なぜ、未だにこのような「世界史」的に希有な舞台がつくれるのか?
冷戦構造の崩壊後、地球上では、地域戦争、エイズ、絶対的貧困、人種・民族・性差別、テロリズムなど、リアルな暴力が噴出している。思想界でも、(是非はともかく)それらの物理的・社会的暴力を問題とする「カルチュラル・スタディーズ」なるものが、アメリカを中心に流行している。そしてようやく日本の現代アートの世界でも、ダムタイプを筆頭にそうしたいわば「世界史的」問題を真っ正面から取り上げるアーティストが数は少ないながらも出てきた。そんな中にあって、それらの「暴力」を“情報”に還元し、造形的な外在的エレメントとして構成・様式化してゆく。そのような「脱世界史的」で、無菌的で、「脳天気な」舞台こそ、今回のNestの舞台に他ならない。
それは図らずも、未だに「脱世界史的」な側面を持つ“東京”の模像となり得ているのかもしれない。
[くまくら たかあき/ フランス文学、現代芸術]
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