キュレーターズノート
「法貴信也 個展」「館勝生 展」
中井康之(国立国際美術館)
2016年01月15日号
「2本画」と自ら命名したスタイルに代表されるような独自の線表現による絵画世界をつくり上げてきた法貴信也の新作展が京都で開催されていた。また、80年代末から一貫してアクション・ペインティングを体現してきた館勝生の晩年の作品を展観する個展が大阪で開かれていた。2人の作家の試みを通じて考えたことを記したい。
「2本画」に代表される法貴の線描表現については、これまで美術評論家の清水穣が詳細に分析したいくつかの論考がある
「2本画」というのは、文字通り平行する2つの線描が平面上に展開される法貴独自の表現技法であり、法貴は同技法を中心に画面を構築した作品を制作してきた。その2本の線は、基本的には赤色系と青色系という補色関係の色彩によって成立している。
「オリジナリティ」と「ナショナル・アイデンティティ」
このスタイルが生み出されたのには大きくとらえれば2つの理由がある。まずひとつには作家個人としてのオリジナリティの追求であり、もうひとつには日本という国に生まれ制作しているというナショナル・アイデンティティの問題である。1990年代前半に京都市立芸術大学に身を置いていた法貴は、周囲からもたらされる新しい絵画表現、ニュー・ペインティングや日本のポップとでも呼ぶべき表現に晒されていたであろう。また当時、美術評論家の北澤憲昭によって解読された日本画というジャンルの生成過程についての論考を見聞することがあったと思われる
まず後者のナショナル・アイデンティティの視点から述べるならば、法貴はこの日本において独自な絵画を考えるための基盤を、江戸期までの諸派、狩野派や円山・四条派あるいは琳派や南画といった絵師たちの仕事をとらえ直すことにより、西洋から移入された美術を客観視することが可能となるととらえた。最終的には円山応挙の《藤花図》等に見ることができる筆で一気に描かれた墨の線が藤の蔓のような実態となる表現に着目し、その変幻自在な線描表現に可能性を見出した。そして、その線描によって日本のポップの源流ともいえる漫画やアニメのイメージを流用した線描表現を繰り返し描くのであるが、法貴はここでオリジナリティの追求という前者の課題を克服するために、それらのイメージを描きながら漫画やアニメに付与した象徴的な意味を完全に排除するという過酷な命題を自らに課すのである。そのような試行錯誤の末に、黒い線描を青と赤という色素に分解し、線描を二重化することによって僅かな遠近感を生み出し、その線描表現が画面全体に及ぶことによって、線描表現自体が前景化し、イメージが後退していくような表現を作り上げていったのである。
あらたに加えられた2種の線描表現
今回の新作展では、法貴の線描による表現はいったん休止し、ペインタリーというと言い過ぎかもしれないが、画面全体に掠れた線を残した筆触が拡がっていたような様相を表わした。以前は、画面に掠れた線が残ることを嫌い、平滑な画面を生み出すために金属による基底素材と自作の描画具を自ら用意した法貴にとって、カンバスを用いること自体に抵抗があった筈である。しかしながら今回の新作では逆に、その筆触の掠れ自体を画面効果として受け入れ、画面全体がダイナミックな表現になっていた。もちろん、このような表現は先に掲げた二つの命題、オリジナリティとナショナル・アイデンティティに抵触する危険性があるだろう。というのは、法貴が「2本画」を見出したのは、江戸期に線描表現によって成し遂げられていた墨による線が描画のためであるとともに外界を再現する素材として同時に存在する方法論を現代に活かすことを考えてのことである。それを幅広の筆に持ち替えて、ヴォリュームのある面、あるいは三次元空間を生み出すかのような表現を生み出すことによって、近代化する日本に流入してきた二次元空間が視覚的な三次元空間を作り出す西洋美術の体系に一気に取り込まれ、法貴が実現しようとしていた独自な体系が一瞬にして失われてしまう危険性を、誰よりもまず作家本人が感じたであろう。
もちろん、法貴の作品に近づき画面を注視すれば、そのような性急な変化を遂げたわけではないことはすぐに了解される。一見、ヴォリュームのある面に見えたのは、2色の線描表現と少し幅のある緑色系と茶色系の掠れた筆触、そしてそれらの2種の線描表現の間隙を覆うかのように白色系の掠れた筆触によって画面全体の調子が生み出され、あたかもある厚みのある絵具層が形成されているかのように見えていたのである。それまでの平滑なモノクロームの画面上に2色の線描が僅かな掠れをともなって描かれていた画面構成と比較すれば、その2色の線描に加えて2色の刷毛目をともなった描写は西洋美術の体系に近づいていると言えるかもしれない。さらには先に述べた白色系の掠れた筆触が中間層を形成するかのような役割を果たし、その中間層を前後するかのようにそれら4種の線描表現が画面上で遠近感を生み出しているのである。この遠近感は、強いて挙げれば空気遠近法的なものであり、その間隙を縫うように描かれた明快な線描は手前に、掠れた線は画面の奥へと向かうのである。もちろん、なんらかのある対象が描かれているわけではないので、それらの線描が生み出す遠近感あるいは振幅は絵画表現自体なのである。
分析的キュビスムと比較して
このような表現様式を過去の作例から考えるならば、20世紀初頭ピカソとブラックによって急速に抽象的な表現へと近づいた分析的キュビスムを挙げることができるかもしれない。ピカソ等が新たなるリアリズムを求めて対象が認識できなくなる直前まで画面を細分化していったキュビスムの発展段階の一様式である。
初期キュビスムは名称の通り立方体の集積であったが、分析的キュビスムでは画面は次第に小さい切り子状の集合体となっていった。その分節化した画面の統一を図るかのように切り子の形体同士の接合部分は互いに浸透し合い、グラテーション表現をとった。分析的キュビスム作品の多くが無彩色のモノトーンが基調となり色味は褐色や濃緑色など抑制された色調で描かれたのは、分節化しようとする画面の一体化を保つという理由があったのだろう。ただし、分析的キュビスムの作品群は、一個の事物を多視点でとらえるという方法が前提としてあったため、画面の密度が画面中央に集中する傾向があり、作品によっては四角い画面の四隅を排除して楕円状のカンバスに描かれた作品なども誕生している。逆に、四角いカンバスの中央部に分節化された明るいトーンの切り子が集積した作品ではバランスをとるかのように周囲の切り子は暗いトーンながらも力強さを保った。ただ、その美術動向は、後者ではなく前者の変化の方向に進んでいった。楕円状のカンバスは、画面全体が均一化して中心を失うことを嫌って生まれた動きであり、その動きと同時に、画面に文字や数字あるいは印刷物といった外在的要因を取り込むことによって新たなるリアリティの獲得へと突き進み、総合的キュビスムという、キュビスム様式の最終段階へと進んだことはよく知られている。
このように、法貴の新しい作品シリーズが作り出した絵画空間は、分析的キュビスムが進むことのなかった、中心となる対象が失なわれながら画面全体が分節化して表現自体となった作品を体現するものであるとも言える。もちろん、ピカソとブラックは、そのような表現自体となった絵画には関心はなく、法貴自身も、分析的キュビスムが果たさなかった絵画を実体化しようと考えたわけではなかったのであるが……。
法貴信也 個展
スタイルの成立という命題
地域や時代、目指す方向性の大きく異なる二つの絵画様式ではあるが、新たなるリアリティを求めて独自な絵画表現を目指しているという意味では同様の意識があったと考えることも不可能ではないだろう。この法貴と分析的キュビスムの絵画様式を見るときに補助線となるか否かはとらえ方の違いによると思われるが、大阪の画廊で開催されていた7年前に亡くなった館勝生の絵画作品から示唆されることがあった。
荒々しい筆触とヴォリューム感のある絵具の使用によって特徴的な画面を作り続けた館の作品は、戦後アメリカの抽象表現主義から派生したアクション・ペインティングの論理からとらえられることが多く、一般的に、今回ここで取り上げる作品群の絵画様式とは大きく離れていると思われるだろう。私自身、館の作品をそのような行為の過程としてとらえて、カンバス上で起きている絵画的現象について思考を重ねることはなかった。
しかしながら、あらためて館作品を考えたときに、初期のバイオモルフィック(有機形態的)なイメージは、アクション・ペインティングとしては不用な要素であった。逆の立場から言うならば、館はそのようなイメージを大切にしていたと考えることができるだろう。館の初期作品を描写しよう。その画面を大きく占めているのは、ヴォリューム感のある絵具の使用によるイメージの創出であり、そこから溶剤で溶かされて流れ落ちるいくつもの線条が画面にスピード感をもたらしている。さらに、そのヴォリューム感のある絵具のイメージにパレットナイフ等で引っ掻いた鋭い線を媒介として、蝶のような小動物の羽根や動物の内臓等のイメージを生み出すのである。館は、われわれが想像する以上に繊細な画面づくりを心掛けていたのかもしれない。
今回の展示では、そのようなイメージの表出がなくなり純粋に非形象的な表現となった館の後期作品を中心に構成されていた。それらの作品画面は、この作家の初期作品の技法、ヴォリューム感のある絵具を駆使した躍動する筆触と溶剤によって流れるスピード感のある絵具、それにパレットナイフ(あるいは細い筆?)が創出する繊細なイメージ等の描画技法が一体化して、真っ白いカンバス空間に球体状のイメージを作り出していた。たんに以上のような作品の構成要素だけでみるならば、アクション・ペインティングの本来のあり方に戻りながら館独自の様式を生み出した、ということで話が終わってしまうかもしれない。
資料によれば
、同様の表現による同様の構図の作品が同年に連続して制作されていることがわかる。ようするに館は、画家が絵筆を持って描くという行為を荒々しい筆触によって表わし出すというアクション・ペインティングの手法を介して、あるひとつのイメージを繰り返し生み出していたと考えることもできる。館自身がアクション・ペインティングの後裔のようなとらえ方をされることに対してどのような意見を持っていたのかは知るところではない。ただ、彼が残したこれらの作品群が語っているのは、アクション・ペインティングからもたらされた既述してきた表情の異なる数種の油彩表現によって自らのスタイルが成立するかという命題であったと考えることができるのである。過去の美術様式を参照すること
作家たちが過去の遺産をどのように利用するのかということはまったくの自由である。そして、同時代の批評家たちがそのような過去の美術様式の利用についてどのような読み違いをしようともその作家の立場を侵すような論理でなければ無闇に否定することもないはずである。無論、批評家以上に論争好きの作家も数多い。彼らは同時代の批評家たちに自らの芸術の論理を蕩々と語るかもしれない。しかしながら、その論争好きの作家が自らの芸術のあり方を本質的に論じているとは限らないという観点からみれば、前者の作家たち同様、彼らの芸術の本質を探ることの難しさと愉しさを同時に感じるだろう。