キュレーターズノート
協働のためのプラットフォーム──芸術祭事務局のためのノート
勝冶真美(京都芸術センター)
2019年10月01日号
平成30年に行なわれた調査によると、過去10年に日本国内で行なわれた文化芸術のフェスティバルは約1,500に上るという
。単純に10で割ったとして1年間に150もの「フェスティバル」が日本各地で開催されていることになる。増加傾向だと思われるから、現在はもっと多いかもしれない。「フェスティバル」と一口に言っても、ジャンルも伝統芸能から現代美術まで、定期的に開催されるもの、一度きりのもの、予算規模の大きなもの、小さなもの、行政主導、アーティスト・ランなど、そのバリエーションは幅広い。その多様なフェスティバルのなかであえて共通項を探すならば、多くの場合、組織を一時的に構成して運営を行なう、という運営主体のテンポラリーネスということかもしれない。「芸術祭」の運営母体として一般的な実行委員会形式にせよ、そうでないにせよ、人が寄せ集められて共同で実施する、「寄合」としてのその一時性が、地域の人々が集い協働した古来の祭りのあり方同様に、非日常である芸術「祭」を芸術祭たらしめているとも言える。
そこでは、芸術監督やゲストキュレーターといったいわば製作総指揮を行なう人がいて、実際の業務を行なう事務局があり、またインターンやボランティアといった組織もつくられるかもしれない。フェスティバルはいつも、「はじめまして」というふわふわした状態から立ち上がるのだ。
私自身も、これまでにいくつかのフェスティバルの事務局として仕事をしてきたが、毎回チャレンジと試練の連続だったと言える。私が携わったのはいずれも予算規模数千万の中規模なもので、予算規模が違えば状況は異なるとは思うが、ここでは、フェスティバルの運営について、事務局の視点から、主に美術のフェスティバルを想定しつつ考えてみたい。
役割を見極める
(フェスティバルではない)通常の展覧会であれば、キュレーターがコンセプトを決め、作家を選定し、展覧会を実現させるまでのおおよその段取りをキュレーター自身で行なうことも多いだろう。それがフェスティバルになると、まず芸術監督やゲストキュレーター(以下、「キュレーター」)を置き、彼らのコンセプトを実現させるための組織として事務局が置かれることが多い。いわばキュレーターの仕事を分業することになるのだが、ここがうまくいかず戸惑うことが多い気がする。なぜか。そもそもキュレーターとは何をする存在なのか、事務局が何を行なう組織なのかが、人によって認識が違うからではないかと思う。このために、齟齬が生まれたり、すれ違いが起こったりする。
例えば、「THE CURATOR’S HANDBOOK──美術館、ギャラリー、インディペンデント・スペースでの展覧会のつくり方」(エイドリアン・ジョージ著、フィルムアート社、2015)では、冒頭で「キュレーターのもっともよく知られた役割とは、展覧会のための作品の選択者および解釈者であろう。しかしそれはいまや、プロデューサー、コミッショナー、展覧会プランナー、エデュケーター、マネージャー、主催者と、あらゆる役割を含んでいる。加えてキュレーターは、壁に掲示する作品ラベル、カタログエッセイ、展覧会を補完するその他コンテンツ(…)の執筆者である可能性が高い。さらに21世紀のキュレーターは、アーティストとのインタビューやトークイベントをとおして、プレスや一般の人々との関わりを求められる。また、スポンサーや後援者関連のイベントといったファンドレイジング(資金調達)活動や開発事業への参加、さらには講演会、セミナー、インターンシップといった就業体験の提供、学校・大学を含む教育機関とのパートナーシップの構築などにも関わらなくてはならない」(同著、10頁)とその役割を述べている。
率直に事務局の立場から言ってしまえば、芸術監督やゲストキュレーター、アーティストの特徴を見抜いて事務局を組み立て運営しなければならない。上述のような現代のキュレーターに求められていることがあるとはいえ、キュレーターも千差万別。研究者タイプで作家の選定とカタログの執筆に重きをおくキュレーターもいれば、社会や観客との関わりを大切に思うキュレーターもいる。あるいはフェスティバルによっては芸術監督やゲストキュレーターに芸術以外の分野の専門家がたつこともある。
キュレーターの仕事に対する認識は人それぞれと割り切った上で、キュレーターに合わせてその役割を変化できるような柔軟さが事務局には必要とされている。
混成部隊をまとめる
行政が関わるフェスティバルは多くの場合、事務局は混成部隊である。主体となる施設の職員、行政からの出向職員、受託業者からの出向、フェスティバルのために雇われたフリーランスや契約職員、アルバイト、インターンやボランティア。寄り集まったこの混成部隊をまとめ、フェスティバル終了まで組織としての活性を保つこと。フェスティバル実施以前の、この部分に割かなければならないエネルギーは意外に多い。バックグラウンドが違えば、情報共有の仕方、意思決定プロセスも異なる。なぜひとつのことを決めるのにこんなに時間がかかるのか……とじりじりした気持ちになることも多いが、最初に意思決定や情報共有の仕方を決めておけば、その後に起こりうる徒労が防げたことも多い。土壌がよくなければ植物は育たないのと同様に、フェスティバルが育っていくための環境やインフラの整備といった土壌づくりは大切だと思う。
個人的な失敗談として思い出されるのが、フェスティバルが始まるまでは一致団結してモチベーションを保っていたのに、1ヶ月強続く会期途中にはモチベーションがなくなったのか、アルバイトやインターンの集まりが悪くなり、組織が半ば崩壊してしまったということがあったこと。事務局は芸術祭が始まったら終わりではない、という痛い教訓だった。
また、広報に関しては大きなフェスティバルであれば専門のPRに委託する、というケースが多いのではないかと思う。ただ、日本ではまだまだ美術専門のPRは少なく、特に地方都市では適切な業者や人を見つけるのも難しいのが現状だ。自分たちが広報も兼ねる、という場合は普段の事業の広報とは異なる方法を考えなければならない。フェスティバルとして開催しようとするからには、通常の事業ではリーチしない、新たな観客を獲得したいというのも狙いのひとつとしてあるはずで、フェスティバルの目的や内容に合わせてどのような広報が効果的なのか、普段の広報をなぞるだけではない知恵と工夫が必要とされている。
アーティスト、キュレーターと共犯関係を築く
キュレーターとアーティストとで展示作品の選定など一定の合意が得られた後は、キュレーターの手を離れ、事務局が連絡調整を行なうことも多い。作品が決まったのだから後は淡々と調整するのみ、と思われるかもしれないが、技術としてのキュレーションを考えるなら、この段階で起こることもすべてキュレーションであるとも言え、この「調整」のプロセスは奥が深い。
事務局に求められることは、現実的な思考を持ちつつ、アーティスト、キュレーターときちんと共犯関係を結ぶこと。調整役も作品や展示プランを理解しておくことがよりよいフェスティバルのためには欠かせない。このプロセスにはキュレーターとの連携が必須で、できる限り自分も関わるというタイプのキュレーターもいるだろうし、事務局に一任するキュレーターもいるかもしれない。何を誰に相談すればいいのか曖昧なまま進めば、アーティストも混乱するだけだ。大きな変更が起こったのにキュレーターには連絡がいっていなかった、ということも困るし、事務局がやるだろう、キュレーターがやるだろうと思っていたら誰もやってなかった……というようなことがあっても困る。互いの仕事を理解し合う、という当たり前の態度が必要とされているのではないだろうか。
フェスティバルを実現させる
事務局の本分はフェスティバルを実現させること。キュレーターの無理難題やアーティストの要望を伝えたり、観客の満足度を高めるなど、フェスティバルをよりよいものにして「成功」させるためにはそもそも「実施」しければ始まらない。リスクヘッジや安全管理、予算管理などは事務局が主体的にすべき仕事だ。時にキュレーターやアーティストと対立することもあるかもしれないが、互いの妥協点を見極めつつ、事故なく安全にフェスティバルを実現させることが事務局に課せられた役割だと思う。キュレーターは質を第一優先にするかもしれないが、事務局は実を優先させる必要がある。どちらが欠けてもフェスティバルは成り立たない。だからこそ互いの緊張関係がフェスティバル成功の鍵となる。
フェスティバルは生もので、スケジュールや予算はいつも二転三転して、管理するのが至難のわざだ。新作を委嘱していたり、展示空間に合わせて再制作される場合は尚更で、インストールが始まるころには、思うように設営できずに工期が延長したり、注文したはずの材料が届かなかったり、機材が不具合を起こしたり、など予測できなかった事態のオンパレードとなる。予測できないことが起こりうる、ということを事前に予測しておかなければならない。スケジュールや予算に余裕を持たせておくことが大切だとこれまでの経験から大いに学んだ。
また、オープン前に展示される作品をすべて観ることも事務局の大切な仕事だ。展示される内容もさることながら、実際に歩きながら動線上に危険な箇所はないかなど、自分自身で見ておくことが、事故やクレームなどの事態の初動を助ける。展示内容をキュレーター任せにせず事務局という別の視点を入れることで、フェスティバルがよりよいものになると思う。
フェスティバルは、美術館や劇場を飛び出して、アートを社会に接続させるための装置である。さまざまなバックグラウンドや職能を持つ人々が集い、協働でフェスティバルを運営する事務局自体が、社会とのエンゲージメントを体現しているとも言える。
もちろんそれぞれのフェスティバルに固有の課題や悩みがあるはずで、最終的にはケースバイケースだと言うほかないのかもしれないが、「フェスティバル」という形式をうまく運営していくためのノウハウは蓄積されていく必要があるだろう。キュレーターとどのような契約を交わすのか、アーティストへの依頼の仕方、行政への報告事項など、どんなフェスティバルも押さえておくべきポイントはあるはずで、美術館やアートセンターのように恒常的な運営母体でないからこそ、それらのノウハウを共有知としていくためのプラットフォームが必要とされているのではないだろうか。