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クロニクル、展示/蒐集−4
本物は誰だ!
《パリ市立ザッキン美術館蔵「ザッキン 彫刻と素描展」》
UAF ユーアーエフ
(Un Air de Famille)

1943年、ドイツ占領下のパリである画廊を訪れた美術史家ピエール・フランカステルは、躊躇いなくその時の感動を語っている。「これまで絵画の発見がこれほど嬉しかったことは滅多になかった。真実の絵画、偉大な絵画、新しい絵画、それは、パリが、まごうかたなきパリが、若者たちのパリが、俗物どもには知り得ないパリ、そうした輩がセーヌ川の両岸に数カ月間もしくは数年間居座ったところで、知ることはないであろうパリが、この戦争を生き延びたことを証言しているだけにいっそう感動的なのだ」。おそらくこの時、少なくともこの美術史家の語彙の中では、フジタやシャガールに代表される、1920年代、30年代にモンパルナス周辺を拠点に活動した外国人芸術家たちを指していた「エコール・ド・パリ」という言葉が、その意味するところを変え、フランスの偉大さ、伝統、生命力を表象する芸術の謂いとなったに違いない。

パリ市立ザッキン美術館蔵
「ザッキン 彫刻と素描展」


●茨城県立近代美術館
1998年5月16日〜6月14日

●清春白樺美術館
1998年6月23日〜7月26日

東京都庭園美術館
1998年8月8日〜9月27日




パリ市ザッキン美術館の収蔵品から選ばれた彫刻40点、デッサン50点を通して、その画業が回顧されることとなったザッキン(1890年ー1967年)もまた「エコール・ド・パリ」という言葉の意味が戦後、転換することで、いわば聖別化された一人であると言って良い。1909年に初めてパリを訪れ、ロシア革命後、定住を決意、戦間期にはモンパルナスで先述の芸術家たちと活動をともにしたこの彫刻家が、文字通り「フランスを代表する」彫刻家となるのは第二次大戦後のこと。戦禍をアメリカに逃れ、終戦後パリに戻ったザッキンは、復興を目指すヨーロッパを励ますかのように、《破壊された都市》を制作、ベルリン(1947年)、パリ(1949年)での展示に続いて、オランダ、ロッテルダム市の発注によりルーヘハーヘン北岸に、この高さ6.5mの大作が設置されるという名誉を得る。1949年、パリ国立近代美術館で最初の回顧展。翌50年にはヴェネツィア・ビエンナーレで彫刻大賞受賞。1960年、芸術国家大賞受賞。ところで、その芸術活動を時代別に概観してみれば直ちに分かるように、この彫刻家は、その時代に「前衛」と見なされた造形言語(とりわけ絵画の)を彫刻に翻訳するのに長けていた。先に触れた「エコール・ド・パリ」なる言葉の転換、すなわち、ドイツ占領下にあっては、幾人かの反動的批評家たちによって、パリに住み、意味不明の(造形)言語を話すよそ者集団を蔑む文脈で使われもした言葉が、戦後、一転して芸術の都パリ、芸術の最先端が生み出される場パリという神話を支え、過去と未来の蝶番として機能することになる、そのような転換に際して、様式の見本市と言うべきザッキンはまことに都合が良かったというのはあまりにうがった見方に過ぎるだろうか。
この彫刻家は日本との関わりも深く、フジタの斡旋で1920年代から二科会に参加していた。戦後、ブールデルの後を襲って、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールの教壇に立ち、日本人留学生を教えた縁で、フジカワ画廊の扱うところとなり、その仲介もあって、1954年にはブリヂストン美術館で個展が開かれる。1959年の国立西洋美術館開館にあたっては、フランス政府の文化使節として来日、アンドレ・マルローのごとくフランスにおける日本文化紹介者たらんという気負いはさすがになかったようだが、京都や奈良を訪れた際には、国宝の仏像や絵画よりも高野山の自然に対する興味を語り、自然を愛する芸術家を深く印象づけた。「エコール・ド・パリ」の芸術家として聖別化されたにふさわしく彫刻家は、没してなおパリ市の文化使節の役割を務める。すなわち、1989年には、東京とパリの姉妹都市提携事業の一環として隅田川とセーヌ川の友好関係を記念する作品《メッセンジャー》(中央大橋に設置)と《住まい》(東京都庭園美術館蔵)が寄贈されたのである。
 今回展示された作品の収蔵先であるザッキン美術館は、彫刻家の妻で画家のヴァランティーヌ・ブラックスにより寄贈されたザッキンの遺品とアトリエからなる。リュクサンブール公園にほど近いこの美術館は、1928年から亡くなる1967年まで、彫刻家の生活と制作の拠点となっていた。庭には作家の存命中と同様に彫刻が配され、今回は出品されなかった石材や木材による作品も展示されているという。シャガール、キスリング、モディリアーニ、そしてザッキンも一時を過ごしたアトリエ兼集合住宅ラ・リュッシュ、芸術家たちの溜まり場であったモンパルナス大通り沿いの名高いカフェ、そしてグランド・ショーミエールなどが集まったこの近辺は、パリがまごうかたなき芸術の中心地であり、多くの留学生を集めていた時代の記憶と結びついた場として、言い換えれば、「エコール・ド・パリ」という言葉の最も幸福なイメージの背景として、パリの観光名所の一つに数えられている。ザッキン美術館の外観は、このたびの展覧会図録でも紹介されているが、我々にとって興味深いのはむしろカタログの表紙に採用された、芸術家存命中のアトリエを写した一枚だ。そこには鑿ならぬパイプを片手に着飾ったザッキンが、作業が進行中というにはあまりにも整然と並べられた自作の前でポーズを決めている。ロダンやブランクーシなどの先達が作り上げた彫刻家像(恰幅の良い髭面男)とも、裸で透明な画板の前に座り、一つの作品が描かれたかと思うと直ちにそれを消して、全く異なる構図の絵を描くという場面を映画にとらせたピカソのそれとも異なる、いわば文化的教養人としての芸術家が自己演出されていると言って良いだろう。またその背景となっているアトリエは、まさに作業場として我々の目に触れたジャコメッティのアトリエは言うに及ばず、約束の時間以外は立ち入りを許されなかったという、神聖なことこの上ないブランクーシのそれとも、またアトリエを自らの絵が壁に掛かった際にどう見えるかを実験する場としていたモンドリアンのそれとも異なる、いわば社交の場(当時からそこに仲間を集めて歓談するのが常であったという)としてのアトリエに他ならない。それはおそらく一人ザッキンにどどまらず、「エコール・ド・パリ」という芸術家を取り巻く一時代の環境が作り出した演出であったのではないだろうか。  

このザッキン美術館の成り立ちについて興味深い証言がある。1990年に山梨県立美術館で行なわれた『日本を愛した芸術家・ザッキン』展図録掲載の座談会、「日本を愛した芸術家ザッキン」におけるフジカワ画廊社長、美津島徳蔵氏の発言だ。「彫刻の原型はあっても、飾れる形になっているものがあまりない。……家や収蔵品を美術館らしく作っていきたいので、力を貸してほしいと言われた。……作ってもいいものは原型から作り、その中でも売ってもいいものは売って、美術館を充実させるのに役立てては、と……。それで日本で大展覧会をやろうということになった……」一般に石膏型ブロンズは、鋳造により版画と同じく「複数のオリジナル」が存在しうる。ロダン美術館やザッキン美術館の場合、作品の鋳造管理権は美術館に属しており、ひとたび美術館の所蔵となった原型は、鋳造にかかる相当の時間と費用が逆に足枷となることも少なくないものの、その財源となり得るのだ。
 ロダンは《地獄の門》のため構想された諸部分を、あちこちから注文が舞い込むようになると、単独像として切り売りし始める。そうしたロダンの振る舞いを引き合いに出しつつロザリンド・クラウスがオリジナルとコピーをめぐる美術史のイデオロギーを批判したことは良く知られている。作家の「手」になる原型、それを傷付けないための鋳造原型、鋳造原型から抜いた複数の作品(通常これがオリジナルとして展示の対象となる)。ロダンの戦略は、彫刻特有のこうした制作過程につけこもうとするものだ。そこにたとえば美術館鋳造の刻印入りミュージアム・グッズの類を付け加えるならば、作品という実体ではなくコピーライトといういわば「契約」によって成り立つ、彫刻における価値決定機構の奇妙な様態を支える諸条件が整ったと言って良いだろう。ある個人が自分の所有している彫刻作品を原型にしてブロンズ像を鋳造したりすれば、おそらくは贋作の誹りを免れ得ないのに対して、本来は鋳造の対象ではない古代の大理石像を所蔵先の美術館が型取りして作ったブロンズ像――その幾つかは仏像に倣ってか金貼り(!)を施されている――が門外不出の名品として展示されたりもするのだ(三重県一志郡白山町のルーブル彫刻美術館)。
オルセー美術館が保管、展示している《地獄の門》の石膏原型から取られた鋳造原型を元に、ロダン美術館理事会が静岡県立美術館のための新規鋳造を承認した6体目の《地獄の門》。初めての二分割鋳造法によるこの作品について、ロダン美術館館長は言う。「類希れな仕上がりとなったなめらかな金属表面や、美しく透き通ったパティナなどによって、これまでにない最も見事な出来になりました。静岡県はこれほどの作品を取得できたことを誇るべきでしょう」。作家の固有名を掲げ、その権威を通して芸術場における一定の位置を得ているはずの美術館、その館長にして、作家の「手」から離れ、作家の判断が及ばぬところとなった鋳造作業の仕上がり状態を新たに創作された「作品」について語るかのような口調ではないか。作家による生産はその「構想」にありとする伝統が、ここでもまた反復、強化されているというべきだろうか。あるいはまた、絵画を扱う通常の美術館が一点しかないオリジナル作品を納めることで、美術の流通回路における作家の価値を間接的に保証するのがせいぜいであるのに対して、彫刻家の美術館は、作品を自らの手で製造し、その美的価値を云々する権利までをも手にしているというのだろうか。  

特定の芸術家集団を指し示していたはずの「エコール・ド・パリ」なる呼称が、芸術の、ひいてはフランス国家の黄金時代が今に続いているという桃源郷に入り込むための合い言葉として機能し、そればかりか逆に芸術家の立ち居振る舞いを規定してしまう。かと思えば、作家以外の「手」が作品の価値に大きく関与するものとして賛美されもする。彫刻家の美術館、あるいは彫刻を扱う展覧会、そしてこの度のザッキン展が我々に垣間見せているのは、「創造」の主体として神格化され、長く美術をめぐる言説の中心にあった「作家」という概念が、現実の芸術場において機能するために組み込まれているエコノミーの現状に他ならない。

1997年6月17日号
Art Information Special
ヴェネツィア・ビエンナーレ
……●村田 真


nmp1997年7月24日号
ヨーロッパ3大国際展特集
ヴェネツィア・ビエンナーレ
……●名古屋 覚





芸術家の庭、樹木の記憶より
パリ市立ザッキン美術館
彫刻家のアトリエ
1998年6月11日-10月11日



ザッキン
アトリエでのザッキン
カタログ表紙より



マケット
「破壊された都市のマケット」
1947-1951年、ブロンズ
128x56x58cm



コンチェルト
「コンチェルト」
1930年、ブロンズ
69x52x30cm



打ち明け話
「打ち明け話」
1944年、ブロンズ
78x20x18cm



山の彫像
「山の彫像、あるいは庭園の彫像、あるいは風の吹き抜ける心」
1958年、ブロンズ
240x94x55cm



習作
「ある彫刻のための習作」
1943年、墨、薄墨、紙
61x48cm



人間の森
「人間の森」
1960-1962年、墨、薄墨、紙
65.5x50cm


パリ市立ザッキン美術館蔵
「ザッキン 彫刻と素描展」
カタログより
クロニクル、展示/蒐集−

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