キュレーターズノート
福岡現代美術クロニクル1970-2000
坂本顕子(熊本市現代美術館)
2013年01月15日号
新年の展覧会めぐりは、「福岡現代美術クロニクル1970-2000」から始まった。朝、熊本を出て、福岡県立美術館と福岡市美術館の二館をハシゴし、シンポジウムに参加して、帰りの新幹線で原稿を書くという荒い「仕事始め」は悲しいことに今年も変わらない。
本展の経緯については、山口洋三氏が二度にわたって書かれているので参照されたい★1。最近、東京国立近代美術館の「美術にぶるっ!ベストセレクション 日本の近代美術の100年」や、MoMAの「TOKYO1955-1970:新しい前衛」、あるいは埼玉県立近代美術館の「日本の70年代 1968-1982」に見られるような日本の近現代美術史を見直す展覧会が相次いでおり、このクロニクル展も「福岡」という極めて特異な場に起こった、九州派以降の美術の動向を辛抱強く追った労作である。
通史的な展覧会である以上、幾分「お勉強」的な側面があるのも事実だが、福岡県美を経て、福岡市美の会場の半ばを過ぎると(ぜひこの順番で見ることをお勧めする)、見ても見ても見終わらない、約130点という出品点数が物語る、福岡という場の持つ熱がグイグイと迫ってくる。年表に目をやると、自分が福岡の美術をリアルタイムで見たのが、1999年の第1回福岡アジア美術トリエンナーレや、同年のミュージアム・シティ・プロジェクト「ヴォッヘンクラウズール:アートによる提案と実践」であったことを考えると、九州派と現在の若手作家たちのあいだを結ぶ線としての歴史を補完する絶好の機会であった。学芸員や研究者は当然としても、ぜひ九州で制作する作家たちにも、地方で活動を続けていくことの可能性と限界を知るうえで見てもらえればと思う。
また、展示と合わせて、初日に行なわれた登壇者7名によるシンポジウムを同時に聞いたことで、より立体的に理解が進んだように思う。やれ「同窓会」だ「法事の集まり」だとの声も聞こえつつ、3時間をすぎても会場はほぼ満席のまま。それだけ関心が高い内容だったといえるのだろう。自分のまとめにも代えて、いくつか本展の内容を振り返ってみたい。
1970年前後の九州派の余韻が残る時代は、美術館や学芸員という存在がまだなく、新聞社の美術記者が競って美術家を集めて展覧会を組織するという独特な時代であった。熊本現美の初代館長の田中幸人もこの時代の福岡で青春を送った一人で、私も学芸員一年生時代によく話を聞いたものだが、伝説的に語られるイベント「英雄たちの大集会」に入院中にフラフラとでかけていったり、前衛芸術運動「集団蜘蛛」に出入りしたりと、本当に彼らはいろいろな美術の現場に遭遇し記録・記憶している。会場内でも、同時期のよくぞこんな資料を引っ張ってきたなと感心したのが、福岡教育大学の出身者たちによるグループ「TR同」。今回の展覧会カタログでの解説も「中途半端」とバッサリ切り捨てているが、現在の地方都市で行なわれている美術活動の多くがこのように泡沫のように消えては現われていることに無常を感じずにはいられなかった。
そして「大学」というファクターもある。もし例えば愛知や京都、金沢、沖縄のように、公立の四年制美術大学が開学していたら福岡の美術はもっと違った変化をとげただろうと想像するが、九州産業大学、九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)のような産業や工学と美術が隣接する点が福岡という都市の特性であり、そこに赴任してきた松本俊夫の残した、先鋭的な実験映像群を会場でも見ることができる。また、福岡には「アートスペース獏」や「ギャラリーとわーる」などの70年代に開業した老舗画廊があるが、今回は1978年から1998年のあいだに、戸谷成雄や北山善夫といった作家を次々と紹介して行った「天画廊」にスポットがあてられている。
それ以外にも触れなければ怒られるような作家や活動が山のようにある。本展が福岡の美術の歴史の「定本」となることは間違いないだろう。しかし、ここからこぼれていった無数の小さな活動が当然ある。また、この年代記から例えば「女性作家」、熊本からは秀島由己男、白藤朱根、林浩などの名前が見つけられた程度だが「周辺の都市との影響関係」などの補助線を引いていくことで、この記録がより強度を持っていくようにも感じられた。
個人的に、本展のみどころのひとつだと感じたのが、民間主導で行なわれる「アートプロジェクト」である。なかでも、山野真悟抜きには語ることのできない「IAF芸術研究室」とその後の「ミュージアム・シティ・天神」、のちに「コールマイン田川」を行なうことになる川俣正の福岡市内でのインスタレーションのマケットや安齊重男による記録写真が目を引いた。「日本で初めての都市型の野外展として、ミュージアム・シティ・天神が近年ようやく歴史化されはじめた」とシンポジウムで山野氏が発言したように、現在、アートプロジェクトや野外アート展が一般にも広く認知される原点が、十数年前の福岡にはあったのだ。また、北九州を拠点とする千草ホテルの小嶋一碩氏が生き生きと語られた「国際鉄鋼彫刻シンポジウムYAHATA'87」の「小倉の奇跡」ともいえる顛末と、現在も地域のけん引役となって文化の支援を続けるその情熱に、市民や民間の気概を感じずにはいられなかった。
時に街の中で「暴発」してしまいかねないアートを、うまく制御していくスリリングな面白さ。それを、壇上には立たれなかったが、何度も名前があがった帯金章郎氏や黒田雷児氏、「街に育てられた学芸員」としてそれらをつなぐ川浪千鶴氏などが下支えされてきたとも言える。しかし一方で、後小路雅弘氏の、福岡アジア美術館の開館(1999)と前後してミュージアム・シティ・プロジェクトが終了していく時期(2000)を指すと思われる「美術館が街の力を吸い上げてしまったのではないか」とする発言にも考えさせられた。
そして、最後のIAF SHOP*代表の佐藤恵一氏の「2000年以前とそれ以降にははっきりとした断絶がある」という発言には、会場にいた若い世代の聴衆たちは皆頷いたのではないか。これまで培った輝かしい過去の歴史をバリバリと食い破り、再び街に吐き出しぶちまけることがそろそろ必要なのかもしれない。このクロニクルの次の30年を紡いでいくのは誰か。会場に集った一人一人がその登場人物であることには間違いない。
福岡現代美術クロニクル1970-2000
学芸員レポート
2012年の暮れになって飛び込んできた、『東京新聞』の『今度は民から官へ 指定管理者 見直し 美術館など公募 横浜市「そぐわぬ」』(2012年12月19日付)という記事が感慨深かった。横浜美術館が非公募になったとすると、政令指定都市の美術館で指定管理者を公募しているのは熊本市だけとなる。
筆者の属する熊本市美術文化振興財団は、熊本市現代美術館の開館後3年半で非公募から指定管理に運営が切り替わったが、昨年で開館10周年となり、はたと気づくと、結構長く指定管理者をやってきたのだなあ……と感慨深いものがある。
確かに指定管理者制度はしんどい。もともとは「市民のための社会教育施設」だったはずの美術館で、いつの間にか「見えないライバルに勝つ」ために、必要以上に事業を詰め込んだり、入場者数をあげることに躍起になったり、民間企業からすれば当たり前のことだが、素人集団が経営努力に初めて直面し、手探りでこれまでやってきた。常勤館長や学芸課長がそろって不在になった時期もあった。
しかし、いまでは、それが悪いことばかりだったとも思わない。業界全体が美術館は行政直営の教育施設であるという点に安住し、地域の課題や時代の流れときちんと向き合ってこなかった当然の報いであるようにも感じる。自分をはじめ、どこか甘えがあった職員の態度も、ずいぶんと「変わり」、事業に対する緊張感や積極性が増し、「地域に必要とされる美術館・財団であれば、きっと選ばれる。そのためにはどうするか」という態度になってきたのは嬉しく、働き甲斐がある。
ただ、やはり現状の一財団一美術館運営によるギリギリの綱渡り状態や、逆に指定管理者制度によってねじれが生じ、阻まれているサービスなどもあり、制度の壁が取り払われ、元の状態に戻りさえすれば、甘えの時代を克服し、もっと市民のための事業を重ねられるのではないかと夢見ることもある。
最終的には、市民の血税で運営する施設であるため、熊本市民が、「暮らしやすい」生活を送るうえで、指定管理者制度がそぐうのであれば、まったくそれで構わないと個人的に考える。自分たちの暮らし向きにあわせて、いろいろなものを再デザインすることはとても大事だからだ。そのなかで美術館が生き残るかどうか、ということよりも、美術や文化が私たちの生を励まし、喚起し、慰め、豊かにしていくことができる、そういう力を多くの方に知っていただくことが大事な目的であり、美術館はそのため、いまのところ最適なのではないかと考える。いずれ、美術館などがなくとも、そういう状態がすでに熊本の街のなかでは自然に達成されているよという日が来ることを、今後の「夢」として、2013年の一歩を踏み出したい。