キュレーターズノート

ポロトコタンの半世紀──行幸、万博、オリンピックを補助線として

立石信一(国立アイヌ民族博物館運営準備室)

2019年07月15日号

2020年4月に、北海道白老郡白老町に8館目の国立博物館である国立アイヌ民族博物館がオープンする。今号より、その運営準備室の立石信一氏に、前身のアイヌ民族博物館(ポロトコタン)の経緯、「民族共生象徴空間」としてのオープンに向けての準備、また地元のコミュニティの文化芸術シーンについてご寄稿いただく。(artscape編集部)

「2020」


「白老」という町の名を一体どれだけの人が知っているだろうか。知名度もさることながら、読み方もまた難しい。「しらおい」と読む。北海道の多くの地名と同じように、白老もアイヌ語由来の地名とされている。アイヌ語の「シラウオイ」に由来するとされ、その意は「アブの多いところ」とされている。

白老町は、北海道の空の玄関口・新千歳空港から南西方面に50kmほどの場所にある太平洋に面した町で、東隣には国内屈指の取扱貨物量の港を有する苫小牧市があり、西隣には温泉で有名な登別市が控えている。

2020年といえば、多くの人が東京オリンピック・パラリンピックを思い浮かべるかもしれない。開催まで残すところおよそ1年となり、各地で関連行事などが執り行なわれている。

そんななか、ここ白老には、もうひとつの2020がある。2020年4月24日に、ポロト湖畔に民族共生象徴空間(愛称:ウポポイ)がオープンするのだ。



民族共生象徴空間イメージ図 [写真提供:文化庁]
(本イメージ図は、基本設計段階における案であり、変更の可能性があります)


民族共生象徴空間という名称がつけられたこの空間には、国立アイヌ民族博物館と国立民族共生公園、そして慰霊施設が整備されている。設立の目的は「アイヌ文化を復興・発展させる拠点として、また、将来に向けて、先住民族の尊厳を尊重し、差別のない多様で豊かな文化を持つ活力ある社会を築いていくための象徴」となることである。こちらもナショナルプロジェクトとして準備が進められており、私は国立アイヌ民族博物館の開館準備のスタッフとしてこのプロジェクトに携わっている。

そんなナショナルプロジェクトの拠点となるポロト湖畔には、2018(平成30)年3月末まで財団法人が運営していたアイヌ民族博物館があった。通称はポロトコタンという。修学旅行で訪れた記憶をお持ちの方も多いのではないだろうか。この博物館は観光施設として営業していたポロトコタンを前身とし、開業したのは半世紀以上も前のことだった。


ここで、民族共生象徴空間ができる白老町、とくに観光施設としてのポロトコタンと、その後継団体である一般財団法人アイヌ民族博物館の設立経緯を、時代背景として国内の出来事との関連性とあわせながら振り返ってみたいと思う。


白老が経験した近代


明治になり、新政府は蝦夷地を北海道と改称し、近代国家としての日本の版図のなかに組み込んだ。そして新しい「国家の形」を国民に可視化するため、天皇や皇太子が日本全国をまわる行幸啓が企図された。北海道には1876(明治9)年に明治天皇が初めて巡幸したのに続き、1881(明治14)年にも再び北海道を巡幸する。そして二度目の巡幸の際に明治天皇は白老に滞在し、そこでアイヌの人たちのイヨマンテや踊りを観ている。その後も皇室関係者の白老訪問は続き、直近では上皇陛下が2011(平成21)年の行幸の際に、アイヌ民族博物館を訪れている。


明治期以降、天皇の足跡をたどるように、白老町を訪れる観光客は増えていく。蛇足ではあるが、1913(大正2)年には盛岡中学校の修学旅行で生徒として、そして1924(大正13)年には花巻農学校の修学旅行の引率として北海道を訪れた宮沢賢治も、明治天皇と似たような行程をたどりながら、二回とも「白老アイヌコタン」に立ち寄っている。

賢治たちが主に見て回ったのは、近代の装置とでもいうべき工場や学校などである。まさしく近代の光を観てまわる観光客であり、その一環として白老にも立ち寄ったといえるだろう。そして管理された時間と行程のなかでの大人数の長距離移動は、鉄道の利用によって初めて可能となった。この時代、白老を訪れる多くの観光客もまた、鉄道を利用していた。

こうした例からもわかるように、ポロトコタンができるはるか以前から、白老は〈観光地〉としてにぎわっていたのである。


旧白老アイヌコタン

1965年──ポロトコタンの誕生


もともと人の生活域であったエリアに観光客が押し寄せたことによってさまざまな問題を引き起こし、小学校や私宅などに勝手に入り込んでくる観光客も絶えなかった。また、観光客の側からも粗悪な観光対応などに対してクレームが寄せられるようになった。1964(昭和39)年には白老のアイヌコタンを訪れた観光客数は56万人余(『新白老町史』)にのぼっていたという。

そこで、白老町や北海道などの行政、観光業者、学者、そして観光に携わっていたアイヌの人たちが中心となって、市街地にあったアイヌコタンをポロト湖畔に移設することとなった。東京オリンピック(1964)が開催された翌年のことである。世はまさに高度経済成長期のただ中にあった。

1965(昭和40)年、白老観光コンサルタント株式会社によって、ポロト湖畔で「ポロトコタン」という観光施設の営業が開始された。ポロはアイヌ語で「大きい」、トは「沼」や「湖」、そしてコタンは「村」を意味し、文字通り「大きな湖の村」ということになる。ポロト湖は、市街地のアイヌコタンから、白老駅をはさんで北東方向に直線距離にして2km弱のところにある湖で、それまでは氷の切り出しや、個人業者によって観光業などが行なわれていた。そこに、人工的に作った観光施設に「コタン」という名称を充て、観光地として「ポロトコタン」を大々的に整備したのである。



1967(昭和42)年のポロトコタン [写真提供:白老町]

開業の2年後には白老町立の白老民俗資料館も開館する。さらに3年後の1970(昭和45)年には大阪万博の「日本のまつり」に出演することなどをきっかけに、白老民族芸能保存会へと組織を整えていく。その後も、つくば万博(1985)や上海万博(2010)にも出演するなど、万博と白老の縁は深い。

大阪万博によって整備されたインフラ需要の掘り起しのために、「ポスト万博の旅行誘客策」として行なわれたのがDISCOVER JAPANキャンペーンだった。「美しい日本と私」をキャッチフレーズに展開されたこの一大キャンペーンによって、多くの人が日本中のとくに地方を旅することとなり、「ふるさと」が再発見されていくこととなった。

このとき白老はどうだったか。電通と国鉄が展開した全国キャンペーンに登場することはなかったが、白老町と白老町観光協会、そして北海道観光連盟によって地方版のキャンペーンが展開された。当時は駅などにポスターが大々的に掲示されていたという。

ちなみに、ポロト湖で撮影された画像を使用したポスターのキャプションは、「ムックリ(口琴)★1を吹くアイヌの娘」とされている。このムックリ を吹くアイヌの女性と森と湖という定型化されたイメージはさまざまな媒体で繰り返し使われてきたし、この後も使われていく。また、DISCOVER JAPAN 2における白老のキャッチフレーズは、「静寂のなかにロマンを求めて」だった。


DISCOVER JAPAN 「白老」ポスター

1984年──アイヌ民族博物館の開館


1976(昭和51)年には白老観光コンサルタント株式会社を発展的に解消し、北海道教育委員会に認可された財団法人白老民族文化伝承保存財団が設立される。1984(昭和59)年には地元のアイヌの人たちが中心となり、「アイヌ民族博物館」を開館させる。そして1990(平成2)年には、博物館の活動対象が白老だけではなく「アイヌ文化全般に及ぶ」ようになったことなどから、組織名称も財団法人アイヌ民族博物館に変更する。

一方で、白老観光はさらなる旅行客数の増加をみる。当時は木彫り熊も「彫れば売れる」という時代であった。最盛期の1991(平成3)年には、アイヌ民族博物館の入館者数は87万人を記録する。アイヌ民族博物館に隣接した土産物店が入った商業施設のみならず、近隣の道沿いにも多くの土産物屋が立ち並んだ。


アイヌ民族博物館開館のお知らせポスター

その後は観光ブームの沈静化や施設の老朽化、そして不況などによって入館者数は減少していく。 この間、料金の改定を行ないながらも、運営費の多くは入場料収入に寄っていた。古式舞踊の公演を行なっていたことなどもあり、職員数は常時50名近くにのぼった。近年の入館者数は20万人前後で落ち着いており、各種の助成金や補助金なども得ながら運営を行なってきた。

時代の変遷とともに組織の形を変化させながら、半世紀以上にわたりアイヌ民族自身が主体となって営業してきたアイヌ民族博物館、通称ポロトコタンは、民族共生象徴空間の開設準備に伴い2018(平成30)年3月31日をもって閉館した。今後、同館の歴史は、アイヌ民族の歴史のみならず、日本の近現代史のなかに位置付けられていくだろう。


「ポロトコタン最後の一日」(2018)


「2020」のその先へ


1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックは、およそ半世紀を経て再び東京で開催されることとなる。オリンピック・パラリンピックを含む東京2020の「3つの基本コンセプト」は、「全員が自己ベスト」「多様性と調和」「未来への継承」である。

同じく2020年に、「オリンピック・パラリンピックに向けて整備する」★2とされた、民族共生象徴空間がオープンする。冒頭でも触れたように、この空間が目指すのはその名が示す通り「共生」と、「アイヌ文化の復興・発展」である。

日本社会全体、あるいは世界では「多文化共生」がいわれてすでに久しい。多文化が共生する社会とは一体どのようなものなのか。また、多文化共生社会を実現した先にはどのような未来が待っているのか。そしてアイヌ文化の復興のみならず、文化の発展にも寄与していくという使命をもつ民族共生象徴空間は、共生社会に向けてどのような役割を果たせるのか。

博物館に限っていえば、先住民族を主題とした初の国立博物館となる。このような博物館だからこそできることを、開館に向けてはもちろんのこと、開館後も模索し続けていくことになるだろう。


次回は一般財団法人アイヌ民族博物館の近年の動きを振り返り、その次は開館が迫る国立アイヌ民族博物館について紹介していきたい。


★1──竹でできたアイヌの口琴。「ムック」などと表記することもある。
★2──内閣官房アイヌ総合政策室 アイヌ政策推進会議「アイヌ政策推進会議(第6回)議事概要」(2014年6月30日 14:20、最終アクセス2019年6月5日)https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/dai5/gijigaiyou.pdf

民族共生象徴空間(ウポポイ)

オープン:2020年4月24日(金)
住所:北海道白老郡白老町若草町2丁目3-4