キュレーターズノート
連続と非連続のあいだ──「5月」/「やなぎみわ展 神話機械」
住友文彦(アーツ前橋)
2019年06月01日号
対象美術館
美術作品や展覧会を、自分がすでに知っている形式とは異なるものとして考えてみたいと思ったことがある人は少なくないだろう。それは既知の価値体系を再生産することへの批評として、あるいは歴史や文化を複数的なものとして想像し直すための意義を持つはずだが、それを実践するのはもちろん簡単なことではない。強い意志で別のものをつくり出しても、循環論法のように元の形式に似た何かにしかならない場合が多いからだ。その循環から抜け出すにはどうすればいいのだろうか。
「5月」
言葉にならない、しかし言葉のようなもの
春に私のもとに届いた「5月」という展覧会の案内にはまったく説明らしきものがなかった。しかし、絶妙なバランスで制作されたロゴをはじめ魅力的なビジュアルは秀逸で、目を惹いた。肝心の展示や作品のことはほとんど何もわからないのに、行ってみようかという気になる。それを言うと、そもそも普段からマメに展覧会を見に行くわけでもないのに、ビジュアルに惹かれたからなど、ほとんど本質的ではない理由で行き先を選んでいるのかと怒られそうだ。当たり前のように記載されている情報が欠落していながらも視覚的なコミュニケーションで関心を引き離さない力があった。
その場所には、日暮里駅から京成線で数個先の駅で電車を降りて向かった。これまでまったく馴染みがなかった地域だ。駅を出て目にした店や住居は下町風で、生活感がたっぷり漂う。二つの異なる鉄道の線路が近接していて、その間を妙に大きくカーブを描く道に沿って歩き進む。いつの間にか、どこにでもありそうな街並みをしげしげと眺めていることに気づく。通常、展覧会を見に行くときに、こうしてたどり着くまでの街の風景を丁寧に見ることはあまりないかもしれない。何がどこで起きるのかわからない、という注意深さを謎の郵送物によって与えられてしまっていたのだろうか。会期と作家名が書かれていたので、展覧会だろうと認識したが、聞いたことがない場所の名前が記され、作品の画像は一切ない。ただ比較的長めの日記風の文章がそれには同封されていた。
来る直前にウェブサイトをスマホで見ると、トークやフィールドワークのようなイベントが頻繁に行なわれていることもわかった。「日報」という欄では、毎日新しい文章が更新されていた。おそらく、郵送で送られてきた文章と同じ人が書いたのだろう。それは目の前の出来事の細部を丁寧に感じ取り、さらに自分の内面を書き記したような文章で肌理の細かい質感があるのだが、なかなか意味を汲み取れない不可解なものだった。「日報」というくらいだから実際に会期の間に起きたことかと思うが、どうも違うようだ。しかし、その文章が実は会場に向かうまでの道のりの時間を持続的に作品鑑賞とつなげていたように思う。つまり、私自身も駅を降りてから「日報」に書かれていたような出来事を見つけ出すことを期待して、言葉にならない、しかし言葉のようなものが風景を見ている頭のなかで動き出しているようにも感じ、その経験は「以外スタジオ」という名の会場の中まで連続していた。
あいまいな境界線
以外スタジオは、小規模の工場跡を改装したスペースだったが、展覧会でなく人が集まれる小上がりと土間が手前にあり、さらに正面は木工の作業中らしい作業スペースで、その奥まった部屋の方から見るよう促された。工場としては大きくはないが、こうして作品の制作や展示に使うとなると十分なほどの広さがある。重厚な機械類がまだ残された暗がりの部屋には空の映像を上映するブラウン管モニターが中央にぽつんと置かれている。あちこちに昔から貼られていたとおぼしき張り紙などが点在し、階段の裏側にはチョークで文字が書きなぐられている。過去の物と作家たちが残した跡(作品)が混在して、その境界線はあいまいだ。
階段の上の部屋ではプロジェクターの大きな画面の映像が目に入るが、何に焦点を当てているのかわからないままイメージが移ろい、会話でも音楽でもないノイズが時折響く。映像の画面ではなく古い木造家屋の柱や壁を眺め回しているうちに、その間の空間に投影された光と影の線が揺れ動くため、撮影されているのは特定の風景でありながら、震え動き回る抽象画の線のようにも見える。その先の明るい台所には乾燥した植物の束と古い写真が置かれていた。さらに奥の部屋にあった男女の裸を映した写真と大きな地球儀を前にした彫りかけの版木が、映像と同じく独立した作品としての輪郭を明確にしていた。それらも神棚の近くに写真が掛かっていたり、部屋に残されたかつての持ち主の痕跡と共存している。ふと目に入った小さな絵は、1階の風呂場の壁に描かれていたのと同じでは……ただし、彩色があった絵がここでは白黒になっている。大きく目につくもの以外にどこまで作家が介入して制作したものなのかは判然としない。
そんな体験をして、ようやく小上がりでこの物件のいまの持ち主の関川航平と話をしたところ、かなりの量のゴミを片付けるところから手を入れてきたらしい。掃除だけでなく、一部床を張り替えたり、相当な手間をかけて改修を行ない、現在は彼自身が住みながら制作場所として利用し、今回初めてお披露目したそうだ。古い倉庫や家屋を改装してスタジオにする例なら数多くある。ただ、その過去と向き合う方法にはそれぞれの個性がある。関川の場合はかなり自分たちの介入を最小限にしていて、前の持ち主と関わる物が多く残されている。しかし、その過去の重さはあまり感じない。私が訪れたときはほとんどの窓が開け広げられ、人工光もごくわずかで、外の空気と光が内部にたっぷり入り込みゆったりと循環していた。大がかりな清掃と改修作業だったにもかかわらず、なんら作為的な部分を感じさせず、古い建物はずっとそうであったかのように佇んでいた。無作為さは長い時間をこの建物が経てきた感覚を訪問者に与える。さらに作家たちの展示は開放的な空間と無理なく調和している。むしろ、有機的な連続性だけでなく、作品としての自律性を主張する作品がいくつかあり、それらは空間としての背景の中に埋もれていない。作品と空間がつながっていく全体としての一体性があるわけでなく、かと言ってホワイトキューブのように作品を明確に浮かび上がらせるわけでもない。連続と非連続のあいだを行ったり来たりして、独特な性質をつくり上げている。
それは「日報」の文章にも似ている。この文章は、非常に感覚的なことを書いているが、一方で前後の関係を見失うことが多い。つまり、身体と言語がぴたっと結びついているようなフレーズがありながらも、機械によって自動的に組み替えられているかのように感じるところもある。ウィリアムズ・バロウズが映画に影響を受けて使ったと言われるカットアップの手法にも近いかもしれない。シュルレアリスムや自動筆記に比べると、個別の経験や意味が想像できる文章が使われ、複数の異なるエッセイを切り張りしている点が異なる。その効果としては、一つひとつの言葉が背景となる文章から浮かび上がったり、逆に背景の文章と連続していたり、地と図のような関係性が可変的であるように感じることだ。そうした文章を読んだときの印象が展示空間を見たときの印象に近い。作品は過去の記憶を濃密に堆積させた空間となじむものもあれば、切り離されたように感じるものもある。そのことで、展覧会や作品の輪郭は曖昧になり、見る者の自由度を高めていた。おそらく、こういう体験によって少しずつ私たちは過去の因習を振り払うことができるのではないだろうか。
5月
会期:2019年5月1日(水)~5月31日(金)
会場:以外スタジオ(東京都東京都足立区柳原1-32-6)
企画:関川航平
参加者:石田大祐、遠藤薫、小野峰靖、金川晋吾、斎藤玲児、関優花、関川航平、寺本愛、堀内悠希、三島慎矢、三輪恭子、山田大揮 と、それ以外
公式サイト:https://www.go-gatsu.com/
学芸員レポート
「やなぎみわ 神話機械」展
演劇制作への軌跡
やなぎみわの10年ぶりの個展が全国の美術館を巡回している。「エレベーター・ガール」のシリーズから始まり、近年の演劇作品は資料や記録映像を使った展示を行ない、最後に古事記とハムレットを題材にした新作を加えている。とりわけ演劇への大きな注力で一見大きく別の方向へ振れたかのように見えた仕事ぶりのなかに、初期の作品から続く確かな連続性が見て取れるのはこの個展の大きな魅力である。
職業のために限定された身振りを繰り返し、制服を着る女性に社会が与えた役割を見事に可視化して見せた「エレベーター・ガール」から、徐々にやなぎは同時代の日本だけでなくもっと幅広い歴史や地域において「女性」が果たしてきた役割に目を向けていく。渉猟の対象は文学や映画にまでおよぶ。「フェアリー・テール」のシリーズでは古今東西の物語における老女と幼女の役割を丹念に調べ、「砂女」などのキャラクターをつくり上げ、写真や映像によって独自の物語をつくり出した。また、一般の人からプロの俳優まで役割を演じる人から発せられる強い個性もやなぎの作品には欠かせない。それは演じようとして生まれるものというよりも、自ずと「役割」をはみ出てしまうような事後的に見出されるもののように見えるが、きっとアーティスト独特の直感で登場人物たちの個性をいつも先回りして見出してきたのであろう。「マイ・グランドマザーズ」シリーズのように見事に手の込んだ演出を施した写真作品の場合、むしろその演出効果は鋳型なのではなく、役者の個性をそこから浸み出させるためのようだ。
こうして見ると、写真や映像の作品で試みてきたことはすべて演劇の制作へとつながっていたように思えてくる。それが決して簡単で順風満帆な道のりでなかったと本人から聞いていても、それでもなおそう思える。やなぎが初めて演劇作品を発表した2011年当時は、かなりの驚きを覚えた記憶があるが、そのときは連続性がよくわかっていなかった。しかし、とりわけ自分のなかで強く明確なイメージをつくり上げ、それに向けて多くの調査と制作作業を注ぎ込む彼女のエネルギーは凄まじい。その構想力の強さこそ、アーティストとしての素晴らしい魅力である。ほかの者には容易には掴みきれないほど、壮大な物語性を背後に持つそのイメージを形にしていくうえで、多くのスタッフと一緒につくり上げる演劇の手法は、美術家としてキャリアを開始したやなぎにとって必然的な転換によって見出されたとしか思えない。それは今回も同様で、新作のアイディアを理解するのは決して簡単ではなかったが、彼女の確信が結実した作品に、展示室で出会ったときは感嘆した。
「桃」の新作は、人間たちが生まれる以前の神々の話である。古事記において桃の木は黄泉の国との境に立っていて、そこで男女の神は決定的な決裂をする。私は池澤夏樹訳の『古事記』(河出書房新社、2014)を読んだが、数々の神が生まれ出る話のなかでもとびきり面白い物語のひとつだ。詳しくはそちらを参照してほしいが、本作は桃の木を下から光を当て撮影した写真が並び、鑑賞者は樹林の中を歩くような体験をする。そして最後に《桃を投げる》という作品では、四足歩行で人間か動物かわからない、かつ男女両方の下着らしきものを身につけていると思しき人物が桃を投げては受け止めるという古事記において語られる二つの異なる役割が混じり合う不思議な映像を見る。古典をやなぎ流に翻案し、異なる対立したものを混淆させる奇跡のようなイメージを生み出している。
悲劇を語る言葉
そして「ハムレット」を解体し再構成したハイナー・ミュラーの《ハムレット・マシーン》を基に、さらにやなぎが書き直した脚本を機械が演じるのが同じく新作の《神話機械》である。最後の展示室で1日3回、機械のみによって「演劇」が繰り返されている。髑髏を壁に投げつけ、それに壜(びん)乾燥器が喝采を送り、悶え続ける肢体が床を這い、その間を英雄的な台詞を響かせるメインマシーン「タレイア」が動き回る。これは人間が滅亡した後の地球で、人間が生み出した機械たちだけが生き延び、その屍を非生産的な方法で弄び、『ハムレット』を演じているという設定だ。ちなみに、これらの機械は最新の人工知能を持っているわけではないし、人類や生き物にもまったく似ていない。だから観客は機械たちが役を演じているようには思わない。そもそもミュラーが物語を解体してしまった時点でこの戯曲は悲劇を外側から照射する装置になり、観客は機械と人間の双方を俯瞰するメタ的な立場に置かれる。その意味で、二つの新作は人類の誕生以前と滅亡以後が設定されていても、人間は不在なのでなく、むしろ濃厚に介在している。桃の作品でも、やなぎは撮影するときに写り込む農家が加えた支柱などを消し去ることはしない。
さらに《神話機械》では俳優が演じる『MM』という公演が2日間行なわれた。ひたすら濃密な台詞を喋り続けるひとり芝居を演じるのは性別適合手術を受けた高山のえみで、それに内橋和久の即興演奏が絡まりつく。ウィリアム・シェイクスピア、ハイナー・ミュラー、やなぎみわへと受け継がれてきた悲劇を語る言葉が、普段は話し声がしない展示室を充満させる。管理を徹底し、永遠に物を残すことを使命としたミュージアムは墓場である。そこが公演準備のために閉まり、やがてギターの弦をつま弾く音が流れ出て、時代を超えた言霊が性差を超えた身体を通して響き渡る。本番までの準備のあいだ、展示室に少しずつ生の気配が漂い始める。二晩の公演も観客と役者や演奏者によって同じものにはならなかった。その場限り、一回だけで消えてなくなるパフォーマンス。永遠の時間を欲望する墓場と一度きりの祝祭の時間がひとつの空間で重なり合う。すべての生に対して暴力的に引かれた、永遠と一時性、ジェンダー、人間と動物、聖と俗などの境界を物語の力によって撹乱し、もうひとつの混淆的な生を想像させるものだった。それはほかの演劇作品、とりわけ《日輪の翼》において顕著に感じる。
このあと、福島県立美術館などへと巡回していく個展と並行して、10月4、5、6日に神戸の埠頭で再び《日輪の翼》の野外公演を準備しているのだからすごい。自然と機械という人間の知性や管理を超えてしまう可能性を持つものと向き合いながら生の問題と取り組むやなぎの前に、もはや美術だ、演劇だと言う区分は意味をなさない。
やなぎみわ展 神話機械
会期:2019年4月19日(金)~6月23日(日)
会場:アーツ前橋(群馬県前橋市千代田町5-1-16)
公式サイト:http://www.artsmaebashi.jp/?p=12932