キュレーターズノート
かげうつし──写映・遷移・伝染、前谷康太郎「distance」、小田英之+「アイマイナコクハクトと赤いまる」展ほか
中井康之(国立国際美術館)
2012年12月15日号
映像表現のもうひとつの可能性としては、モダニズム・スタイルによるハード・コアな現われを考えることができるだろう。とはいえ、映像は光を媒介して外界を「うつす」ことが、その存在を証すものであるという原理に立ち返ったときに、写されたなんらかのものがクローズアップされると同時に媒介した光の存在は見えなくなるだろう。とはいえ、その媒介自体である光そのものによって映像表現は成立し難いだろう。光の現象だけの表象となったときには、また異なる表現領域が用意されるのだろう。
前谷康太郎のモニターを用いたヴィデオ映像作品は、そのような前提条件を十分認識することによって、ハード・コアな様相を表わし出すことに成功している。例えば、今回発表している《distance》という作品は、複数のブラウン管モニターになんらかのイメージを映し出されているのであるが、前谷は、それが人工的に(PCによる画像操作などで)つくったのではないことが推察されるような、ある意味不自然な(合理的ではないという意味において)映像の変化を見せながら、その画像を分析的に注視したところで、それがなにから取材したかわからない程度に加工されていた。そのような細心の注意を払うことによって、前谷の作品は、ハード・コアな映像作品として成立しているのである。前谷がこの作品でブラウン管モニターを用いているのは、立方体の筺を積み上げて物理的にこの作品を成立させるというような非本質的な理由ではなく、作家が重要視しているのは、液晶モニターでは実現できない漆黒の黒を見せるための(液晶モニターの黒はグレーである)、ブラウン管の使用なのである。そのような意味で、この作品は、すでに命脈が尽きたメディアに対する墓標であるのかもしれない。
前谷康太郎「distance」
映像表現の保守反動として、旧来からある美術表現に用いられたテーマを、そのまま映像表現として援用するというあり方が考えられるだろう。映像という言い方はそぐわないかもしれないが、森村泰昌による過去の歴史的作品に憑依して作品とする表現スタイルは、そのような場所に位置しているのだろう。
情報処理技術を自らの表現媒体として用いた第一世代にあたる小田英之が、京都で開催した個展に提示した作品《「ガブリエル・デストレとその妹」と日の丸ちゃん》は、ルーヴル美術館に所蔵されている著名な作品をCGで再現し、そのイメージが損なわれることのない程度に、しかしながら鑑賞者の視線が集中すると思われる箇所である乳首を摘んでいる箇所に僅かな動きを与えたところに作者の意図があることは誰もが理解するところである。ただし、その作品だけを見ているとデザイナーが手慰みに表わした戯画のような存在と判断されてしまうかもしれないが、作品タイトル後半に「日の丸」という言葉が続いているように、そこには保守的な勢力の台頭する現在の日本の政治的状況を潜ませている。同作品が展示された小田の個展では、ほかの展示作品は日の丸のイメージを前面に出た作品が多数を占めているので、その意図は明らかに示されている。ただし、そのような展示であるからこそ、伝統的な西欧絵画から本歌取りした本作品は異色な表情を表していたのである。
小田英之+「アイマイナコクハクトと赤いまる」展
映像メディアを用いた作品を続いて見ることになり、そのあり方も気になったので、それらの作品を中心に辿ってきたが、今期はほかにも注目すべき展覧会や動向が数多くあった。
まず、「アブストラと12人の芸術家」は、タイトルにもあるように11名と1グループのアーティストたちが、抽象芸術をキーワードに作家たちの自主運営によって京都の町中の倉庫を用いて開催された展覧会であったが、展示内容、シンポジウムなどのイベント、広報など、有料で見せるだけの内容が整っていたことは特筆すべきことであった。
伊丹市立美術館で開催されていた「中原浩大 Drawings 1986-2012 コーちゃんは、ゴギガ?」は、80年代後半、関西ニューウェーヴと呼ばれた動向の中心に存在した作家を、ドローイングという作家のある一面を露わにする素材を用いて、鑑賞する者が期待する以上のなにものかを見せていた。
また、以下は実見することが適わなかったので情報のみとなるが、京都のヴォイス・ギャラリーで11月に松井智惠の個展が開催され、同展にともない「現代美術と批評のスクール」という連続した対談が実施され、そのなかで、例えば松井智恵と篠原資明によって「1980年代アート再論」のようなテーマが展開されていたようだ。
さらには、時期的には遡るが、同じ京都のギャラリー16において、9月後半に開廊50周年企画として「リレートーク:50 years of galerie16」と題された連続したシンポジウムで1960年代から2000年代まで、10年代毎に各時代を彩った作家たちによる再検討が実施されたようだ。
世紀も変わって10年以上経過し、回顧の季節が巡ってきたのだろうか。