キュレーターズノート
糸の先へ/魅せられて、インド。/菊畑茂久馬氏「第53回毎日芸術賞」受賞ほか
山口洋三(福岡市美術館)
2012年02月15日号
あと二つ、福岡県内のグループ展と個展が開かれているのでこちらも手短に。
田川市美術館で、「交差する異次元──胎動から飛躍へ」と題して、福岡市在住の現代美術家、村上勝(1948-)と小川幸一(1951-)の2人展が開催された。この2人は、来年1月に当館と福岡県立美術館にて共同開催する「福岡現代美術クロニクル1970−2000」(仮称)における出品作家となる。そして私はそれぞれの作家の個展を企画したこともあった。2人とも、1970年代中盤、「九州派」の終焉以後、美術活動の空白が生じた福岡の地において、新しい美術状況を作り出そうと「ゾディアック」というグループをつくって活動を始めた。その意味では福岡ローカル美術史における重要作家なのである。
村上は、当初は画家として出発していて、羽状の立体は、1990年頃から絵画の延長上に発現した。一種過激な「絵画」としてのインスタレーションなのだが、この表現を手にしたときから、都市郊外の風景のなかでの展覧会の自主開催や、ギャラリーのなかでも展示室以外の場所を使ったりと、空間侵入の力は折り紙付きである。
方や小川は、多摩美術大学でデザインを学んだ後、版画に転向。1980年から彼の代表作といえる「球体」のシリーズに行き着き、以後、形態のバリエーションを得ながら美しくもなまめかしい抽象的形態のシルクスクリーン作品を生み出している。
さて展覧会だが、元来版画家の小川は1980年以降の作品を一覧するという回顧展形式。対する村上は、回顧ではなく、羽状の立体による新作インスタレーションに、一部旧作を混ぜ合わせた展示。作品の形式、そして展示の方法も両者は好対照なのだが、小川の「球体」や「生物」といった有機的形態と、村上の羽状の形態は、会場の中で不思議と呼応し合う。2人の作家の安定した実力がよくわかる良質の2人展といえる。しかし、結構長いこと2人の作品を見ている私からすれば、この展覧会の出品作品にはあまりにも意外性がない。「あ、今度はこうしたのか!?」という驚きが薄い。それは、「地方」故の状況の弛緩に通じている。彼ら50〜60代の世代にいまだ期待しなければならない状況が現在の福岡にあることは否めない(つまり彼らに匹敵する若手があまりいない)。
福岡市美術館では、「第10回 21世紀の作家──福岡」の枠で、北九州在住の美術家、鈴木淳(1962-)の個展「なにもない、ということもない」が開催されている。鈴木は日常の何気ないシーンに潜む不条理さをテーマにした映像作品や写真作品を制作してきたが、いつも作品についてまわる「しょぼさ」がかえって彼の作品の持ち味となっていて、今回もまたどんな「しょぼさ」が見られるのかと(なかば)楽しみにしていた。しかしその「しょぼさ」と相反するように、彼はじつに精力的に作品を制作発表し、数々の展覧会にも参加してきた。福岡/北九州で開催されるアートイベント(トークショウなど)にほぼ「皆勤」しており、私はいつもどこかで鈴木の姿を見たものである。いつのまにか、彼は福・北の美術シーンにおいてなくてはならない存在になってしまっていた。
本展では、鈴木は工事現場で利用される足場を展示室壁面と天井に用いて空間構成を行なった。各所に歴代映像作品上映のための大小さまざまなモニターを配置し、会場の中央には最近彼がよく作品に使うカツラ数個が天井からつり下げられ、くるくると回っている。足場を辿って「2階」にいくこともできる。映像作品をメインの作品とするならば本展は映像回顧展のようだが、足場の影に隠れてその雰囲気ではない。カツラ、足場、映像とつながりが意味不明で、まさに「なにもない、ということもない」。こうした作品に対してはちょっと言葉が出てこない(これはほめ言葉かどうか?)。これまでの「21世紀の作家──福岡」シリーズでたびたびそうだったように、鈴木は自らのこれまでの活動を個々で集大成させているように思えた。かつての展覧会で見せてくれた、館外でのパフォーマンス、イベントは今回はなかった。個展前、鈴木はそうした展開を考えていたような節があったが、どうしたんだろうか?