キュレーターズノート
プロジェクト「PHASE 2014」
工藤健志(青森県立美術館)
2015年01月15日号
対象美術館
ホントに1年って365日あるんだろうかと疑わしく感じてしまうほど、あっという間に2014年が終わり、新しい年がやってきました。まだアトムは生まれてないしマクロスだって建造されてないけど、2015年の今年も使徒が襲来しないことを祈るばかりです(半分真剣)。私事ながら、去年は「美少女の美術史」と「成田亨──美術/特撮/怪獣」という2本の展覧会を担当していたので、ほとんど仕事漬け。他館の展覧会を見る暇がほとんどなかったのが悔しい限り。今年こそはちゃんと見て回りたいなあと思っています。ちなみに美少女展は現在島根県立石見美術館で(2月16日まで)、成田亨展は福岡市美術館で(2月11日まで)開催中なので、お近くの方はぜひ。
ってなことで(ここからは文体もガラリと変え)、あっという間に季節は巡り、また厳しい冬がやってきた青森。雪が積もり始めると青森県立美術館の屋外ヤード(南の中庭)にある「八角堂」は冬期閉鎖に入る。この八角堂は《あおもり犬》と並ぶ奈良美智による美術館のコミッション・ワークで、屋外ヤードの浮島部分に設置されている。青空の下で作品を見て欲しいという奈良の想いが反映された天井のない八角形の空間で、入り口を除く計七つの壁面に展示スペースを持つ。2006年の開館から2014年3月までは、奈良が手がけた6点の皿状の作品による《Shallow Puddles I/浅い水たまり I》が公開されていたが、今年度は新たな試みとして「PHASE(ファーゼ)」を開催。「PHASE」とはドイツ語で「段階」や「相」を意味する言葉で、国内外の若手アーティストの活動を支援するとともに、八角堂という空間のさまざまな「相」を若い作家に引き出してもらおうという試み。奈良自身がディレクターを務め、いくつかの美術系大学の卒業制作展をリサーチし、まだ大学に在籍する若いアーティスト3名を選出。八角堂の特徴的な空間を舞台に、その才能を存分に発揮してもらった。と書くと「あ、若手作家展ね」と軽く流されてしまいそうだが、よくよく考えると、ほとんど実績のない若手を美術館で取り上げること自体が画期的ではなかろうか。「新しい価値の創造、発信」と言葉にするのはたやすいけれど、日本の美術館の多くは公的機関が運営を行なっていることもあってか価値追従型の傾向が強く、ギャラリーに先がけてこうした若い作家を取り上げたことの意味は大きいと思う。
今年度は3名の国内作家を3期に分け、それぞれ個展形式で作品を発表してもらった。PART1は東京造形大学大学院造形研究科美術研究領域に在学中の宮川慶子、PART2は京都市立芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻に在学中の伊藤早樹子、PART3は武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻彫刻コースに在学中の永井天陽。展示は三者三様で、それぞれ八角堂という空間、青森という場と対峙しつつ、それぞれの関心事をそこに織り込みながら展示を構想。そのインスタレーションはまさに「挑戦」という形容がふさわしく、「いま」と「ここ」を必死につかみとろうとするがゆえの矛盾や破綻もはらみ、展示としては消化不良の部分も残しつつも、むしろそれが新鮮な魅力となり、さらに見る者の思考を飛躍させる力となっているようにも思えた。彼女たちには作品や展示を小器用にまとめてしまうような賢しさとはいつまでも無縁でいて欲しいと願う。
宮川慶子のインスタレーション「わたしがわたしとあなたのためにお祈りしていると」は八角堂の構造を「礼拝堂」に見立て、七つのケース内にまるで聖像のように作品を安置。「祈り」は人間の精神的な支えとなり、祈る者は聖像にさまざまな願いや欲望を投影し、聖像からの「応え」を受け取る。宮川が安置した聖像は小動物をモチーフにした立体であり、繊維のような質感を持つ平面であるが、それらはいずれもどこかか弱く、はかなげな美しさが感じ取れる。同時に立体の刺々しい突起物や平面のゾワゾワしたマチエールなど作品のディテールからは存在としての強さも受け取れよう。もともと「美しさ」とは表層に依るものでなく、さまざまな経験の蓄積とそれによって形成される意識や感情と密接に結びついて生じるものである。人は多かれ少なかれ傷つき、苦悩しながら生きていくが、その負の感情をストレートに他者へと向けるのではなく(それは単なる「悪意」となる)、自身のなかで昇華させ、これからを生き抜く力へと転化させることで美しさとなっていく……とそんなことを宮川作品は静かに主張しているようにも感じた。ゆえにその作品に「愛らしさ」を感じて接近すると、次の瞬間しっぺ返しを食らってしまう。それは美しきものと接する際の正しい態度ではない。そこにはマッチョな視点があるのみで、一方的に欲望を投影する対象としてしか相手を見ていないからだ。たとえ弱き存在であろうと生きることに対する凛とした強さを表現した宮川の作品の前にじっと佇むと、作品は複雑な「感情」をもってわれわれを見返してくる。平面作品における線状の溝は複雑な心のヒダをそのまま映し出さしたもののように感じるし、立体に施された突起物からは懸命に自らを守り、存在への脅威に対しては威嚇をも辞さない意思が読み取れる。宮川は「私」を客体化させることで作品をつくり、「私」と「私」から「私」と「あなた」へとその関係性を広げていく。このように、個人的な問題にとどまらず、人と人、人と社会といった広がりを有する点に、宮川作品の魅力はあるように思う。率直に言えば、作品名などいまの若い世代特有のセンチメンタルな言葉遣いに当初は拒絶反応を抱いてしまったが、「私」とその「生活」といった卑近なテーマを超え、「生命」や「感情」といった本質、根源を探ろうとするその作品は、独りよがりの「自分探し」を突き抜け、われわれが等しく共有しうるテーマ性を持っていた。今回、八角堂を礼拝堂に見立て、作品を聖像と位置づけ、「祈り」という言葉を用いたことも、そうした宮川のコンセプトを端的に示すものと言えるだろう。
続く伊藤早樹子のインスタレーションは一言「大胆不敵」としか形容のできないないものであった。「イマイマスメロン」というタイトルの不可解さもさることながら、なぜ青森、八角堂でメロンなのか? しかも八角堂内部のみならず、周辺のスペースまで活用し、土のたたきの上には陶器のメロンを、八角堂外部の壁面には強烈なメロン柄のカッティングを、八角堂にあがる階段には漫画を、そして八角堂内部には元の空間性を否定するかのような造作を施してオブジェ、絵画を設置し、突飛なメロン農園を出現させた。ここまで既存の風景を大胆に上書きすることの意味はなんだろう。伊藤は次のように記している。
よく知る景色と対峙したとき、なぜか気持ちだけがこの場にいないことがあります。
一方で、初めて訪れたのにも関わらず、あたまと気持ちの同居を強く感じる場に出会うこともあります。
これらスポットの脈絡のない出現、また、従来信頼をおいてきた対象への疑心によって、今立つ着地点さえ希薄に感じるのです。
この完全には把握困難な大きなものに近づこうとする行為とともに、「フにおちる点」をこの場に持ち込みうるかを試みます。
もともと滞在制作において「場」を強く意識する作家は数多くいるが、例えば「青森」の風土であれば「北」や「雪」、食であれば「りんご」か「にんにく」、衣であれば「ごぎん刺し」、住であればかやぶきの「曲屋」といったものが取り上げられ、そうしたモチーフを通して日本の原点を見いだそうとしたり、あるいは中央に搾取される地方といった物語を描き出す。そんな試みを頭ごなしに否定するつもりはないけれど、「まず結論ありき」の展示にはちょっとうんざりしちゃうし、特定の主張を押し通すための方便に作品を使うと、どうしてもアートから下を見下ろす感じになってしまう。そんな歴史観の披瀝、現代思想の表明の場ではなく、人と人、人と場、人と作品の等価な対話のなかから答えを紡ぎだしていく、ある種の民俗学的なアプローチによる展示のほうが個人的には「フにおちる」のだが、伊藤の試みはさらにその斜め上を行くもので(笑)、アートという手法を通して文脈の異なる要素を幾重にもつなげていくことで、見る者の意識を柔軟にほぐし、新しい思考を喚起していく。故郷が東日本大震災で被災したことが「日常」という感覚の懐疑につながったという伊藤にとって、今回の作品は「いま、ここにいる」という身体感覚を取り戻すための一種のリハビリテーションでもあったようだが、むしろステロタイプな青森像を抜け出し、「風景」とはなにかについての根源的な問いかけにもなっていたように思う。
そもそも「がんばろう」と言われたくらいでがんばれるほど人は単純じゃない。支援している暇があるならまずはそうした「出来事」を自らの生にぐっと引きつけて考えてみるべき。人がとやかく言うことや世間の常識が私にとっての「リアル」なのか? 私が「フにおちる」ことこそが私にとって偽りのないリアリティなのではないか。……青森でふと意識したメロンや某クレジットカード関連事業社のロゴ、それらは青森らしさとは無縁のモチーフではあるけれど、それが伊藤にとって「いま、ここに、います」=「イマイマス」という感覚につながり、その根拠を「作品化」という精神の運動によって探っていく。そもそも長い時間をかけて堆積した生活や意識の集合体が「地域」と称されるものを規定していくわけだが、観光的な視点で強調される地域性がいまそこに住む人々のリアリティと直結しているのかは甚だ疑わしい。いまや大手資本のチェーン店の進出や均質な都市計画により世界の至る所が同じ風景になってしまったという批判もあるけれど、むしろいつの時代も各地の風景には共通する要素があり、知らない土地であっても不思議な親近感を抱くことはよくあるだろう。では、そうした「世界」「地域」のリアリティとはなんなのか。その考察が「いまを生きる」ことの実感となり、世界に対する信頼の根拠となる。伊藤は風景に自らのアイデンティティを映し出すことでその答えを見つけようとした。「概念」としてではなく「身体」そのものを風景にぶつけていく。こうした「生の身体感」が伊藤の作品に強烈な個性を与えているのだろう。もともと明快な答えなどない問題であるがゆえに、矮小な既成の価値に追従するのではない、こうしたアプローチからの問いは大いに評価すべきである。
八角堂とその周辺のトレンチは土の掘り込みをイメージしつつもきわめてフェイクであると筆者は常々思っていた。もしかすると伊藤もまた無意識にそれを感得し、フェイクな場にさらにフェイクな農場を構築することで、現代社会という巨大なフェイクのなかでいかに存在としてのリアリティを確保するかを探求しようとしたのかも知れない。
永井天陽のインスタレーションもまた、存在や価値の揺らぎを可視化するものであった。永井が近年取り組んでいる「メタラクション」シリーズは、あるオブジェをまったく異なる外殻でくるみ、元のオブジェの実体や意味を曖昧にするもので、視覚とは目に見える表象のみで成立するものではなく、それがまとう時間や存在する環境との関係性、見る者の見る対象への意識や欲望といった見えない要素をともなって初めて「認識」されるものであることに気づかされる。もともとは大学で彫刻を専攻した永井であるが、その作品もまた彫刻単体として成立するものではなく、彫刻を取り巻く空間や時間と接続させることによって、ほんらい不可視なそれらの可視化を試みるものが多いように思われる。ある存在が存在として存在するための根拠を探るため、ある存在を規定しているフレームをいったん周囲へと融解させることで、逆説的にある存在が存在することの意味、そして周囲との関係性を明らかにしようとするのだ。「北に歩いて南に向かう」という展示タイトルからも、八角堂が北国の美術館の南側に位置することに重ねて、既成概念の解体や相反する要素の同存によって世界を支える根源を探求しようという永井の意図が読み取れよう。八角堂そのものは屋内でありながら屋外でもあるという特異な構造を有しており、それは永井作品のコンセプトとも重なるところがある。実際に今回の展示は空間と作品が共鳴して相互に意味を補完しあうような構造を持ち、「場」としての強度が高められているような印象を持った。見えているものを見るという単純な視覚体験を超えた、空間の「意味」のようなものが体全体に迫ってくるインスタレーションであったと言える。
このように3人の若い作家はそれぞれ異なる手法で八角堂と向き合い、八角堂という空間の本質をさまざまに引き出すことに成功していた。これから八角堂周辺をどう活用していくべきか、われわれスタッフにとっても大きな刺激となったプロジェクトであった。この「PHASE」は2015年度も継続して開催されるが、八角堂が今度はどんな表情を見せてくれるのか、いまから楽しみでならない。