キュレーターズノート
第4回恵比寿映像祭「映像のフィジカル」
能勢陽子(豊田市美術館)
2012年03月01日号
対象美術館
今年で4回目を迎える恵比寿映像祭のテーマは、「映像のフィジカル」である。フィジカルには、「物質的」と「身体的」の両方の意味があるが、そこに出品されている作品は、映像のリアルとはなにかというこれまで何度も繰り返されてきた問いを、物質や身体という即物性を通してあらためて考えさせた。そしてそのシンプルな根本に帰ることが、却って新鮮に感じられたのである。
導入は、マライケ・ファン・ヴァルメルダムの16ミリフィルムを使った《パッセージ》である。映写機に直接取り付けられた小さなスクリーンに、四角い形態が拡大・縮小を繰り返しては消える極めてシンプルな作品で、1920-30年代のハンス・リヒターの絶対映画を思い起こさせる。その映写機と回るフィルムの音が、映像が物質的なもので成り立っていることを直接知らせる。続いて同作家の《カップル》と《イン・ザ・ディスタンス》が、部屋に斜めに張られたスクリーンの両サイドに投影されている。《カップル》では、老年の夫婦が緑茂るなか穏やかに佇み、《イン・ザ・ディスタンス》ではその二人を離れた窓越しからぼんやりととらえている。さきほどの抽象性とは打って変わって、緑に吹き渡る風や窓を曇らす水滴などの事象が細部まで映し出され、それがこの老夫婦を包み込む心地よい大気の風合いを感じさせる。近景と遠景からなる映像が、人間の束の間の一生と森羅万象を含んだ巨視的な時空に思いを馳せさせる、静かだが壮観な作品である。
ヨハン・ルーフの《すばしこい茶色の狐が怠け犬を飛び越す(色は匂ほへど散りぬるを 我が世誰そ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず)》も、映像の物質性を直接的に露にする。さまざまな映画の一コマとサウンドトラックを繋ぎ合わせてできたその映像には、フィルムを送るための両端の穴や、エンドロールの後の空白のコマも含まれており、映画という物語への没入を拒むようである。しかしルーフの作品には、映像の物質性をむき出しにしながら、なおそこに別のロマンティシズムが加わってくる。《エンデバー》は、スペースシャトルに取り付けられた複数台のカメラが撮影した映像記録を、発射から着水まで、昼夜2回の飛行に分けて構成したものである。それらの映像は、ニュース映像で馴染みの勇壮な場面とは異なり、宇宙の漆黒をただただ反映し、着水のパラシュートがクラゲのように広がる、より即物的な細部を映し出している。そして昼の飛行にはノイズがリズミカルに呼応しているのに対して、夜の飛行は終始静寂に包まれている。一度剥き出しになった物質性が、手掛かりを失ってさらに裏返ったとき、そこにはこれまで体験したことのないような夢幻性が生まれるのである。
東京シネマは、1950年代から60年代にかけての高度経済成長期における日本の企業戦略を背景に、科学映画を撮ることを目的に発足したチームである。その映像は、殊に生命科学映画の分野で、顕微鏡撮影、微速度撮影といった技術を駆使して撮られているのだが、そのモンタージュの仕方や構図、背景に流れる現代音楽との呼応が、現在の目から見ても斬新に映る。いや、デジタル画像に慣れた目からすると、一層そうなのかもしれない。その映像は、ある種のノイズを含んだ物質性をたたえて、過去に夢見られた硬質で美しいユートピアのイメージを垣間見せるのである。
ユェン・グァンミンの三面プロジェクションによる映像は、葉のざわめき、高速道路を走る車、川の流れ、海から浮き上がり沈む場面、それらが作家の家族が暮らす家の内部の様子と高速で交差し、殊に強い身体性を誘発する。それは、幾世代にもわたる人間の時の流れと記憶を、流麗な映像のなかで深い愛惜とともにみせている。
映像と物理的な空間との関係を考えるうえで、地下1階には「建築と映像」というテーマが与えられていたが、なかでも気になったのは、サラ・モリスである。《線上の各点》は、ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸とフイリップ・ジョンソンのガラスの家、そしてミース設計、ジョンソンがおもにレストランとバーのインテリアを担当したシーグラムビルを軸に、内部の調度やそこに交差する人々を含めて丹念に撮影されている。そこには名立たる建築家の名前がいくつも目に付くアドレス・ホルダー、レストランで食事をする着飾った人々や調度品などを丁寧に磨き上げる人々が、精度の高い映像と音響で映し出され、その場に立ち会っているかのような臨場感を与える。そこで浮かび上がるのは、アメリカ人の素晴らしいライフスタイルの舞台となっている名建築の姿であり、建築が担う社会的権威付けとしての役割である。
さて、今回映像のフィジカリティに関わるさまざまな作品を観たが、そもそも映像の物質性とはなんだろう。フィルムやDVD、映写機そのものを見ても、それはやはり映像ではない。映像は、あくまでスクリーンやモニター、壁など、物質的な対象に投影される光の像である。しかしだからこそ、いま映像を成り立たせる物質を再認識することは重要である。映像は、それを撮影・制作する人、また機材やそれを映す対象を含めた物質がなければ成立しない。だから、映像が確かな現実を凌駕してしまうのではないかという危惧、シミュラークルやハイパーリアリティといった言葉も、そんなに恐れたものではないかもしれないのだ。