キュレーターズノート

ゴットンアートマジック

工藤健志(青森県立美術館)

2013年01月15日号

山本作兵衛展──いのち咲くヤマの歌劇(2012)

 ということで、最後にメインとなる作兵衛展について記しておく。
 今回の「山本作兵衛展──いのち咲くヤマの歌劇」は約100点の作兵衛記録画を「切羽の二人」「ヤマのファッション」「筑豊の聖母子像」などといったテーマで分類し、炭坑の労働や生活、風俗、因習といった社会、文化の諸相を紹介。作兵衛記録画の歴史資料としての価値を検証するとともに、同一画題のヴァリアントを並べて展示したりしながら、その表現としての特徴も明らかにしようとしていた。
 もともと作兵衛は1958年、65歳から炭坑の記録画の制作を開始している。少年期から働き続けた炭坑をモチーフに、「孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残そう」(山本作兵衛『筑豊炭坑絵巻』、葦書房、1973)と当初は画用紙に墨一色で描いていたが、1964年に「炭坑資料を集める運動」を進める田川郷土研究会からの依頼で、ひとまわり大きな紙に水彩絵の具を用いて墨絵をリライトしていった。1984年に92歳で没するまで、求めに応じては炭坑の記録画を描き続け、300を越える画題を一説には1,500枚近くも残したと言われている。写生ではなく記憶をもとに描かれているその描写が、克明かつ正確であることにまず驚かされるが、なにより美術以前の、表現の根源から沸き起こる強烈なエネルギーにわれわれは圧倒されるだろう。


山本作兵衛展──いのち咲くヤマの歌劇(会場=田川記念会館)

 2011年5月25日付でユネスコの世界記憶遺産に認定されたのは、田川市が所有し、石炭・歴史博物館に収蔵されている記録画と記録文書の計627点(それに加え、福岡県立大学が所有する70点も同時に登録されている)で、記録画については墨画と初期の水彩画がそのほとんどを占めている。初期に描かれているため、表現の瑞々しい、絵を描くことに対する喜びが強く感じられる作品群である。今回、田川市で開催される展覧会ということで久しぶりにそれら作品に再会できるかと思っていたが、なんと石炭・歴史博物館からの出品はゼロ。すべて近隣の美術館や個人等が所蔵している作品で展示が構成されていたが、後年に描かれた作品であるため、初期作に比べると筆致や彩色においてやや粗さが目立つ。ゆえに、できることなら田川市石炭・歴史博物館に所蔵される初期作を交え、画業の変遷がよりわかるような配慮が欲しかった。……というようなことを、個人としてプロジェクトに参加し、同展を企画した徳永恵太氏(田川市美術館学芸員)に伝えたところ、世界記憶遺産認定後の方針として田川市は石炭・歴史博物館以外での展示を認めないことになったという。一瞬「?」となってしまったが、まあ確かに田川記念会館という環境的に難のある施設で世界記憶遺産を展示することはむつかしいだろうな、などと考えていたら、続く言葉に耳を疑った。なんと、国立の博物館以外には貸出はしないという方向性だという。
 気になって調べてみたが、はたしてそのとおりであった。有識者から構成される「山本作兵衛氏の炭坑の記録画並びに記録文書の保存・活用等検討委員会」から提出された『山本作兵衛氏の炭坑の記録画並びに記録文書の保存・活用等に係る検討結果報告書』(2012)がそれである。14ページ以降の「イ 原資料の取扱いに係る基本方針」の第4条「取扱いに係る当面の基本方針」の第1項「原資料の公開」には、「原則、同博物館外での公開は行わない」「炭坑記録画の公開期限は年当たり30日以内とする」とあり、第4条第3項「原資料の貸出」には「原則、原資料を他の機関、団体、個人等に貸出すことはできない」とあることから、安価な紙と画材を用いている脆弱な作品であるがゆえに、まず保存という観点から貸出を強く制限したことがうかがい知れるし、もちろん、その対応については充分理解できる。しかし、第4条第2項の「原資料の公開の例外」には、「国立文化財機構が所管する博物館の展示環境が整った場所において田川市が原画展を開催する必要があるときは原資料のうち炭坑記録画を一部公開することができる」とあって、国立博物館に限ってのみ展示が許可される可能性が示唆されているのだ。それにしても、この一文そのものがちょっと変で、「展示環境」よりも「国立文化財機構が所管する博物館」という記述のほうが先にくるという……。まるで「世界遺産なのだから国立の施設以外で展示することなどあり得ない」と言わんばかりである。国宝、重要文化財が展示可能な施設は、都道府県立、市町村立、私立問わず多数存在するのに。
 田川市が所管する石炭・歴史博物館と美術館は、これまで長年にわたって他館、作家、研究者、個人等の協力を得ながら展覧会を開催してきたが、どうやら田川市はそのことを忘れているようである。収蔵品も予算も少ない、十全な展示設備とはけっして言いがたい地方館である田川市美で5年仕事をした経験から言えることは、そうした関係機関、各位からの協力がなければ、美術館活動そのものがままならなかったということである。筆者が青森県立美術館準備室に移った後の2005年に田川市美術館で企画された「成田亨の世界」展に青森県は快く協力し、所蔵する怪獣デザイン原画を100点以上貸し出している。作兵衛記録画と同様、いまから50年近く前に、画用紙にペンや水彩、マーカー等で描かれた脆弱な作品であったにもかかわらず。当時はそれが筆者を育ててくれた田川市に対する最大の恩返しだと思ったし、コレクションの相互活用が展覧会企画の大前提となるのは当然だと考えていたから。個人的にはいつか作兵衛記録画を青森で紹介できたらという想いもあったのだが、残念ながらその協力は得られないということか……。
 川俣正が田川市を拠点に「コールマイン田川」を行なっていたことは先に述べた。このプロジェクトが1996年に立ち上がったとき、筆者も少しだけ関わりを持ったが、「美術館学芸員」としてではなく、あくまで「個人」として参加することを田川市からは求められた。つまり、この川俣のプロジェクトにも田川市は土地を10年間無償貸与すること以外、まったく協力の姿勢は見せなかったのだ。そして田川市からの土地の無償貸与期限の切れる2006年をもって川俣は田川でのプロジェクトを終了させている。現代の芸術活動すら支援することのできない行政が、はたして世界記憶遺産を十全に活用できるのだろうか。
 残念なことに、今回の「ゴットンアートマジック」にも田川市は名義後援のみで実質的な協力はしていないようであった。作兵衛記録画をいかに現代のなかに位置づけていくかを模索するプロジェクトであったのに……。もちろん、「文化資源学」を提唱する東京大学の木下直之先生と、アートプロジェクト運営の専門家である「黄金町バザール」ディレクターの山野真悟氏に加え、筆者も末席を汚した「山本作兵衛の人と芸術 Part2」というシンポジウムの参加者にも田川市の文化行政担当者らしき人はどこにも見当たらなかった。世界記憶遺産登録をきっかけに、作兵衛記録画を観光資源として活用しようとしているにもかかわらず、である。現在、作兵衛記録画は先の基本方針のとおり石炭・歴史博物館で公開されているのみである。せっかく「話題」の作兵衛記録画を見に田川へ来ても、石炭・歴史博物館からの広がりはいまのところなきに等しい。この「ゴットンアートマジック」は、田川市にとってもまたとない好機だったはずなのだが……。
 同時期に田川市美術館では作兵衛とも親交のあった千田梅二とうえだひろしの2人展が開催されていたが、同じ田川市内で行なわれている炭坑関連のイベントでありながら、相互が連携していないため情報の統一化すら図られておらず、それぞれがバラバラに動いていた感が否めない。さらに言えば、成田亨展以来7年ぶりに訪れた田川市美術館は施設的な老朽化が進んでおり、正直に言えば「貧相」に見えたほど。これからも余所から作品を借りて展覧会を開催する施設として、まずは田川市美術館を作兵衛記録画が展示できるような「展示環境が整った場所」に再整備して欲しいものだ。
 世界記憶遺産登録は久しぶりに筑豊からの「明るいニュース」であったが、それを「田川市という行政団体が受けた名誉」的に囲い込んでしまうのは危険であるし、所蔵する石炭・歴史博物館の充実を図るだけでは不十分である。これを機会に、炭坑の記録を孫に残そうと記録画を描き始めた作兵衛と炭坑記録画の原点に今一度立ち返り、俯瞰的な視点からこれからの田川、そして筑豊の文化のあり方を考えていくべきではなかろうか。この「明るいニュース」は、筑豊の「明るい未来」を切り拓くに充分な力を持っている。反面、従来の活動まで制限してしまうような排他的な方策を取れば、それは大きくマイナスに作用する蓋然性が高い。
 作兵衛画の展覧会をかつて担当した者として、なにより筑豊を愛する人間のひとりとして、世界記憶遺産登録の意味を見つめ直し、作兵衛記録画の活用の再検討を切にお願いしたい。そして、田川市に活気が戻り、魅力的な「ゴットンアートマジック」の第2回展が開かれることを願う次第である。

ゴットン アート マジック──アートでよみがえる、この国の火床

会期:2012年10月27日(土)〜11月25日(日)