キュレーターズノート

Port B《Referendum──国民投票プロジェクト》/未来の芽 里親プロジェクト

住友文彦(キュレーター)

2012年01月15日号

 すでに多くの人が発言していることだが、震災以降、言葉やそれを発している身体に対して意識的になることが増しているように感じられる。以前からそうした意識が強かった人にとっては、なにをいまさらと思うような、表現について考えるうえでは基本的なことかもしれない。しかし、安定していたかのように見えた社会を支えてきた枠組みが揺らぐ一連の出来事(もちろん日本や中東の政権交替や不透明な企業の経営体制なども含めて)を数々の映像を通して見るときに、出来事の意味だけでなく、息づかいを感じる言葉や身体の細かな差異を感じて、自分が関心を持ってきた近年の映像を使ったアートの作品との関連を考えたくなることが増えた。

 例えば、この連載で以前に触れたアルトゥール・ジミェフスキの作品はその代表的な例だが、もっと明確にそのことを考えるきっかけになったのは、数年前にニコリン・ファン・ハースカンプの作品をライクスアカデミー(アムステルダム)の彼女のスタジオで見せてもらったときのことだったと思う。そのとき、彼女はデンマークの自治区クリスティアニアの住民にインタビューなどを交えた調査の話をしながら、作品を見せてくれた。ある種奇跡的に成立しているユートピアを統治するうえでも対立的な考えが住民のあいだには存在している。この、当たり前だが気付かないで済ませることもできる事実に、注意を向けさせる意図が彼女の作品の根底にある。彼女は成り立ちから自治区の歴史を知っているある人物の言葉を台本として書き起こし、別の考えを持つ住民にそのまま語らせる。また、別の作品では左翼あるいは右翼を自認する無政府主義者の言葉を台本に起こし、複数の同じ役者に役割を交替させつつ演じさせるといった試みをしていた。言葉とそれを発する身体のズレを映像は精密に映し出し、見聞きするものを第一に信じる私たちの通常の約束事が揺らぐような体験をする。
 それからだいぶ経ったつい先日、11月にニューヨークを訪れたときに、ローズリー・ゴールドバーグが2004年にはじめた「PERFORMA」という身体表現のフェスティバルが市内各地で行なわれていて、ニコリン・ファン・ハースカンプの作品も展示上映されていた。久しぶりに見る彼女の作品には、ジャスミン革命や「Occupy Wall Street」などの報道映像がわかりやすい構図や役割を、権力者と自らの権利を叫ぶ人々の双方の身体に与えてきたことについて疑問を投げかけ、数々の市民運動の背後にはひとつの主張に収斂されないいくつもの異なる感覚があることを見る者に想像させる力を感じた。

 さて、長々とこうしたことを書き連ねてきたのは、フェスティバル/トーキョー11に参加していたPort Bの《Referendum──国民投票プロジェクト》が持つ可能性にもついて考えてみたいと思っていたからだ。都内各地を巡回するスケジュールをウェブサイトでチェックして会場を訪れると、一台のトラックが停車している。テントの下で申し込みをした後、そのコンテナ部分に乗り込むといくつかの区分けされた小さなブースがあり、好きなところに座ってケースに入れられたDVDから一枚を選んで再生する。そうすると、どこにでも居そうな中学生が、自分の名前の由来や将来の夢、そして震災後に変わったことなどを次々に答え、5分程で一人分が終わるので、またほかの1枚を選んで見る。別のディスクを適当に選んでみても、じつになんのたわいもないことが語られるだけである。しかし、それは「国民投票」というタイトルに大胆さを感じてしまった大人が、たわいもない子どもが、たわいもない言葉を語っていると感じてしまうだけで、この世代特有の率直な言葉や、演出をした高山明が言うようにテレビや大人の意見を反映させた言葉にはっとさせられることもあった。ただ、もちろんこれは思春期の透明で不安定な姿を描き出すことを目的としたプロジェクトではない。中学生も含めた、多くの人の声を記録し、伝える装置のようなものである。こうしたアーカイヴ形式の作品は現代美術では、珍しくなくなっている。写真、映像や文字を、作為的な選択をなるべく排して自由に閲覧できるようにすることで、鑑賞者が自分で出来事に接近していけるようなセッティングに私たちはすでになじんでいると言ってもいい。しかし、演劇のフェスティバルで、一定時間の拘束を前提として出掛けてた観客にとっては意表をつかれただろう。もちろん、私もその一人である。トークなどの関連イベントが設定されているとはいえ、あくまで多くの観客が接するのはDVDの束と、最後に自ら記入するアンケートである。それについて、この作品の説明をする高山は「私たちの声を抽出するための演劇アーキテクチャ」と明言している。私たちが知っている演劇の形式を持っていないこの作品を、「演劇的」であると述べることができるのはなぜかについて考えることは、私たち芸術関係者にとって、とても意義のあることのように思えた。言葉が不自由な者や、死者も含めたひとり一人の声が表現され、他者に伝えられることは政治に優先してまず私たちひとり一人にとって重要なことであり、それがゆえに劇場、そして美術館も市民社会において重要な役割を担ってきたのだということを改めて気付かせてくれないだろうか。おそらく高山は、舞台のうえでの役者ではなく、劇場の観客が自分たちの声で表現し、批評し、語り合うような場をつくりだすことが本来の演劇の役割であるならば、移動と記録の道具を持ち込んだこのプロジェクトも演劇であると考えてたのだろうか。そうであるなら、そこで演劇と美術を区別する必要はないように思う。美術の分野でも、作品は市場や権威の道具ではないと考えるアーティストたちが前述した言葉と身体を注視する映像作品を次々に発表している。この符合はけっして偶然ではないと思う。
 ただ、DVDに記録された中学生や、ブースに座ってそれを見る観客が、そうした、積極的に語り批評する主体になっているわけではない。中学生は間髪入れずに飛んでくる質問に素直に答えている以上に深く感じ、考えているわけではないし、数多くのディスクを前に戸惑いながら最後にアンケートを書き込む観客にその場で語りかける相手はいない。このプロジェクトがトークなどのイベントを実施することで、フォーラムのような場をつくったのはそのせいかもしれない。残念ながら私はそこには行けなかったのだが、これがさまざまな声が交わされる「演劇」になるのは、もしかしたらフェスティバルやイベントの枠を越えて持続する運動体になるときなのかもしれない。アーカイヴ形式の作品の特徴は、一つひとつの断片同士が等価であり、それらの連なりが無限に閉じられず続くように感じることである。そう感じられるようになった途端に、きっと見る者の能動的な語りを誘発し、オープン・エンデッドな構造がきっとあの出来事の記憶をもっと当事者ではない人とも共有可能なものにするのではないだろうか。


Port B《Referendum──国民投票プロジェクト》会場風景


同、コンテナ内部
ともに撮影=蓮沼昌宏

Port B《Referendum──国民投票プロジェクト》

会期:2011年10月11日(火)〜2011年11月11日(金)
会場:都内11箇所および福島4都市

学芸員レポート

 震災直後のレポートで、前橋市の新しい美術館構想の事業で滞在していた照屋勇賢が東日本大震災を報じる地元紙を使って植物の芽が立ち上がってくる作品をつくっていることを書いた。その後、作品は完成して何度か前橋市内で展示された。小さいが凛とした美しい作品である。前橋市は現在所蔵している作品はあるが、さらに追加して作品を収蔵する予算を現在はつけていない。そのため、地元紙が素材となっていることから、作品とともに地域に震災の記憶を長く留めておくこともできると考えた市民が「未来の芽」というプロジェクトを立ち上げている。これは、小額で参加できる共同購入の方法で、これによって、将来、作品を美術館に保管してもらおうというものである。そして、照屋はそれで集まったお金(作品の販売収入)を復興支援の活動をしている団体に送ることにしている。
 一過性ではない復興支援をしたいけど、これなら自分も納得できる方法でお金を出せると言う人もいるし、美術作品を買ったことがない人も共同購入という方法で気軽に参加できる。静かに広まっていったこの試みの参加者が現在100名を超えた。もちろん前橋市在住者だけでなく、このことを知った韓国からも参加者はいるし、誰でも参加できる。
 現在、多くの美術館で購入予算が削られている。美術館には、地域の文化的な財産を保護し、その価値をほかの地域や次の世代に伝えることは結果的に財産を増やしていくこととなり、社会に貢献する役割があるはずである。この意義に疑問が投げかけられているのはなぜだろうか。税金を払っている市民が、きちんと作品を集めるべきだと言ってくれないといけないはずだ。しかし、自分たちとは関係のないところで美術作品や文化財の価値はすでに定められていて、専門家と役人がお墨付きの仕組みをつくっているのが美術館と呼ばれていると思われているから、あえてそう言う必要を市民は感じていない。自分たちと美術館の作品収集活動は関係がないと多くの人が思っているだろう。しかし、一方で地域の文化、ましてや自分たちが次の世代になにを残していけるかについて関心を持っている人は多いはずである。そうした関心が、本来は同じ目的を持つはずの美術館と結びついていない。「未来の芽」プロジェクトは、市民ひとり一人が美術作品とどのように付き合えばいいのかをわかりやすく伝えてくれ、専門家や行政だけに文化の継承を任せない役割もはたそうとしているように思える。考えてみれば日本の地方美術館の歴史はまだ浅く未熟な段階にあり、市民社会に根付いているとはけっして言えないのかもしれない。しかし、後発に属する美術館の計画段階でこうした動きがでてきたことにはとても希望を感じる。既存の建物を再利用してオープンしようとしている計画も現在の時流に適ったものだと思うし、運営などの活動にも積極的に関わろうとうする市民が増えてくれば、これまでの美術館のあり方も変わっていくのではないだろうか。


照屋勇賢《自分ができることをする》2011(部分)

未来の芽 里親プロジェクト

URL=http://www.miraime.jp/