キュレーターズノート
ガラパゴス化したリアス・アーク美術館
山内宏泰(リアス・アーク美術館)
2019年08月01日号
読者のなかには、2014年から2018年にかけて、尾道、東京、名古屋を巡回した「リアス・アーク美術館 東日本大震災の記録と津波の災害史」展を覚えていらっしゃる方も少なくないだろう。震災から8年、記憶の風化と復興事業による地域の変化のなか、リアス・アーク美術館はまさに方舟(アーク)のように大津波の記録を後世に届けようとしている。今号より、副館長・山内宏泰氏に「キュレーターズノート」を執筆いただく。(artscape編集部)
はじめに
「2011年に発生した東北地方太平洋沖地震は三陸沿岸部に甚大な津波被害をもたらした。巨大な津波は多くの尊い命を奪い、バブル崩壊以降、困窮してきた小規模自治体の足もとを深くえぐった。リアス・アーク美術館の所在地、宮城県気仙沼市も深い傷を負った。
「平成の三陸大津波」襲来による大災害と福島第一原発事故の衝撃は、世界の関心を東北の地に集め、結果、津波被災地では交流人口の爆発的増加を生んだ。この現象は東北地方三陸沿岸部の地域性、個性といったものを世に知らしめるきっかけとなった。期せずして、全国的知名度を得た当館では、「こんな独特な美術館があったなんて知らなかった!」との声をよく耳にした。文字どおり、当館は東日本大震災を経て世に「発見」されたのである。
リアス・アーク美術館の概要について
宮城県気仙沼市に所在するリアス・アーク美術館は、主に東北・北海道の現代美術を紹介する公立美術館であるが、同時に地域の歴史・民俗資料を常設展示する博物館でもある。また2006年以降、津波の災害史・文化史の調査研究を継続しており、その実態は総合博物館的である。
開館は1994年10月。施設の管理運営は気仙沼・本吉地域広域行政事務組合が行なっている。敷地面積は約9,987㎡、延床面積は約4,600㎡。地上3階建て鉄骨造・鉄筋コンクリート造で、3室ある展示室の床面積は約365㎡、391㎡、540㎡。収蔵庫の床面積は約350㎡で博物館施設としては中規模といえる
。2011年、東日本大震災被災により1年半の完全休館、修繕工事を経て部分開館し、2013年4月3日には「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示を新設、公開するとともに完全開館、現在に至る。
開館以来の地域に密着した活動と震災発生以降の試みが評価され、2015年に「平成26年度地域創造大賞(総務大臣賞)」を受賞、また2016年には「第10回野上紘子記念アート・ドキュメンテーション推進賞」を受賞している。
ガラパゴス化・その1──陸の孤島は不毛の地だった
当館について特筆すべき点は、美術館でありながら開館当初から常設展示が歴史・民俗系資料だったことである。実は財政的理由から美術作品コレクションの構築ができず、地域の一般家庭に眠る歴史・民俗資料を集積して常設展示をつくる以外に選択肢がなかったのである。
陸の孤島とまで言われる気仙沼地域に誕生した「妙な施設」は、リアス・アーク美術館と名乗りながら美術作品を持たず、企画展は外部から美術品を借りる、あるいは企画会社から企画を買う典型的な「箱物」施設で分類上は博物館相当施設。それが開館当初のリアス・アーク美術館である。
広域圏の施設ゆえ、一般に施設名称の前段に付される所在地名が入らず、いきなり「リアス・アーク」である。当初は「リアス・アート/アリス・アート/エリス・マーク」など、散々な間違われ方をした。所在地については「岩手県気仙沼市」と書かれることもあり、結果「岩手県気仙沼市、エリスマーク博物館」などと表記された郵便物が届いたりした。得体のしれないアルミ張りの建築は地元民に「サティアン」などと揶揄され、金食い虫との誹りも受けた。同じ虫でもワラジムシのように、私は地域の文化的土壌を耕し、美術館を根付かせる努力をするしかなかった。ときはバブル崩壊、経済不振の真っただなかだった。
ガラパゴス化・その2──過酷な環境への適応
気仙沼・本吉地域広域圏には当時1市5町が存在した。地域人口は約10万人、基幹産業は漁業、水産業、林業などの1次産業で、宮城県内でも僻地と呼ばれてきた。
バブル期に経済発展のピークを迎えた気仙沼市は、ランドマーク施設として当館の設置を計画した。しかしオープン時にはバブル崩壊、2000年には地域財政の回復が絶望視された。当館の事業費も、その減少に歯止めが利かなくなった。「閉館」の文字がちらつくなか、私は約2年にわたってさまざまな改革を行なった。この2年間に行なった改革が現在のリアス・アーク美術館を形作ったといっても過言ではない。
私はまず、歴史・民俗資料常設展示の解体、再編集を行なった。関東の展示企画会社によってデザインされた従来の常設展示「押入れ美術館」は、地元住民の評価を得られず、われわれもその扱いに苦慮していた。「なんでおらいの物置に転がってるようなガラクタ、わざわざ金払って見ねげねえのや」との侮蔑的な言葉を何度も浴びせられてきた。この展示を地域住民から愛される展示に作り替えることに私は館の未来を託した。
数カ月をかけ、しかしながら金はかけず、学芸スタッフ数名で常設展示をリニューアルした。そして2001年4月、新たに美術作品常設展示も加えた新常設展示をオープンした。「食文化を通して地域の歴史、民俗、生活文化を紐解く」というコンセプトで新たにデザインした歴史・民俗系常設展示「方舟日記」は地域住民のハートをつかんだ。
美術家である私は、地元民がガラクタと呼ぶ資料の魅力や文化的価値を引き出すために、手書き文字と手描きイラストによる解説パネルを制作した。地元愛という付加価値を可視化したのである。その結果、以前は1日に2~3人が15分程度しか滞在しなかった常設展示に、リニューアル以降、最多で1日に200人以上が、最長で2時間も滞在する状況になり、さらにリピーターも誕生した。また総合学習での学校利用も行なわれるようになった。
このリニューアルをきっかけに地元まちづくり活動との連携が深まり、当館は地域になくてはならない施設と言われるまでになった。加えて私を始めとする学芸員それぞれがアウトリーチ活動を盛んに行なったことで美術館の評価はさらに高まった。
ガラパゴス化・その3──大災害~新種発見
2006年、ついに運営母体の市町が財政的限界を迎えた。以降、当館の事業費は広域が有する基金を5年毎に切り崩して捻出されることになった。そして2010年度末、新たな5年計画が完成した矢先の3月11日、東日本大震災が発生した。
高台に位置する当館は津波浸水被害を免れたが地震による被害は甚大だった。また運営母体であるまちの被害は計り知れなかった。同年3月16日、当館の閉館もささやかれるなか、われわれ学芸員は津波被災現場の記録調査活動を開始した。その目的は地域再生のために、①まちの最後の姿を記録し残すこと、②津波浸水、遡上の実態を調査し記録を残すこと、③被害拡大に至った人間側の問題を明るみにすること、以上3点である。
同月23日に広域組合教育委員会、並びに同組合管理者(気仙沼市長)より公式な特命を受けたわれわれ学芸員は、その後約2年間、気仙沼市内、南三陸町内の津波被災現場をくまなく記録・調査し膨大な資料を蓄積した。幸いなことに、当館は2013年4月を目標に、美術館として再開することを許された。この開館にあわせ、当館では収集資料を「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示として新設、公開することにした。
美術館である当館が震災記録資料を常設展示とすることは一般的常識から逸脱している。しかし開館当初からの総合博物館的な活動やまちづくり活動への貢献、震災発生以前からの津波災害史研究が、それを容認させた。何よりも、地域住民がその必要性を深く認識していた。
2013年4月3日にオープンした「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示は、国内外に広く知られる展示となった。被災者である学芸員自らが現場取材を行ない、撮影した写真に主観的なコメントを添えて展示資料とし、さらに、自ら収集した被災物にフィクションの物語を添え、検討委員会も立ち上げず、業者も入れず、完全に学芸員のみで常設展示を自作した。「伝えるべきことを伝える」ことに特化されたこの展示は、いわゆる博物館展示の常識には当てはまらない新種の展示となり、これを目にした専門家たちは新種発見に沸いた。しかしわれわれとしては、開館以来蓄積してきた技術と、震災にも揺らぐことのなかった信念をもって、これまでどおりの展示表現を行なっただけだった。
おわりに──絶滅危惧施設
開館以来25年をかけ、過酷な環境にも順応しつつガラパゴス化を遂げてきたリアス・アーク美術館は、それゆえに今後、絶滅の可能性も秘めている。東日本大震災以降、とめどなく続く地域の変化は、生物界ならば生態系崩壊レベルの大変動であり、地域環境に順応し独特な生態を持ってしまった当館としては危うい状況といえる。
復興事業の過程で地域内に生まれた商業施設、商店や公共施設、さらには高速道路などのさまざまな新種、あるいは外来種は、気仙沼という地域が長い時間をかけて築き上げてきた文化的環境を急激に変化させている。そのような変化により住民の生き方も変わっていくことだろう。望ましい変化ならば、私は再び当館をその環境に順応させるべく努力する。しかし、いまのところそれを「望ましい変化」とは認識していない。
変えるべきではないモノ、コト、それらを守ることが博物館の使命だと私は愚直に信じている。そして、そういう私自身が実は絶滅危惧種なのではないかと感じている。
リアス・アーク美術館
住所:宮城県気仙沼市赤岩牧沢138-5
Tel. 0226-24-1611