2019年12月01日号
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キュレーターズノート

大原治雄写真展 ブラジルの光、家族の風景

川浪千鶴(高知県立美術館)

2016年05月15日号

大原治雄(1909〜1999)が、高知県いの町から農業移民として一家でブラジルに渡ったのは昭和2(1927)年、17歳のとき。家族や仲間と密林を切り拓いて手に入れたパラナ州ロンドリーナの広大な農場で働きながら、最愛の女性にめぐりあい、ふたりで9人の子どもを育てあげ大学にも全員を通わせた。妻に先立たれたのちも一度も帰国することなく、大家族に看取られながら89歳の生涯を静かに終えたという。

鍬を手に持ち、カメラを肩に

 戦前だけで約19万人の日本人(その内高知県からは約5000人)がブラジルを目指して海を渡った。大原も世界最大の日系人社会の礎を築いた大勢のひとりなのだが、28歳の頃に手に入れた小型カメラが、彼を特異な存在にした。
 ブラジルで2003年に刊行された大原の評伝『像を耕す人(Lavrador de Imagens)』によれば、「治雄の肩には、鍬とともに、まるで体の一部であるかのように、革帯のついた1台のカメラがつねに掛けられていた」とある。
 「農民写真家」としての大原は、開拓地の実態や入植者の地位、戦争の惨禍などの社会的な「大きな物語」には目もくれず、家族の日常や農園の風景といった身の回りの「小さな物語」を、日々の農作業と同じようにあせらずこつこつ地道に、しかし愛情を込めて、限りなく美しい写真として残し続けていった。


《家族の集合写真》1950年頃
パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ

天と地をつなぐもの


猫の目の如き天気がざあざあっ/時々灰色の雲が通ると大粒の水滴が落ちる
太陽にてらされて/まっ白い糸が/天と地をつなぐやうに思える

──大原治雄の日記より

 簡潔だが詩心が感じられる日記の文面から、ブラジルの赤い大地と広い空、そのあわいを駆け抜ける烈しい通り雨、その雨に濡れながら、鍬を手に畑に立ち天を仰ぐ大原の後姿といった、もしかしたら彼が撮ったかもしれない1枚の写真をつい想像してしまう。
 《朝の雲》は、地面に近い位置にカメラを据えて撮られたセルフポートレイトの代表作である。朝の光に輝くうろこ雲が広がる空の下、煙草をくわえたまま、鍬の柄を指先にのせ器用にバランスをとる大原と彼がしっかりと立つ大地は、逆光の黒々としたシルエットで絶妙な位置に配されている。左手から射し込む朝日に向き合うような、鍬の長い柄の影とその先端を見つめる大原の影。ここでも彼自身が「天と地をつなぐ」ものであり、光と影の双方の領域を行き来している。


《朝の雲》1952年、パラナ州テラ・ボア

物語の聞き手としての写真家

 《朝の雲》が、構図と光にこだわり周到に演出された写真でありながら、偶然出合った風景のように自然に感じられるのはなぜか。
 暮らしをいとおしみ、そのなかの何でもない出来事に深い眼差しを向け続けてきた大原の態度がそうさせている。大原は、物語の「語り手」=創作者・発信者というよりも、優れた「聞き手」=観察者・記録者であったといえるかもしれない。
 日々の暮らしの物語である民話とは、一方的に語られるものではなく、語り手と聞き手が対等の関係を結んで初めて場が成立する。長年宮城で民話採訪活動を行なってきた「みやぎ民話の会」の顧問・小野和子氏は、「語り手は聞き手によってよみがえり、聞き手は語り手によってつくりかえられる」(「小野和子語録」『物語りのかたち 現在に映し出す、あったること』2016年、発行:せんだいメディアテーク)と語っている。
家族を語り手、カメラを構えた大原を聞き手と捉えてみれば、家族写真においても、能動的な創作者と受動的な被写体という固まった関係はなかった。
 《コーヒーの実の天日乾燥場:治雄の息子・スナオ》では、働く息子の後姿と地面に伸びた影のコントラストが面白い。そのユーモラスで存在感のある影には、息子を見守る大原の姿が重なってみえる。《花壇での遊び》でも、笑顔の末娘の瞳には微笑む大原の姿が映っているはずだ。《治雄の娘・マリアと甥・富田カズオ》では、脚立と傘を使った演出を指示しシャッターチャンスを狙う大原も、レンズ越しにいつしかその遊びに参加しているかのような、楽しげな空気が伝わってくる。



左=《コーヒーの実の天日乾燥場:治雄の息子・スナオ》1949年頃、パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ
右=《花壇での遊び》1950年頃、パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ



《治雄の娘・マリアと甥・富田カズオ》1955年、パラナ州ロンドリーナ、富田農園
[以上、すべての写真=© Haruo Ohara/ Instituto Moreira Salles Collections]

美しいアルバム帖

 アマチュア写真家である大原の作品の魅力は、何よりも自分で得たものを信用している「健やかさ」にある。撮影すること、それ自体が身体表現をともなったひとつのパフォーマンスのようにさえ思われるのは、大原が、自分の写真にレンズ越しに「参加する」ことで親密な記録を残しているから。そして、鑑賞者である私たちも、その記録を通じて、幸せな家族の風景に参加することができる。
 大原の代表作をひとつあげるとすれば、それは、妻・幸の死後、9人の子どもたちひとり一人のために、過去の膨大なネガを見直し、1冊あたり300枚近い写真を選び焼き増しし、その子の特徴や母の思い出、家族の歴史を1年がかりで編集した『アルバム帖』に尽きるだろう。
 今福龍太氏が、「大原にとって写真は、人々から彼に向けて預けられた人生に、責任を持って尊厳と美を与える行為にほかならなかった。」(今福龍太「解説『瞬間の歴史』を証す人」『ブラジルの光、家族の風景─大原治雄写真集』2016、サウダージ・ブックス)と評した言葉は、この手作りの美しい家族の『アルバム帖』にこそふさわしい。


大原が子どもたちのために手作りした『アルバム帖』(撮影=Saulo Haruo Ohara)

学芸員レポート

 さて、高知県立美術館の「大原治雄写真展」に関連して、4月から10月にかけて、県内外10館のミュージアムでは「高知の移民文化」に関する企画を「海を渡った高知スピリット 高知の移民文化発信プロジェクト」と名付けて、共同発信中である。
 坂本龍馬の志を継いで北海道開拓に生きた甥の一族の足跡(高知県立坂本龍馬記念館)、アマゾン日本植民の父・﨑山比佐衛の人生(本山町立大原富枝文学館)、大原治雄の孫でブラジル在住の写真家サウロ氏が祖父のルーツを訪ねて撮り下ろした新作写真(いの町紙の博物館)など、どのミュージアムの企画も「志を持って故郷を遠く離れ、国内外の新天地に根付いた高知県人」の紹介、再評価を目的にしている。
 なかでも高知市立自由民権記念館で現在開催中の「『在伯同胞活動実況大写真帖』―竹下増次郎、ブラジル日本移民を写す」展(10月2日まで)では、大原治雄とほぼ時期の昭和5(1930)年にブラジルに渡った高知県須崎出身の商業写真家で写真館経営者・竹下増次郎が企画・撮影し、昭和13(1938)年に出版、ブラジル日本移民社会で大ベストセラーになったと言われている、貴重な『在伯同胞活動実況大写真帖』(以下『大写真帖』)を紹介していて興味深い。

『在伯同胞活動実況大写真帖』(1938、発行=竹下写真館)

 最初期のブラジル入植から30年ほどが経ち、日本人移民たちには「自分たちが異国の地で苦労の末獲得したものや達成したことを、自ら確認し、そして他者からは承認を得たいという欲求」(同展チラシ)が強くあり、『大写真帖』はその欲求に応えるものだったという。大原家という小さな家族の思い出をつなぐための『アルバム帖』と比べても、日本人移民社会の功績を世に知らしめる目的の『大写真帖』は、対照的だ。
 百数十ページの分厚い写真帖は、神戸から出港した移民船の中の様子から、現地でのさまざまな作物の栽培や収穫風景、農業や商業などで財を成した者の暮らしぶりまで、1000枚を越える写真が精巧なコロタイプ印刷されているという豪華さ。かなり高額だったにもかかわらず、多くの移民者が自分の農園や自宅の前に、車や家族、使用人を並べた写真の撮影と掲載を競って依頼したことで、竹下本人もブラジル日本移民社会を代表する成功者に押し上げられていった。(竹下は昭和16(1941)年に帰国)
 農地・家・車の豪華三点セットをそろえた高知県出身移民の家族写真と、シャカラ・アララと名付けた自分の農園に建てた家の前で、すべてを包み込むように俯瞰で撮った大原の写真《シャカラ・アララの中心地》。戦前と戦後という時代を隔てた、ふたつの家族の肖像写真は、写真というメディアがもつ記録の意味を考えさせてくれる。
 奇しくも『大写真帖』が刊行された昭和13(1938)年は、大原が小型カメラを手に入れ、最初の1枚としてオレンジの木陰で妻を撮影した年でもある。


左=《シャカラ・アララの中心地》1950年代、パラナ州ロンドリーナ
[© Haruo Ohara/ Instituto Moreira Salles Collections]
右=『大写真帖』に掲載された高知県出身移民の家族写真

大原治雄写真展 ブラジルの光、家族の風景

会期:2016年4月9日(土)?6月12日(日)
会場:高知県立美術館
高知市高須353-2/Tel 088-866-8000

巡回展
伊丹市立美術館(2016年6月18日?7月18日)
清里フォトミュージアム(2016年10月22日?12月4日)

大原治雄 Haruo Ohara

 1909年11月、高知県吾川郡三瀬村(現・いの町)に農家の長男として生まれる。 1927年、17歳で家族と移民としてブラジルに渡り、はじめサンパウロ州のコーヒー農園で働いた後、1933年、パラナ州ロンドリーナへの最初の開拓団として入植。1938年に小型カメラを手に入れ、コーヒーや果樹栽培の農作業の合間に趣味で撮影をはじめる。独自に研究を重ねながら技術を習得し、次第にカメラに没頭。1951年にはロンドリーナ市街地に生活を移し、「フォトシネクラブ・バンデイランチ」(サンパウロ)に入会。農業経営の一方、60年代後半まで国内外のサロンに積極的に参加。当時は無名のアマチュア写真家だったが、1970年代はじめから徐々に知られるようになり、地元新聞などで紹介される。 1998年、「ロンドリーナ国際フェスティバル」および「第2回クリチバ市国際写真ビエンナーレ」で、初の個展「Olhares(眼差し)」展が開催され、大きな反響を呼ぶ。1999年8月、家族に見守られながらロンドリーナで永眠。享年89歳。
 2008年、日本人ブラジル移民100周年の機会に、遺族から写真と資料の一式が、ブラジル屈指の写真史料アーカイヴズであるモレイラ・サーレス財団に寄贈された。同財団が収蔵する唯一の日本人作家。高知県立美術館で開催中の本展は、大原治雄を日本で初めて紹介する回顧展である。

『在伯同胞活動実況大写真帖』─竹下増次郎、ブラジル日本移民を写す

会期:2016年4月28日?10月2日
休館:月曜(ただし、祝日は開館)
会場:高知市立自由民権記念館
高知市桟橋通4-14-3/Tel 088-831-3378

Tréfonds サウロ・ハルオ・オオハラ写真展

会期:2016年6月1日?6月19日
休館:月曜
会場:いの町紙の博物館
高知県吾川郡いの町幸町110-1/Tel 088-893-0886
(大原治雄の孫で写真家のサウロ氏は、大原家のルーツを訪ねるなど2週間にわたって高知で滞在し撮影。いの産和紙の印画紙を使ったプラチナプリントの新作を作成した)

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