キュレーターズノート
「ヂョン・ヨンドゥ──地上の道のように」/アーツ前橋でのアーティスト・イン・レジデンス事業
住友文彦(アーツ前橋)
2015年01月15日号
社交ダンスを踊る男女を撮影し壁紙にした《ボラメ・ダンスホール》(2001)は、2002年の第2回福岡アジア美術トリエンナーレで展覧会チラシのメインビジュアルにも使われ、多くの人が記憶する作品になったが、当時ヂョン・ヨンドゥはまだ33歳。いまや韓国を代表する中堅作家の個展だが、今回は水戸で制作された新作にかなり場所を割いていたせいで、若いうちから才能を発揮し評価を獲得してきた彼が過去に発表してきた作品の紹介は控えめだった──。
美術に引きこもるのではなく、社会の複数性を引き受ける
彼の作品を特徴付けるのは誰もが心を動かされる情感のようなもので、それは今回の展示でも辿れるように、思春期特有の自意識、人生の夢、過去の思い出、現実を生きるたくましさ、などだ。そしてそれらに共通しているのは、今ここにはないゆえに別のところ(あるいは、もの/時間)へと私たちが働かせる想像力である。ここには実在しないはずのイメージを写真や映像を使って作り出し、作品制作を行なってきた。そうしたイメージが作り出される仕組みに意識を向ける傾向が近年の作品では色濃くなっている。また作品はどこにでもいる一般の人を主人公にすることが多く、描かれる物語のほとんどは凡庸であるゆえに聞き入ってしまうようなものである。しかし、カメラを向ける彼の焦点はおそらくその物語には向けられていないだろう。むしろ人がなぜそのような話を好むのか、あるいは思い出したがるのか、といった心の働きのほうに焦点は向けられ、それに寄り添いながら一緒に虚像を作り出す。
例えば写真作品の《奥さまは魔女》(2001-)では、世界各地で出会った人に叶えたい夢を聞き、それが実現した状態を演出した様子と現実を写すふたつのポートレイトを交互に見せる。あるいは《ドライブ・イン・シアター》(2013)では、都市の夜景のなかをドライブする自分がまるで映画の主人公のようにスクリーンに映し出される。映画のワンシーンに登場する自分はやや暗めの画面が気恥ずかしさを薄めてくれるためか、そんなに違和感なく「主人公」になりきれる。ちなみに、照明が目の前のワイパーに仕込まれ、どのように顔を照らしているのかという撮影のための演出は観客にあからさまにわかるようになっている。つまり、これが虚構であるということは明示されている。それは《日常の楽園 #1,2》(2010)でも同様である。今回展示されていない彼の過去のいくつかの作品においても、映画の小道具や照明などを運び込み、撮影のためにカメラに映り込む位置を調整するような様子をそのまま見せてしまうことが多い。あるイメージが、別の角度から見ると虚構であることがわかってしまう。それを見る側も出演者も双方が了解したうえで、作り出される虚構を見る。こうした映像の虚構性を見せるタイプのアーティストは韓国には比較的多い。この映像や写真がメディアとして持つ特性を、政治体制の激しい変化や急激な経済成長や都市化と結び付けるような作品をヨンドゥの同世代のアーティストが数多く発表している。先の《ボラメ・ダンスホール》では、かつて社交ダンスが禁じられていた時代に青春時代を送った世代の男女が通う現代のダンスホールが、かつて軍用機の格納庫だった場所だったというように、現代の平和と過去の記憶が重ねあわせられている。
しかも、その多くは見ているうちに思わず苦笑してしまうようなユーモアをともなう。つまり、ありふれた日常を切り取りそこに社会に対する批判的なメッセージを込めているのだが、対象にどこか共感を示すような柔らかな眼差しも感じる。欧米のビデオアーティストが社会やメディアへの批評性をシャープで洗練されたものにするのとは少し違う。ときにそういった韓国の映像作品が私たちには大衆的過ぎると感じることもあるだろう。もともと韓国はとくに日本と比べると、日常生活や都市のなかに入り込むタイプのアーティストが圧倒的に多いのだが、その多くは美術表現の形式やメディアの特性に言及するのではなく、いま生きている社会について考え、それを伝えることに関心があるタイプが多い。表現形式の洗練よりも、作品がどのように見る相手に伝わるのか、しかもその相手が美術史を知っていない場合も含めることが重視されているのではないだろうか。ここではその歴史的な経緯には十分に踏み込めないが、過去の反体制運動が大学生や知識人をはじめとするエリート層から拡張し得ずに短期間で終息した日本と、広範に社会のさまざまな層に拡張させることを経験した韓国の歴史が、芸術表現に与えている違いとして反映されているように私には思える。つまり、ヨンドゥの作品もまた、美術という領域に引きこもるのではなく、社会の異なる階層や異なる文化に生きる人たちの複数性を引き受けるものであると言うことができないだろうか。
そのうえで、彼が大衆に対して鮮やかな虚構を作り出し愉しませるマジシャンと一緒に作品を作り続けているのはとても興味深い。《マジシャンの散歩》(2014)で次々に繰り出されるマジックは、画面を通して見ても私たちがその虚構を見破ることはほとんどできないだろう。これまでの作品と違ってその演出過程は暴かれないので、私たちは次々に騙されるのを愉しむしかないように思える。まるでショーを見るように。しかし、マジシャンが散歩するのは水戸芸術館近隣の道であり、商店やビル、あるいは休日にくつろいで飲み食いをする人々といった見慣れた風景を舞台に、どんどん非日常的な出来事を差し込んでいく。見慣れたはずの風景のどこを私たちは見ていたのだろうか、どこを見逃していたのだろうか、という戸惑いを見る者は覚える。しかし、軽妙なマジシャンの歩調はそれを置き去ったまま次の出来事をすぐさま見せ続ける。一部、撮影するスタッフや全盲のマッサージ師・白鳥健二さんの姿が画面に映ることが、私たちにショーのような居心地の良さとは違う違和感を突きつけるのだが、マジックの秘密はそのまま街の日常のなかに取り残されていくのだった。
「ローカル」な対象と向かい合うとき
この全盲の白鳥さんとの出会いや東日本大震災や福島第一原発の事故のことは説明に書かれているようにヨンドゥのなかで大きな制作動機になっていたらしい。しかしそれとは直接関係なく、私は彼の社会との向き合い方に関心を持った。それは前の週に千葉市美術館で見た回顧展で感じた赤瀬川原平のそれと響きあうように感じられたからかもしれない。赤瀬川は、きっと前衛芸術のなかに身を置きながらそのエリート主義的な振る舞いを感じ取り、活動の場を美術の外側に旺盛に拡張していった。展覧会や美術史とは関係のない人たちに向けて、彼独自の表現を通した批評性を届けるうえでは美術の形式などどうでもよく、それはマスメディアの誌面でも、小説でもよかったわけである。それは、同時期に東京国立近代美術館で行なわれていた「高松次郎──ミステリーズ」展が、「実験室」や「アトリエ」を設置する過剰な演出で仕事が紹介されることで「世界的な評価」を言祝がれていたのと対照的とも言えないだろうか。このふたりの作家が実際に持っていた思想や関心はそこまで違わなかったとしても、現在のグローバルな美術はおそらく高松次郎に接近しやすく、なかなか赤瀬川原平には近づけない。それは、作家が表現によって目の前にある「ローカル」な現実社会や鑑賞者と向かい合おうとするときに、どれだけそれらを幅広い複数性を持つ対象としてとらえているかの違いのように思える。
ヨンドゥはきっと、自分と同じ場所で生きている人、それは韓国という作家の出自のみと結び付けられるのではなく、仮に彼が他の土地に行っても同じように、そこに生きている多様な人々を見つめて作品を届けることを考える作家なのだと思う。だから、《ブラインド・パースペクティブ》(2014)で使われていたコンピュータゲーム用の映像デバイスをもっと使いこなし、完全にゲーム型の作品を今後制作したとしてもまったく驚かない。赤瀬川と比較すると美術の範疇におさまる活動をしているとは言え、彼は人々の日常経験のなかに入り込み、そこで共感し、批評的な思考を深め、それをもとに作品を制作するために、音楽、映画、写真だけでなくそれに相応しいメディアを今後もきっと選び取るだろう。
それから最後に季節ネタっぽいが、昨年末はいつも通り2014年を振り返る報道や記事を数多く眼にした。そのなかでイスラム国やエボラ熱と並んで日韓問題は大きな比重を占めていた。政治の問題はともかく、日韓ワールドカップや韓流ブームによって友好的な関心が高まっていたにもかかわらず、美術の分野で韓国の作家について知る機会が増えたようには感じていなかったが、2014年の年末は、このヨンドゥ展とならんで、エルメスではリギョン、ルイ・ヴィトンではソ・ミンジョンと定評ある高級ブランドのアートスペースが韓国アーティストの展示を行ない、同時期に開催された「フェスティバル/トーキョー」でも韓国のカンパニーが数多く紹介されていたことが印象に残る。ちなみに、アーツ前橋でもヘヴン・ベクを11月から12月まで招聘し、滞在制作をしてもらっていたので、中堅から若手で注目されている韓国アーティストを日本で数多く見る機会になったのは嬉しいことである。両国はかなり文化的に共通するものが多いにもかかわらず、植民地化、民主化、工業化によって近現代の社会変化は微妙に異なる歴史を辿った。それがヨンドゥと赤瀬川のようにまったく世代が違う作家同士のあいだに、互いに響きあう要素を見いだせる理由である。地域社会に美術作家が介入するアートプロジェクトが近年国内で増えているが、社会における美術の位置がどのように歴史的に変化しているのかを参照しながらその可能性を考えてみたいと思わせる展覧会だった。
ヂョン・ヨンドゥ──地上の道のように
学芸員レポート
前述したようにアーツ前橋ではアーティストの滞在制作スペースを持った。昨年まで西尾美也の「ファッションの図書館」というプロジェクトを実施していた竪町スタジオと呼んでいる建物で、もともと空きビルだったが昨年夏に簡易な改装を施して、制作や展示に使えて通りに面している1階部分と、上層の居住スペースが使えるようになった。
こうした場所を確保するに至る経緯として、美術館として現在作品を制作し活動しているアーティストの支援をどのように行なうべきかいろいろと検討してきた。例えば、群馬県立近代美術館の群馬青年ビエンナーレのような賞の授与も選択肢のひとつだろうし、あるいは若手作家によるグループ展を定期的に開催するのもひとつのやり方だろう。おそらく事業の発信力としては、こうしたアワードや定期的なグループ展のほうが認知されやすいだろう。とくに、これだけ表現の幅が広がっている現状にきちんと対応できているアワードは不十分な状況にあるように思える。しかし、そもそも大学を出た若いアーティストが活動していくためには、もっと手前の段階での活動支援として制作スタジオの提供が重要なのではないかと考えたのだった。
そして、第一弾として学生時代に前橋近隣で活動していた片山真理を10月に招聘した。彼女は、自分の身体とワークショップに参加した人たちの身体の一部を石膏で型取り、それに皮のパッチワークを加えた作品を制作し、さらにポートレイトの撮影を行なった。滞在制作事業の大きな特徴は言うまでもなく、こうした制作の過程に私たちや地域の人が触れることができる点である。彼女の制作のベースとなっているのは子どものころからずっと行なってきた手仕事であるが、そこに芸大で得た表現のための技術が加えられている。滞在制作にあたって彼女がこのように何を自分が感じ、表現してきたかを的確に語ることができたのは、たいへんありがたかった。それも説明が巧いというレベルではなく、つねに使う素材や技法と繊細な自分の感覚とが結びついているか真剣に考え、表現することと生きることを密接に関わらせているため、彼女と触れ合った人にそのことが強い説得力を持って伝わっているように思えた。また、制作に先立ち、まず彼女が行なったのは自分が気に入っているコラージュのプリントを壁に貼り、足が不自由でも動きやすくするために居住環境を整えることだった。殺風景なアトリエを自分らしいものにして、かつ義足を使う生活に必要なものを整えていく様子は、滞在制作事業がたんに手を動かして作品を制作するだけではなく、アーティストが日々考え、生活し、人と交わるための環境を作り出し、そうした完成した作品以外の多くのものにも創造の魅力が潜んでいることを教えてくれた。彼女が制作した作品は現在、恵比寿のトラウマリスで見ることができる。また、その後は前橋で今度は音楽のパフォーマンスも予定している。
そのあと、11月から12月までは韓国のヘヴン・ベクが滞在制作を行なった。彼女はこれまでも地域のコミュニティに入り込み、そこで共有されている記憶をもとに作品を制作している。短期間のあいだに言葉が通じなくても地域の人々と軽やかにコミュニケーションをとる勘の良さに驚いたが、それはこれまでも海外で生活したり、アートプロジェクトを行なってきた経験によって培われた観察力に支えられていたのではないだろうか。見事に客人として地域の地理的な記憶をかたちに置き換えるワークショップを行ない、そこから《Lake Scratchers》というプロジェクトを立ち上げた。彼女は赤城山山頂の湖が凍るときに再び、ワークショップに参加した人たちと一緒にパフォーマンスを行なう予定である。
近年はかなりアーティスト・イン・レジデンス事業が国内各地で行なわれるようになっている。立地、招聘期間、作家数、支援の方法など適切な運営方法をアーツ前橋でも模索中である。現在ベクのように海外からアーティストを呼ぶ場合は、選考のための推薦をアジア、ヨーロッパの専門家から挙げてもらうようにしているので公募ではない。また、片山のように地域に縁があるアーティストが再び地元で制作するきっかけになるケースも意義深いと思うし、作品制作だけでなく地域の学校や他の文化施設でレクチャーやワークショップをしてもらうのもこうした事業の可能性として考えてもいいだろう。あるいは、地元で活動しているアーティストにとっても、一時的にアトリエが必要なときに使える場所であってもいいのかもしれない。誰にでも適応できる受け入れ条件を設けることがかえって制作のための制約になることも多いので、作業ツール等の設備を立派に整えているわけではない以上、自由に使えるスペースとしてどのような可能性があるのかいろいろ試せるときっとよいだろう。
ちなみに、これに先立って竪町スタジオを持たない開館前のプレイベントの段階でも、照屋勇賢とペ・ヨンファンを滞在制作のために招聘したことがある。それによって私は展覧会にはない滞在制作事業が持つ大きな可能性に気付かされた。照屋は美術館の設計段階において震災の記憶を留める空間の提案をして、設計者や地元の建築家の協力によって《静のアリア》が実現している。また、彼が制作して水戸芸術館の「3・11とアーティスト:進行形の記録」展などに展示された《自分にできることをする》は「未来の芽里親プロジェクト」という市民による作品協同購入と被災地支援へと発展した。また、ペ・ヨンファンも森美術館の「LOVE」展でも展示された《福島の風》《オブジェクト/福島の風1》《オブジェクト/福島の風2》を制作し、開館前の美術館に対していくつものアイディアを提案してくれた。残念ながら後者の提案は実現しなかったのだが、それでもアーティストによる想像力が美術館の形作りに大きく影響したのは間違いない。滞在制作の大きな魅力は、作品の完成や発表ばかりではなく、その感性や考えに触れる機会をどのようにつくるかにかかっている。そこがよく考えられていれば、たんなるアーティストの支援事業ではなく、地域や美術館にとっても得るものが大きい試みになるはずである。