キュレーターズノート

震災後の「絵描きと戦争」/「polar m」/平川典俊展

阿部一直(山口情報芸術センター[YCAM])

2011年05月01日号

学芸員レポート

カールステン・ニコライ+マルコ・ペリハン「polar m [ポーラーエム]」

 震災・原発事故発生前のこの2月まで、アーティストのカールステン・ニコライ(ドイツ)とマルコ・ペリハン(スロヴェニア)とキュレーター四方幸子とわたしの国際混合チームによる「polar m[ポーラーエム]」というプロジェクトを、山口情報芸術センター[YCAM]で展開していた。これは、2000年に企画した「polar」に次いで、10年ごとに、アーティストによる地球と情報の環境観測を、長周期的に行なうというプロジェクトで、10年後の2020年にも、3回目を企画する予定である。「polar」とは、対極・極点を示し、これまでの人間中心の人文主義と都市集中のフィルターからみた地球のヴィジョンとは異なる、巨視的なオルタナティヴを発想しようというものである。特にペリハンは、ここ近年、API(Arctic Perspective Initiative)を立ち上げ、グローバルウォーミングを迎えた時代に、これまで集約されてきていなかった北極を中心とした極地の知見を集積し、例えばイヌイットのオーラルヒストリーや伝承知識と最新の極地サバイバルテクノロジーや環境学を対等に結びつけ、公開していくというアート&サイエンスプロジェクトを進めているが、今回の「polar m」も、10年前の1回目より、さらに環境リサーチアプローチに傾斜したものとなっている。
 YCAMの企画による新作「polar m」は、パワーズ・オブ・テンとは反対のヴェクトルに意識を向け、地球の生態系を成立させている惑星間と太陽系の宇宙的な磁気関係を意識し、電磁波/放射線から派生するランドスケープを日常環境にまで微細に降ろしていこうとするものである。すべてを微弱な自然放射線データから捉え、アナログとデジタルの歴史的相違を持った多種類のガイガーカウンターで計測されるセンシングデータを、サウンドと映像に変換して感覚させるインスタレーションというものだ。ここでは、メディアテクノロジーを駆使したセンシング/ビジュアリゼーションのシステムが組まれているものの、人間(観客)自体は、ごく微弱な放射線を帯びる環境の一部にすぎず、人間が主体となって大きく振る舞うインタラクションのような仕組みはすべて排除されている。
 先頃の、原発事故が一瞬リアルに提起したように、巨大都市形成と資本集中のみが優先される極端な機能化が、必然的に極至近的、短期的な合目的性に向かうシステムと依存しか築けないとするなら、われわれにはそれに対する異なるヴィジョンと知覚可能性を、各所に立ち上げる権利は持つことは永遠にできないのだろうか。あるいは、そうした一瞬の直感性も追憶のなかに消え去り、忘却されていく運命となってしまうのだろうか。日本発の国際プロジェクト「polar m」は、図らずも原発事故直前の示唆的なプロジェクトであったといえるだろう。



「polar m」展示風景

カールステン・ニコライ+マルコ・ペリハン「polar m [ポーラーエム]」

会期:2010年11月13日(土)〜2011年2月6日(日)
会場:山口情報芸術センター[YCAM]
山口市中園町7-7/Tel. 083-901-2222

平川典俊 新作インスタレーション「Beyond the sunbeam through trees──木漏れ日の向こうに」
コラボレーティブ・アーティスト:ミヒャエル・ローター(作曲家/ミュージシャン)、安藤洋子(ダンサー)

 現在YCAMで制作を行なっている新作は、平川典俊の新作インスタレーションである。平川は、福岡出身で、現在はニューヨークのウォール街をベースに活動する現代美術作家で、今回はそこにコラボレーティブ・アーティストとして、70年代に世界的な注目を集め、なかば伝説化しているともいえるクラウトロックグループ「NEU!」を創設したミヒャエル・ローター(作曲家/ミュージシャン)と、フランクフルトを拠点にしているザ・フォーサイス・カンパニーの安藤洋子(ダンサー)が参加するプロダクションである。
 平川は、90年代を中心に、セクシュアリティをめぐる社会的規律やタブーを、いわば斜めからの視線によって宙吊りにし侵犯するといった作品を、写真、映像、インスタレーションを柔軟に使うかたちで発表し、その誰もがやや躊躇するような手法をあっけらかんと提示する表象戦略によって成立させることで、話題になった感があった。躊躇こそが、すでに心理的トラップにはまっていることになり、観客は否応なく平川のプロジェクトに参加させられていることになる(岡部あおみ氏による平川へのインタビューが充実した内容を提供してくれている。Culture Power ──平川典俊 、2006)。
 しかし、ニューヨークに拠点を移してからのここ10年間では、日本ではあまり作品発表の機会がなく、時代がコンセプチュアル趣向なものより、よりアート作品を金融商品化へ傾斜させていく時代において、平川の活動が日本では話題に上らなくなっていたのも確かである。しかし、テン年代にずれ込み、3.11を経た現在、わずかながらに芽生えたかの時代のサイクルに翻弄されんとする虚妄な熱気は、水素爆発ともに完全に吹き飛んでしまった感がある。ここ近年の平川は、個人としての作品のなかに、やはりセクシュアリティ、ジェンダー、移民性といった要素を、より明確に描き出す映像作品を、アメリカやヨーロッパで多く制作しているが、また別の側面として、プロデューサーの活動もかなりの主流を占めてきている。アメリカのコンセプチュアルアーティスト、ローレンス・ウェイナーが監督するインディペンデント映像作品を2作品プロデュースし、また100才を超えた映画監督・新藤兼人のアメリカ初の映画レトロスペクティブ(この4月末にニューヨークでスタート。新藤作品は「原爆の子」や「裸の島」などの映画化を理由に長らくアメリカでは上映をオミットされていた)への協力や、アカデミー賞俳優ベニチオ・デル・トロによる新藤監督へのインタビュー作品のプロデュースなども行なっている。
 こうした平川の近年の活動を総括するなら、セクシュアリティ、ジェンダーといった社会的に真っ先に目立つ趣向は、テーマそのものへの帰属や主題化から生まれたものではなく、さらにそれらを包括する全体概念である人間の自由意思への接近と、自由意志を席巻するセンサーシップ、無意識化された制度と身体をめぐるハビトゥスへのリサーチに関心が当てられていることが、透けて見えてくるのではないだろうか。今回のYCAMでの新作のタイトル「木漏れ日の向こうに」は、過去の平川作品の偏向からは、やや驚かされるようなものである。それがいったいどのようなものになるのか、ぜひ期待して見ていただきたいと思う。
 以下は、作家による作品コンセプトである。

 この作品は、ギリシャ哲学における、あらゆる存在の基底となる原初的な概念ピュシスに言及し、根源的なエネルギーであるこの概念をもとに、複数の人間の意識が調律し、感化して、人間の持つ肯定的な存在を、それぞれが内包していく作品である。インスタレーションは、孤立するひとりの人間、ひとりのミュージシャン、そして架空のひとりの人間(観客)が暗闇の中で希求する、ある未来への予感が互いに影響し合い、循環を生む装置として機能する。作品空間は、中継点にいる孤立するひとりの人間の意識の変化と、精神的なエネルギーの発露、その過程を、異なる表情をもった3つの空間として構成しているが、人間が抱える内的な変化から発想された光のダイナミクスや映像、音響表現は、観客が参加することで動き出し、作品内に多様なインタラクションをつくり出す。観客という人間(他者)の存在により、暗闇のなかに光が放たれ、人間の意識が感化される。そして、徐々に明るさを増す光のインスタレーションのなかで、観客は、ひとつの力として自己の存在と向き合う。観客は、人間が光を希求する志向、根源的なエネルギーへと導かれる意識の流れを実感する。

ïΩêÏìTèr
平川典俊新作参考写真(ダンサー:安藤洋子)

平川典俊 新作インスタレーション「Beyond the sunbeam through trees──木漏れ日の向こうに」

会期:2011年5月28日(土)〜2011年8月21日(日)
会場:山口情報芸術センター[YCAM]
山口市中園町7-7/Tel. 083-901-2222

キュレーターズノート /relation/e_00011208.json l 10000585