キュレーターズノート

ポロトコタンのあゆみ 1976-2018

立石信一(国立アイヌ民族博物館運営準備室)

2019年11月01日号

来年4月24日に北海道白老町に開館する予定の国立アイヌ民族博物館を含む民族共生象徴空間(愛称ウポポイ)は、これからいよいよ最後の準備に取り掛かるところである。「キュレーターズノート」掲載第2回目となる今回は、一昨年まであった一般財団法人アイヌ民族博物館(通称ポロトコタン)をめぐる近年の動きを振り返りながら、民族共生象徴空間が担っていく役割について考えてみたい。


開館迫る国立アイヌ民族博物館。手前はポロト湖 [撮影:筆者]


白老という土地に根ざして


白老は古くからアイヌの人たちが居住する地として知られ、明治以来、多くの人が観光などで訪れていた。そうした人たちにアイヌ文化を紹介するため、当初は白老の市街地にあった「白老アイヌコタン」を、1965年にポロト湖畔に移設することとなり、その経営のために白老観光コンサルタント株式会社が設立された。こうして観光施設としてのポロトコタンは誕生した。


1976年には、観光業を中心にアイヌ文化の紹介を行なってきた白老観光コンサルタント株式会社を発展的に解散し、財団法人白老民族文化伝承保存財団を設立する。この財団法人の設立目的は、次の通りだった。


「白老地方のアイヌの文化的所産の伝承保存と公開に必要な事業を行い、もって北方文化の発展に寄与する」


これにより、博物館の設立につながっていくような学術的な活動や、文化の発展に寄与することなどを理念としてもつ組織に転換していった。そして、依然として所在地である「白老」に立脚する一方で、北方文化のなかに自らを位置付けていくことを意図していたのである。もっとも、これ以降も博物館機能と観光業を両輪として、白老のアイヌ文化を発信し続けてきた。


ポロトコタンを訪れる人の目に真っ先に飛び込んできたコタンコ像は、白老町内にあったカーレース場から1978年に移設され、閉館までポロトコタンのシンボルとして愛されてきた。修学旅行生などが像の前で記念撮影をするのはおなじみの光景となっていた。土産店の並びが一新され、大きな熊の顔のレリーフがシンボルとなっていた商業施設「ミンタラ」がオープンしたのもこの時期である。



1979年頃のポロトコタン


文化財保護法とアイヌ文化


1975年に文化財保護法が改正され、有形と無形の民俗文化財が登録されるようになった。民俗文化財とは「我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの(下線筆者)」のことである。この法律に基づいて、「アイヌ独自の信仰に根ざしている」ことなどから、1984年に平取や旭川などの他地域の保存会とともに、白老民族芸能保存会が「保存」するアイヌ古式舞踊が重要無形民俗文化財に指定された。


ほぼ同時期にはDISCOVER JAPANキャンペーンが始まり、「ふるさと」を再発見する旅が流行っていた。

この背景として、当時戦後最長とされたいざなぎ景気が起こり、1972年には田中角栄が日本列島改造論を発表するなど、国土と列島にある文化がさらなる変化の波にさらされていたことがあげられる。



重要無形民俗文化財指定証書


アイヌ民族博物館の開館


社会教育施設の拡充や学術機能の充実のため、1984年に念願のアイヌ民族博物館を開館させる。この時期に財団法人が収集した資料の性質などからしても、白老という一地域の施設から、アイヌ文化全般を主題とする博物館へと発展的に変化していった時代といえるだろう。

こういった動きは、アイヌの人たちや文化に対する認識が深まり、単なる好奇心としてではなく、より正確な学術的な知識を求めるようになったことと関係していた★1

その一方で、アイヌ文化をアイヌ自身の手で伝承・保存し、公開するという目的は、アイヌの人たちを中心とした多くの人たちによってその後も継承されていくことになる。

なお、第1回アイヌ民族博物館の企画展は「アイヌのおまじない」だった。



第1回企画展「アイヌのおまじない」ポスター


アイヌ民族博物館が法人の中核となり、伝承保存の対象は広くアイヌ文化全般に及んできたことから、1990年には組織名称を財団法人アイヌ民族博物館へと変更する。

1965年にポロト湖畔に観光施設として開業して以来、25年の歳月がたっていた。当時を知るものにとっては隔世の感があったことだろう。ただし、「ポロトコタン」という名は、このエリア一帯を指す通称として親しまれ、この後も使われ続けることとなる。

世界の潮流のなかで


この時代、日本国内や世界に目を向けると、どうだっただろうか。
1982年から国連の人権小委員会に先住民に関する作業グループが設置され、1993年には「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の草案を決議している。


さらに、国連総会では1993年を「世界の先住民の国際年」と宣言し、次いで1995年からの10年間を「世界の先住民の国際10年」と指定した。なお、北海道ウタリ協会★2理事長 野村義一氏(当時)が国連総会で世界の先住民の国際年の記念演説を行なっている。

そして2005年からは「第2次 世界の先住民の国際10年」が始まり、2007年には「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が国連総会で採択される。


こうした動きを受けて、白老では1994年、世界の10民族と1個人を招待して先住民国際フェスティバルが開催されている。

もっとも、これ以前からアイヌ民族博物館は国際交流を積極的に行なっており、それは近年まで続けられてきた。この時期の主だった交流事業は以下の通りである。

1984年 北欧視察及び北方少数民族交流親善(フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)
1984年 サーミ博物館との姉妹博物館提携
1987-89年 「北海道アイヌ展」開催(ユジノサハリンスク市、ハバロフスク市)
1988年 北欧二ヶ国アイヌ民族文化展・同伝統芸能公演(フィンランド・スウェーデン)
1989年 「北方民族国際フェスティバル」開催
1993年 サハリン州立博物館、ノグリキ町博物館と「博物館交流に関する覚書」取り交わし



昭和63年 アイヌ民族文化展/アイヌ伝統芸能会 開催行程表


この時期の国内の主な出来事として、1994年に萱野茂氏がアイヌ民族として初めて国会議員に選出される。1997年にはアイヌ文化の振興や普及啓発を明記した「アイヌ文化振興法」★3が制定された。これにより、1899年に「日本国民への同化」などを目的として制定された「北海道旧土人保護法」は、およそ1世紀後にようやく廃止されることとなった。


2008年には前年の国連での宣言を受けて、国会の衆参両議院において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致をもって可決される。

この決議から11年経った今年(2019年)、初めてアイヌ民族を先住民族と規定した「アイヌ施策推進法」★4が制定された。

アイヌ民族博物館の近年の動き


近年のアイヌ民族博物館では、他地域の関連する博物館等との交流・連携や、地域内連携などを模索し、2013年からは「ルイカ プロジェクト」(ルイカはアイヌ語で「橋」の意)と銘打ったプロジェクトを開始した。同プロジェクトはさまざまな地域出身の博物館の若手職員が主体となり、アイヌ文化のイメージをふくらませ、多様な地域、文化とつながることを目的としていた。


主な実績としては、国内では三重県の松浦武四郎記念館との姉妹博物館提携(2015年)や江差追分会館との提携(2017年)、国外では台湾原住民文化園区との提携(2016年)を行なってきたことなどがあげられる。こうした連携によって、地域や文化の枠組みを越えた相互交流や事業の連携を積極的に行なってきたのである。



2015年「THE AINU MUSEUM FAIR in 台湾」の様子


地域のなかでどのように根付いていけるかということも模索してきた。同じ白老町に所在する、飛生アートコミュニティーとは、芸術とアイヌ文化という枠組みを越え、博物館の企画展に協力してもらう一方で、飛生アートコミュニティーが開催している飛生芸術祭にも協力してきた。


白老町内の小中高校に対しては、「ふるさと学習」として、職員が出向き授業を行なったり、博物館にも足を運んでもらい見学や各種のワークショップを行なうなどしてきた。

こうした地域における活動が、白老という土地に根ざした博物館にとって重要であったことは言うまでもない。一般財団法人アイヌ民族博物館は昨年をもって閉館したが、こうした博物館体験をした子どもたちや見学者の記憶のなかに、なにかがとどまっていればと願っている。



2016年度の企画展で飛生アートコミュニティー代表国松希根太氏、小助川裕康氏を中心に制作し、結氷したポロト湖上に展示した「海の宝舟」


また、アイヌ文化の伝承者としての人材を育成するプログラムを、2008年から行なってきた。受講生は1期3年間のなかで衣食住や工芸、儀礼、言語などの講義や実習を受講している。現在まで3期15名が受講を終えており、現在は2名の受講生が学んでいる。修了生の中には民族共生象徴空間で働く予定の職員もおり、アイヌ文化の伝承者としての活躍の場はますます広がっていくことだろう。

「近代」を問い直す


最後に、再び世界に目を向けてみよう。
1980年から1990年代にかけては「オリンピックが開催されると、その地の博物館、特に異文化を対象とした民族学博物館の展示をめぐって『事件』が起こるという例が相次いだ」★5という。しかしこうした傾向も2000年前後から変化が見られるようになる。

オリンピック・パラリンピックのような国際的に注目を集める機会や、その開催地にある博物館を、「自らの権利主張の場として積極的に活用」する動きが出始めたのだ。

例えば、2000年のシドニーオリンピックでは、オーストラリアの先住民であるアボリジニのキャシー・フリーマン選手が最終聖火ランナーを務めた。そして女子400mに出場し金メダルを獲得した際に、ウイニングランでオーストラリア国旗とともにアボリジニの旗を持ってスタジアムを回ったことは大いに注目された。

こうした世界的潮流のなかで、来年は東京でオリンピック・パラリンピックが開催される。スポーツ界だけではなく、芸術や文化面でも日本が大いに注目を集めるはずだ。そしてそこでのキーワードのひとつとなるのが、多文化や共生、多様性といった今までの近代的な合理主義では包含し得なかった価値観と社会のあり方だろう。

「オリンピック・パラリンピックに向けて整備する」 とされた国立アイヌ民族博物館を含む民族共生象徴空間は、2020年4月24日にいよいよ開館を迎える。国内はもとより、国際社会のなかで新たな価値の創造を行なっていくことが求められている。

次回は開館を直前に控えた国立アイヌ民族博物館について紹介したい。


★1──財団法人アイヌ民族博物館『二十年のあゆみ』(1996)
★2──2009年に「北海道アイヌ協会」に名称変更
★3──法律の正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」
★4──法律の正式名称は「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」
★5──吉田憲司『文化の「肖像」 ネットワーク型ミュージオロジーの試み』(岩波書店、2013)

*クレジットのない写真はすべて公益財団法人アイヌ民族文化財団