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ArtDiary ||| 村田 真のアート日記
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7月26日(土)

恵比寿会議第1回決起総会なる飲み会が、なぜか「にほんばし」という飲み屋で開かれた。恵比寿から代官山にかけての一帯には、北川フラム率いるアートフロントギャラリーと南條史生率いるナンジョウ&アソシエイツの“南北朝”をはじめ、オオタファインアーツ、ハヤカワマサタカギャラリー、P‐HOUSEなどが店を構え、川俣正、PHスタジオの事務所もあって、なんとなくアートが漂っている(そのオコボレにあずかろうと、ぼくも2年前まで恵比寿に住んでたし、今の仕事場も恵比寿寄りの渋谷だ)。
 で、この会はどうも大田氏と早川氏あたりが仕組んだらしく、最初は彼らがナンジョウ&アソシエイツの女の子との合コンを企てたところから話が大きくなって、結局ワケのわからない会になったようだ。参加者は、ワコウ・ワークス・オブ・アートの和光氏、レントゲンクンストラウムの池内氏、小山富美夫ギャラリーの小山氏など、若手のディーラー(大田氏によれば「ちびっこ画廊」)や、昭和40年会やスタジオ食堂の連中、それに編集者、ジャーナリストなど50人以上も集まった。なぜか美術館の学芸員には声を掛けてないらしい。驚いたのは、ギルバート&ジョージとアンソニー・ドフェイ夫妻が現れ、P‐HOUSEでの2次会には、ジェフリー・ダイチやハンス・オブリストまで顔を見せたこと。いったいここはどこなんだ? 恵比寿だった。

7月30日(水)

SPA!8月6日号で「インターネットに日記を晒す人たちの快感」と題する特集。記事によると、こうした“WEB日記”は日本特有の現象らしく、そのリンク集「日記猿人」に登録されているものだけでも約800サイトあるという。オドロキだ。個人の体験やたわいもない感想をつれづれに書きつづった日記など、いったいだれが読むというのだろう。ワルイ趣味である。
 と思ったら、これがけっこうな人気のようで、「WEB日記を書いたり読むことに生活の大半を費やしている人を意味する『日記廃人』なんて“専門用語”も、この世界には登場している」らしい。日記を書くことに1日の大半を費やし、他人の日記を読むことに人生の大半を費やしてしまうとしたら…これは笑いごとである。自分の日記を他人にさらすなんて、ぼくには信じらんないね。

8月1日(金)

日経アートの取材で、北千住の大岩オスカール幸男のスタジオへ。その後オスカールに連れられて、東向島にこの秋オープン予定の私設ギャラリー「現代芸術製作所」を視察。ゴム工場の一角を改装したもので、約100平方メートルの展示場を持つ。まだ内装は完成してないが、大森にあった旧レントゲン芸術研究所を思わせるハードな空間だ。東武伊勢崎線の東向島駅から徒歩5分。地の利がいいとはいえないが、工場の若旦那が熱心な美術愛好家なので、ぜひ応援したい。
 ところでこの東向島、旧駅名が玉ノ井だったことからもわかるように、昔は有名な赤線地帯で、永井荷風の小説の舞台にもなったところ。今ではその面影はないし、またこの街のシトもそれをウリにするつもりもないだろうけど、なんか街の歴史や文化が隠蔽され(駅名を変えたりとか)、どこにでもある無個性な風景になっていくのはもったいない気がする。というのは非住民のエゴだろうか。

8月2日(土)

水戸芸術館で「日本の夏1960‐64こうなったらやけくそだ!」のオープニング。60年はネオダダイズムオルガナイザーズの結成年、64年は読売アンデパンダン終息の年。社会的にもこの時期は、60年安保闘争から東京オリンピック開催までの、狂乱と高度成長の季節に当たる。ぼくも幼稚園で「アンポ、ハンタイ! アンパン、クイタイ!」と、デモに参加していたのを思い出す。
 ところが展示からは、そんな熱気はまったく伝わってこない。当時の映像や関係者たちの証言を集めたのはいいけど、肝心の作品が少ないし、第一、読売アンパンを中止に追いやったというクサイ作品、アブナイ作品らしきものが見あたらない。もちろんそんな作品はもはや現存しないが、それにしても「日本の夏」とか「こうなったらやけくそだ!」というには寒々しく、こぢんまりまとまってる印象だ。クリーンルームのような現代美術ギャラリーの空間と、場違いな宮脇愛子の作品が、冷却装置とブレーキの役割を果たしてるんでねーかい?

8月4日(月)

明大前のキッドアイラックホールにて、「アジアにおけるパフォーマンス・アートの意義、その現状と未来」と題するシンポジウム。これは、パフォーマンス・アーティストで、NIPAF(NICAFじゃなく、「日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル」の略)の主宰者、霜田誠二が企画したパフォーマンスとシンポジウムの連続展の初日。
 この霜田氏と知り合ったのは、ぼくがぴあに入った年だから、ちょうど20年前。当時はまだパフォーマンスなんていわず、霜田氏も自分の行為を「独断舞踏」と呼んでいた。日本で最初に「パフォーマンス」という言葉を使ったのは、ぼくの知る限り、70年代末から「パフォーマンス・シリーズ」を始めた浜田剛爾氏だ。それが80年代に入るとイッキに広がり、だれもかれもがパフォーマンスと言い始めるようになった。ぼく自身もぴあ誌上でずいぶんパフォーマンスの記事を書き、あおったけどね。
 82年には国際交流基金の招きで、ブルース・マクレーンダニエル・ビュラン(昔の名前で出てました)、ダン・グラハムらが来日し、パフォーマンスを繰り広げ(自他ともに認める南條史生氏のデビュー作)、84年にはヨゼフ・ボイスナムジュン・パイクのデュオをはじめ、リサ・ライオン、シンディ・シャーマンローリー・アンダーソンらが、ありがたくも日本人にパフォーマンスのお手本を示してくれた。これを頂点に、翌85年には「パフォーマンス」が流行語になり、市民権を得ると同時に形骸化も始まった。たとえば、政治家のちょっとしたスタンドプレイを「パフォーマンス」と言い換えるとかね。
 ちなみに、80年代のいわゆるニューウェイヴの作家たちも、しばしば展覧会のオープニングなどにみずからパフォーマンスを披露していたものだが、問題は、それが展示作品とはほとんど関係なく、なんの必然性も感じられなかったこと。要するに、みんなやってるからぼくもやらなきゃみたいな、オープニングのにぎやかし程度のものに成り下がっていったのだ。こうなるともうおしまい、「パフォーマンス」と銘打ったものは見たくなくなってくる。結局、日本では「パフォーマンス」という言葉が台風みたいに通り過ぎただけで、ごく少数のアーティストを除いて、パフォーマンスを行うモチベーションを持ち得なかったのだ。
 という話をしたら、中国の陳式森も、タイのチュンポン・アピスックも、シンガポールのリー・ウェンも、韓国のホン・オボンも、うちも似たような状況だといいつつ、しっかり政治との関わりを強調していた。だからそこが違うんだよーい。

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