キュレーターズノート

「九州派展」を終えて/「『もの派とアーカイヴ』─海外への発信をめざして─」/福岡市美術館休館/「福岡ミュージアムウィーク」

山口洋三(福岡市美術館)

2016年05月15日号

 「九州派展」を終えて間もない2月、九州派の事実上のリーダー的存在であった桜井孝身が亡くなった。昨年4月にはオチオサムも鬼籍に入った。存命の元メンバーも数少なくなり、九州派も歴史のなかに綴じられようとしている。


九州派展 展示風景

 展覧会開幕と同時に刊行することのできた『九州派大全』は、4,000円という高価な価格にもかかわらず、じわりと売り上げを伸ばした。主要な美術館や美術史などの講座を持つ大学、公立図書館にも贈呈するので、「幻」となることはないだろうと思う。購入希望の方は、発行元である福岡市文化芸術振興財団までお問い合わせいただきたい(店頭販売は当館ブックショップ以外にはありません。それも今年8月末まで)。
 さて自分としてはこれで「九州派」を卒業して、はあやれやれ、と一息つくつもりであったのだが、村上隆の言葉にある「画家は死んでからが勝負」は画家の、あまり表立って言いたくはない、だけど本心では(なんとなくわかっている)真実である。これを痛感させられる事柄がいくつか続いている。早い話が、「九州派」自体のプロモーション、とでも言うべきか。
 少し話が飛躍するが、もの派、そして具体美術協会の資料アーカイヴについてのシンポジウムが去る3月に立て続けに開かれ、筆者は前者のシンポジウム「『もの派とアーカイヴ』─海外への発信をめざして─」(多摩美術大学)への参加を打診された。もの派の研究を突き詰めていっているわけでもないのでどうも場違いな気分ながら登壇させていただき、当館のもの派関連の所蔵作品を紹介し、前述の「九州派大全」の創刊の背景などについて話した。
 もの派、そして具体美術協会は、欧米の美術界でかなり知られた存在となり、マーケットでもかなりの需要があるようだが、その分、その裏付けとなる資料類の整理や公開、そして(主に海外への)発信が追いついてない。そういった現状への危機感がそこにはある。九州派に関してはいまのところそこまでの需要は感じられないし、今後もなさそうな気がする。しかしローカルな美術史的文脈においては、これほど重要な前衛動向もないのである。
 結成から約60年、解散からまもなく50年、ということで、地元ならかつては通じた話もだんだん通じにくくなり、関係者も数が少なくなってきている折、客観的に展示解説する必要も出てきた。そして海外からの観光客の増加。福岡市美術館でも海外の観覧者が増えてきている。地元のこと(ローカル)を地元に説明するだけでなく、それを外国人(インターナショナル)に説明する必要性が高まってきている。もちろんこれは九州派や他の前衛美術に限定されることではないのだが、作家がいなくなり、作品や資料だけが残された状態になったときに、その研究、顕彰、発信などは美術館や研究機関にゆだねられることになる。その際、その作品がその地域の美術活動にいかに根ざしているか、なぜその美術館に所蔵されているかについての明快な説明が多言語で表示されなければならなくなる。と、書いてみて思ったのだが、こうしたことはいままでまったくしていなかったわけではない。どの美術館も行なってきていることなのだが、おそらくこれからは考え方や方法論を刷新する必要があるのではないか、と思う。福岡市美術館の場合は、2年半後のリニューアルオープンのときが勝負になりそうだ。

学芸員レポート


 リニューアル工事のため、福岡市美術館は、9月1日より2年半の休館に入り、準備を進める。PFI方式による改修工事は国内で初めてのケースであり、事業者も美術館職員も手探りながらなんとかここまで来た。定期的な会合が行なわれながら、美術館側の要求と事業者側の考えのズレをなくしていく手順を踏んでいる。
 8月までは開館しているが、今年度(つまり4月〜8月)は、事業全体をクロージング/リニューアルプロジェクトと位置づけた。特別展として「物・語(ものがたり)──近代日本の静物画」(5/14-7/3)と、「ゴジラ展──大怪獣、創造の軌跡(あしあと)」(7/15-8/31)が控え、すでに開催中の常設展示室での企画展として「サロンクバヤ│シンガポール 麗しのスタイル つながりあう世界のプラナカン・ファッション」(4/17-6/12)がある。常設展示室では、休館を意識して、昨年から福岡市美術館の近現代美術の所蔵品を収集年代順にたどる「TRACES|轍─近現代美術コレクション形成のあゆみをたどる」、個人の寄贈作品で構成した「GIFTS〜平成27年度新収蔵作品・近年の寄贈作品」(4/12-6/19)、そして、名品展とでも言うべき「This Is Our Collection /これがわたしたちのコレクション」(6/21-8/31)を開催予定。
 そして、休館すること(クロージング)に内容的に最も関係する展覧会は、「歴史する! Doing history!」であろう。通常は貸しギャラリーに使っている展示室やロビーなどを会場にして、飯山由貴、梅田哲也、大木裕之、酒井咲帆+ALBUS、坂崎隆一、田代一倫が、福岡市美術館という場所、歴史に取材しながら作品を制作する。


「これからの美術館」チラシ

 5月14日からは恒例の「福岡ミュージアムウィーク」がスタートするが、期間中の5月21日には、クロージングトークショー「これからの美術館」と題して、逢坂恵理子氏(横浜美術館館長)、藤浩志氏(アーティスト、秋田公立美術大学教授)、中村政人氏(アーティスト、アーツ千代田3331統括ディレクター)を招き、岩永悦子・当館学芸課長の司会のもと、美術館の未来について展望する。なぜこのメンバーかというと、22年前の1994(平成6)年、当館で開催された「第4回アジア美術展」の日本作家が藤、中村の両氏であった。展覧会会期中にアジア各国から作家が福岡に来て滞在制作を行なったが、当時はアジア現代美術の情報は非常に限られたもので、ネットもない時代、どんな作家がいるのかも、実際に現地に行かないとわからない状態であった。つまり、福岡市美術館で、アジアと日本の作家が初めてリアルに出会い、語らい、ぶつかり合い、アーティストたちにとって幸福な1カ月間がそこに生まれた。その中心には藤氏と中村氏がいた。このインパクトは、その5年後の1999年、「交流部門」を持つ福岡アジア美術館の誕生へとつながった。
 逢坂氏は、そのころは水戸芸術館にいらっしゃったが、米国の教育普及の方法論を日本に導入することに尽力され、アートマネジメント講座も、確か1996年あたりに福岡で開催されたように記憶する。この時代、国内美術館の活動フォーマットに変化が起こり始めていたころだ。いまでこそ、ワークショップ、アーティスト・イン・レジデンス、教育普及といった言葉や概念は、美術館活動における共通言語となっているが、このことはまだ言葉自体が斬新な響きを持ち、また「美術館」という既成概念に風穴を空けるものと期待されていたのである。
 そのころの自分と言えば、1994年の第4回アジア美術展の準備の最中であった福岡市美術館に赴任し、わけがわからないままアジアの作家たちと交流し、90年代後半の荒波にもまれ、いまの仕事につながっている。
 あれから20年以上が経過し、かつて時代の先陣を切った者たちは、組織の長となって困難な状況に立ち向かっている。福岡の美術状況と美術館との関わり、そして美術館の未来について、以前とは異なった視点での議論が期待される。それは福岡市美術館の原点を見直すことでもあるだろう。

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