キュレーターズノート
ソフィ・カル「Beau doublé, Monsieur le marquis!」展、パリ狩猟自然博物館
能勢陽子
2017年11月01日号
豊田市美術館では、2015年にソフィ・カルの個展「最後のとき/最初のとき」(原美術館との共同開催)を開催している。また、館のコレクションの人気投票をした際に、大方の予想だったグスタフ・クリムトやエゴン・シーレの絵画ではなく、カルの《盲目の人々》が1位になったこともある。カルは美術館にとって、とても馴染みの深い作家である。本展は、そのカルのこれまでの約40年にわたる活動を回顧する、フランスでも久しぶりの個展である。ところが、その開催場所がちょっと変わっている。会場は、動物の剥製や猟銃など、狩猟にまつわる品々が所狭しと陳列された、パリの狩猟自然博物館である。
残酷なおかしみ
フランスの古典主義絵画も掛かったその豪華な展示室に、カルの作品は意外なほどよく合う。この展覧会がなければ足を踏み入れることはなかっただろう博物館は、まさに「驚異の部屋(ヴンダーカンマー)」そのもので、カルの作品の本質を一層露わにしている。そもそもカルは、道で出くわした男の跡を根気よく、偏執的と言っていいくらいに追跡したり、逆に探偵を雇って自らを尾行させ、その軌跡を逐一記録させたりする。「撃つ」も「撮影する」も同じ“shoot”であることを思えば、カルの行為は狩りにも似ている。日常の一瞬を残す写真と、往時の姿を永遠に凝固する剥製は、移ろう生を二次元と三次元で留めた、ネガポジ関係にあるようである。そんなわけで、カルの作品と狩猟自然博物館は、美術館ではありえない照応・相乗関係を生み出す。何よりカルは、人間を含めた動物全体の生の根源に避け難く存在する、「追う/追われる」「攻撃する/される」という関係性、そしてその先にある「生/死」を、残酷なおかしみとともにとらえる名人なのだ。
展示は、最近他界した父の死から始まる。悲しみに直面したカルは、どうしたらよいかを市場の人に尋ねてみる。そして返って来た答えは、「鮭をたくさん買うといい」だった。そうして、大量の鮭が壁に貼りつけられる
。家族の死に際し、見ず知らずの男のアドバイスに従うという、無為にも思える行為から生まれたこのレリーフは、他者と安易に共有しえない感情と孤独を、なんとも奇妙に形にする。父の死に続くのは、愛猫の死。そして奥には、ラグジュアリーなセラミック製のカル自身の像が横臥している 。この陶器の像は、シマウマやキリンなどの剥製に囲まれているが、これらの剥製は博物館のものではなく、カルの自宅から運ばれて来たものだ。そう言えば、以前実母が亡くなったとき、キリンの剥製を買ってきてアトリエに飾ったという話を読んだことがある。なんでも、高みから見下ろす視線が、母に似ているのだという。これらの剥製は、家族や恋人など身近な人々のある種身代わりであり、カルは日頃から死の偽装的装飾のなかで暮らしているのだ。
新たに紡ぎ出される物語
階上に進むと、大きな白い布を被った幽霊が来場者を迎える。その正体は、この博物館のマスコットのシロクマである
。珍奇で豪奢な剥製や品々が並ぶ展示室では、どこまでが作品でどこまでが展示品なのか、まるでわからなくなる 。展示室のそこかしこに、カルの過去作品が散りばめられ、もともとあった展示品とともに、新たな物語を紡ぎ出す 。例えば、動物を描いた絵画とともに掛けられたカルのヌードドローイングに添えられた短いテキストには、こうある。「わたしは毎日九時から正午まで、ヌードモデルをしていた。毎日、最前列左端の席に陣取って、延々三時間わたしの身体をデッサンする男がいた。正午ちょうどに男はポケットからカミソリの刃を取り出し、わたしをじっと見据えながら、丹念にデッサンを切り裂く。わたしは身動きもできないまま、男の動作を見ていた。やがて男はアトリエを立ち去り、ずたずたにされたわたしの絵が後に残された。男はそれを十二日間くりかえした。十三日目、わたしはアトリエに行かなかった」(ソフィ・カル「カミソリの刃」[『本当の話』平凡社、1999])。そこに掛かっているドローイングには、首や手、足にいくつもの切れ込みが入っている。
狩猟自然博物館のなかでは、人間の裸体は動物同様、獲物の対象になることが暗に示される。またキャビネットの中には、陶磁器とともに、燃えたベッドのわずかな一部が置かれている。「それはわたしのベッドだった。十七歳になるまでわたしが寝たベッドだ。それから母はそのベッドを、貸部屋に移した。一九七九年十月七日、間借り人の睡眠中に出火した。間借り人は焼死してしまった。消防士たちは窓からベッドを投げ捨てた。ベッドは九日間、建物の中庭に放置されていた」(「ベッド」同上)。焦げ跡がつきスプリングが剥き出しになった、装飾模様のついたそのビロードのベッドのかけらは、動物を象った陶器の入れ物と違和感なくそこに並んで、生活のなかにある死を告げる。これらは、カルの《本当の話》(1999)からきた作品である。
改めて、「本当の話」というタイトルは秀逸である。タイトルが、この話は「本当」だと宣言している。しかし、その真偽は確かめようがなく、時にメロドラマのような安っぽさと生に潜む残酷な真実の間で、私たちは宙吊りになる。そんなふうに、カルの作品はいつも、自叙伝的要素とフィクショナルな物語性のはざまで成立している。そして、この博物館は、そこにさらなる真偽を加える。そこに並ぶ剥製たちも、絵画も調度品も、あたかも永遠であるかのように振舞っているが、それらは過去のもの、もう死んでいるのだ。
あなたの死をどうする?
最上階で、墓の写真と「Fathers」のシリーズとともに、今回のために特別にデザインされたノートブックが置かれている。そのノートは、「あなたの死をどうする?」と問いかけてくる。カルの作品は、大抵自身の個人的な経験から引き出されているから、私たちはそれをカルの物語だと安心して観ることができる。しかし、今回はそうもいかない。そこに、約40年を経た作家の凄みを垣間見ることができるだろう。しかしその展示全体は、剥製になってポーズを取る動物たちと同じように、カルらしい悲哀とおかしみで包み込まれているのである。
なぜ今回パリのソフィ・カルの展示を取り上げたかというと、今年世界中で国際展が開かれ、実に多くの作品を観るなかで、少し考えさせられることがあったからだ。ここしばらく、史実と虚構を織り交ぜた映像作品や、調査や追跡の結果を資料として提示する作品をよく眼にしているが、なんだか腑に落ちないことがしばしばあった。史実が盛り込まれているからといって、観る者がただいたずらに感情移入するのでも、また未知の過去に単純に驚くのでも、逆にはなからつくり話として、想像力が大して刺激されないのでも、あまりよくない。そこには、意表を突いたはぐらかしや勝手な期待の裏切りの奥に、何か切実さが見え隠れしてほしいのだ。つまり、作家自身の経験や身体から離れて、歴史や政治など大きなものに向かいすぎた作品は、観る者もちょっと居心地が悪い(だから問題は、政治的すぎるとか、逆に現実から切り離された芸術至上主義だということではないように思う)。そして、親密な人生と概念的なアプローチという対極のものを、こうして知的かつユーモラスに融合しうるカルに、改めて感服させられたのだった。
SOPHIE CALLE ET SON INVITÉE SERENA CARONE
Beau doublé, Monsieur le marquis !
会期:2017年10月10日(火)〜2018年2月17日(土)
会場:パリ狩猟自然博物館
62, rue des Archives 75003 Paris Tel. +33 (0)1.53.01.92.40
詳細:http://www.chassenature.org/sophie-calle-et-son-invitee-serena-carone/