キュレーターズノート
かげうつし──写映・遷移・伝染、前谷康太郎「distance」、小田英之+「アイマイナコクハクトと赤いまる」展ほか
中井康之(国立国際美術館)
2012年12月15日号
1995年から1年ほどかけてNHKで「映像の世紀」というドキュメンタリー番組が、制作・放映されていたことを記憶している人も多いことと思う。その番組がルイ・リュミエールの『工場の出口』という1895年に公開された映画から始まることからもわかるように、記録された映像によって20世紀を辿ったドキュメンタリーであると同時に、映像が20世紀という時代を画していった過程を表わし出したものだった。
映像というメディア(写真のような画像や近年ではPCのモニター画面なども含めて)が、多くの人々にとって身近になったのはテレビの存在が大きかったであろう。日本においては、1959年の皇太子の結婚パレード実況中継がテレビの普及率を高めた事例として知られているが、1964年の東京オリンピックというイベントもその一躍を担っていたであろう。しかしながら、その映像の隠蔽された酷薄な一面を露わにしたのは、その前年の1963年11月22日のJ・F・ケネディ大統領暗殺事件の映像であったろう。その日、新しいテレビ伝送技術によってケネディのメッセージが日米同時放映される予定だったのだが、無情にもケネディ暗殺の映像が流されたのである。われわれは同事件を扱った作品としてA・ウォーホルの《ジャッキー》を思い起こすかもしれないが、ウォーホルはその事件に関わる映像を作品の素材として扱ったに過ぎない。素材としての扱いではない同等の事件そのものを扱った映像メディアとして私が連想するのは、1969年7月21日の月面着陸を世界同時放映したときのテレビ映像である。この歴史的な同時放映は、先にも述べたように、ケネディのメッセージがそれに先行するはずであった。加えるに、月面着陸を成功させたアポロ計画は、そのケネディが推し進めた政策によるものだったということも思い起こさせるだろう。このような皮肉とも言える巡り合わせが、テレビ映像というスペクタクルにとても相応しいと感じていた。
しかしながら、21世紀に突入してから間断なく引き起こされる大惨劇は、そのような20世紀の時代に起こった出来事が牧歌的と感じられるほどに、われわれに激しい衝撃を与え、その影響はいまだに続いているという意見に共感する者は多いのではないだろうか。9.11と3.11という妙に符号の合うこの数字が示す出来事は、フィクショナルな映像が生み出すスペクタクルすべてを無効化させたかもしれない。
閑話休題。この一年間、当レポートでは図らずも3.11、特に福島原発事故にまつわる作品について著す機会が多くなってしまった。年初の3月のレポートに、そのような外部の現象を反映する表現に対して云々と言いながら、反語的な行為を取ってしまった訳であるが、それらの取り上げた作品は、映像や絵画含めた画像表現形式を取ることはなかった。ウェブの普及とともにYouTubeのようなメディアによってニュース映像という素材はいつでもどこでも簡単に手に入れるようになった訳であるが、9.11や3.11のような、一種のカタストロフィ現象を記録した映像の存在は、それを素材としてフィクション化するような作業は、たんに陳腐化を招くだけであることは誰もが想像するところだろう。
11月に京都市立芸術大学ギャラリーで開催されていた「かげうつし──写映・遷移・伝染」展という、映像表現を中心に取り扱った展覧会を見た後に、上述してきたような思考を巡らせた。このような映像表現に対する困難な状況を、その展覧会では映像で表現する意味を正面から取り組む姿勢を堅持することによって、逆照射するように見えたのである。その展覧会は、「かげうつし」というタイトルからも伺えるように、「ミメーシス」という西欧における芸術表現の基本的概念に対する日本的な解釈を、さまざまな映像メディアを扱う作家5人が提示する表現によって巧みに構成した展覧会であった。同展の企画者である林田新のステートメントを見ると、「うつし」は、造形芸術の基本である「ミメーシス(模写・模倣)」的解釈を前提に、「移す(move)」「引き写す(copy)」「遷す(transfer)」といった同音異義語の意味合いも兼ねていることを指摘し、さらに、「現(うつ)し(appear)」といった語彙まで導き出している。最後の「現し」という言葉は、「現(うつつ)」という言葉だけを取り出せば、現実(reality)であり、冒頭で見てきた、ドキュメンタリーという用語に結び付くだろう。以上のように同展は、「うつし」という日本語を介しながら「映像」が多義的に解釈しうることを顕現し、事物、写真、印刷物、映像、言語による描写……、といったさまざまな媒介が相互にうつし合いながら、5人の作家のオリジナリティと映像表現自体の可能性を鮮やかに示していた。