2020年12月01日号
次回12月15日更新予定

キュレーターズノート

We Age──年をとる私たちと京都芸術センターの20年

山本麻友美(京都芸術センター)

2020年02月01日号

京都芸術センター、2000年の開設当初は、施設や事業運営、(私を含む)スタッフ自身にも未熟な部分が多く、いま以上にアーティストを含め関係者には多大なる迷惑やストレスを与えていただろうと思う。私は、開設前から初代のアートコーディネーターとして採用され、京都芸術センター20年の歩みと、ここで制作・発表を行なってきたアーティストの成長、成功、失敗など、さまざまなことを目撃してきた。アーティストがやりたい、試したいと思ったことを実現できる場所であり続けることは、私たちにとっての重要な使命であると信じ、格闘し模索し続ける20年だった。思いもよらないアイディアを実現し、やったことのないことに一緒に挑戦する。20年経っても、まだまだ新しい表現、発想、テクニックが提案され続けることに驚かされる日々。その歩みを京都という不思議なまちの変化とともに少しだけ振り返り、これからの在り方について考えてみたい。


明倫小学校 昭和6(1931)年頃

京都の不思議


京都は不思議な町だ。都会でもなく田舎でもなく、古いモノも多いけど、新しいモノが大好きで、見た目を大切にし、見栄も張るけれど、内実は吝嗇りんしょくで堅実。隣人やコミュニティとどのように付き合うのかという極めて個人的な発想が動機となって、洗練された個人主義と独特のコミュニケーションの作法が発達し、何ものにもおもねらない自主性が尊重される。個人的には、京都は相反する複雑さを内包した都市であり、それが最大の魅力であると感じているが、おそらく人それぞれ十人十色の京都論が存在するのだろう。

そんな京都の中心部で活動を続けてきた京都芸術センターが、2020年4月に開設20周年を迎える。1869年に下京三番組小学校として開校し、その後、明倫小学校として1993年まで子どもたちの学び舎であり、地域のシンボルでもあった小学校をリノベーションし、活用している。明倫小学校は、行政が主導して開校した小学校ではなく、地域の人たちがお金を出しあって開校した番組小学校と呼ばれる日本で最初にできた小学校のひとつであり、地域にとっては単に子どもが通う小学校という以上に、コミュニティの核となる場所であった。その思いはいまも受け継がれており、京都芸術センターがコミュニティベースのアートセンターと云われる由縁でもある。



明倫小学校 校庭での集合写真

元々、大学を卒業後も演劇を続けたいと考える演劇関係者から「稽古場を作って欲しい」という声が京都市にあげられ、そこから若手芸術家にとっての制作の場として構想されたのが京都芸術センターであり、現在も稽古場、制作場所であることは京都芸術センターにとって重要な機能のひとつだ。



制作室 Monochrome Circus制作風景(2013) [Photo by Tadanobu Omote]

京都芸術センターが位置する室町通は、繊維関係の問屋や商社が集まる場所で、京都の着物産業を支えてきた場所だ。90年代にバブルがはじけ、繊維産業が斜陽期に入り、大きな会社が室町通から消えていくのと同時に周辺の子どもも減り、1993年に閉校となった。当時は京都市内には明倫小学校以外にも閉校になった小学校が増えつつあり、活用方法を探る京都市と地域の思惑が重なったところで、阪神淡路大震災などもあり、耐震補強を行なったうえで、地域にも開かれた芸術家の制作・発表を支援するための施設として2000年にオープンしている。



制作室 柴川敏之×てんとうむしプロジェクト「2000年後の小学校|PLANET SCHOOL」制作風景(2013) [photo by Tadanobu Omote]

この小学校を自分たちの手で作った地域の力、またアーティストが自分たちで声を上げて制作場所を獲得したという事実。自主、自律が重んじられることがここからも感じられる。(余談だが、京都市にはまるで独立国家のように自治記念日という日があり、毎年盛大に式典が開催されている。明治22年に初めて市政制度が施行されたとき、京都市 [ほかに東京市と大阪市] は「市制特例」により自治権を制約されていた。しかし京都市は、明治政府に力強く働きかけ、この日「市制特例」を撤廃させた)

20年の歩みのなかで


この20年の間に、日本のアートシーンも、京都のアートシーンも大きく変化している。国際的な芸術祭が数多く開かれ、地域密着型のアートプロジェクトが流行し、アートフェアやオークション、アーティスト・イン・レジデンス等も随分身近なものになった。アートやアーティストが介在できる、活躍できる機会は増えたが、制作環境や経済状況はどれほど変化しただろうか。そんな20年の流れのなかで、京都芸術センターが行なってきた事業をいくつかを紹介したい。(今回は美術系の事業に絞る)


かつて京都を拠点にしていた、あるいは現在も京都を拠点にしている30代から40代のアーティストの多くは、キャリアの初期に、京都芸術センターで展示を行なっている。特に印象深かったのは、名和晃平の大広間でのインスタレーション《SCUM SPECTRUM》(2000)だ。当時彼はまだ大学院生だったように記憶しているが、大胆な空間の使い方、作品の発想には才能を感じずにはいられなかった。



名和晃平《SCUM SPECTRUM》(2000) [Courtesy: GALLERY NOMART Photo by HIDEAKI TOYOURA]

また、2008年の「公募 京都芸術センター」で選出された宮永愛子はギャラリー北を使ったインスタレーション《漕法》を発表した。当時の審査員は、国立国際美術館長であった建畠晢(現在は京都芸術センター館長)。その時の作品には、海、水、塩、結晶というその後の彼女の創作に欠かせないモチーフが数多く登場している。この作品制作のために制作室の一室で、海水を煮詰め結晶を定着させる作業を一心不乱に行なう姿は、とても印象深かった。(実際には彼女が使用した後のコンロの五徳が、見事に錆びていたということも印象に残った大きな要因かもしれない……)



宮永愛子《漕法》「公募 京都芸術センター」展(2008)

また、京都芸術センターにとっても大きな挑戦となった展覧会としては、現在は目のメンバーとして活躍する南川憲二と増井宏文によるwah documentの《TIGHTROPE WARKING─てんとうむしのつなわたり》(2011)も忘れられない。ボランティアスタッフと一緒に作る展覧会のシリーズとして企画され、募集したアイディアを元に実現されたものだ。国の有形文化財に登録された建物を傷つけることなく綱渡りのロープを張るという難題に挑み、校庭のはるか上空を歩くというプロジェクトが実現した。展覧会の会期中に東日本大震災が起こり、「揺れる」ことを連想させる綱渡りを実施するか否かで大激論になり、関係する多くの人にとって、複雑な感情を抱きながら精神的にも追い詰められた状況での開催となった。実施の可否の決定の遅れや、社会全体の自粛ムードもあって、うまく広報を進めることができず、綱渡り自体は公開で実施したものの、限られた人しか現場を見ていない。



Wah document《TIGHTROPE WARKING─てんとうむしのつなわたり》(2011)

他にも紹介したいアーティストや作品、プロジェクトが山のようにあり、書き始めるとキリがない。発表時はそれほど注目されていなくても、10年、15年経つと、京都芸術センターでの発表や制作が起点になって、その後の創作につながっているのではと感じることも多い。そうやって、一つひとつの制作や発表が積み重なって、新しい作品が生まれてきたのだと実感できることは、私にとってはこれまで関わったアーティストの展覧会を観賞する際の大きな楽しみであり、仕事を続けるうえでの励みにもなっている。また、京都芸術センターに通ってくださる鑑賞者のなかにはそのようにアーティストの変化や成長を見届けようとする方が少なからずいるように思う。長い目でたくさんの方に見守られているという状況は、京都の文化的土壌を豊かにしている重要な要素のひとつなのだろう。

また、現代美術の歴史において重要な作品の再制作・再展示プロジェクトは今後にも活かせる新しい事例となった。2016年に京都市立芸術大学芸術資源研究センターと京都の老舗クラブMETROとの共同主催により、古橋悌二《LOVERS-永遠の恋人たち》の修復展示を行ない、トークや資料展示、パフォーマンスを通して、ダムタイプの活動を改めて振り返る機会を得た。海外の美術館等では、インスタレーションやタイムベースト・メディア・アートをいかに保存するかといった研究が行なわれているが、《LOVERS-永遠の恋人たち》は、大学や美術館などの研究機関と創作の現場である京都芸術センターが連携し、共同で実施することのできるプロジェクトの貴重な例となったのではと考える。作品の形態が多様化する現代においても、今後もアーティストや他の機関との連携を積極的に行ない取り組んでいくべき重要な事業と考えている。



古橋悌二《LOVERS─永遠の恋人たち》(2016)[Photo by Tadanobu Omote]

京都のいまとこれから


では、現在の京都芸術センターとその周りの状況とはどのようなものだろうか。
制作や発表がしやすい環境を求めアーティスト自身も行政もさまざまなことに取り組んでいる。事例は以下の記事に詳しい。

作品をつくる場所を集まってつくる──京都・アーティストスタジオ特集|artscape編集部:フォーカス(2019年12月15日号)

アーティストと街とアートセンターと|勝冶真美(京都芸術センター):キュレーターズノート(2019年05月15日号)


経済的な面では、2008年頃、大手コマーシャル・ギャラリーがいくつも京都にも進出したが、現在はそのほとんどが撤退している。アートフェアに関しては、さまざまな場所、形式、運営が試みられたが、現在は京都文化博物館等で開催されている「ARTISTS' FAIR KYOTO」や、昨年9月にICOM(国際博物館会議)京都大会の時期に合わせて二条城で開催された「artKYOTO」が話題にあがることが多い。また、昨年11月には、若手アーティストの立体作品を中心としたオルタナティブなアートフェア「OBJECT」もクラウドファンディングで資金調達を行ない開催されている。

他には、行政主導で、東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)が窓口となっているアーティストと仕事のマッチング事業や、ふるさと納税で若手アーティストの海外のアートフェアへの参加を支援する事業なども行なわれている。

しかし、最近、京都に移住し活躍していたアーティストが、「京都は制作や発表はできるけど仕事がないから」と東京に戻ったという話も耳にした。芸術や文化を取り巻く環境は徐々に整えられ豊かになっているようには感じるが、実際には、アーティストにとっても、それを支える周辺の人にとっても、制作と発表そして生活がうまく循環するにはまだまだアイディアもシステムも足りないのだろう。

そして2022年には、文化庁が京都に移転する。また、今年2020年3月には、京都市美術館が京都市京セラ美術館としてリニューアルオープンを迎える。日本中どこの公的文化施設も同じだろうが、新しいところには予算がつき、古びてきたところは予算を削られやすい。2000年の京都芸術センターの開催前後に京都市美術館の予算が削られたように、これから数年の間は立場が逆転した同じ状況が生まれるのだろう。

また、京都で行なわれる芸術祭も変革の時を迎えている。「KYOTO EXPERIMENT京都国際舞台芸術祭」は、今年から3人のディレクターを迎え新体制で動きだす。「KYOTOGRAPHIE京都国際写真芸術祭」は出町柳にある桝形商店街に新しく拠点を構え活動の幅を拡大していくようだ。それらに加え、この春から「KYOTO STEAM─世界文化交流祭─」という新しいサイエンス・テクノロジーと融合したアートフェスティバルが本格始動する。アーティストとテクノロジー、サイエンス分野の企業や大学、専門機関が連携し、複数のプロジェクトを実施し、その成果を2020年3月からのフェスティバル期間中に公開する新しいタイプの芸術祭だ。京都でなかなか根付かない現代美術分野のフェスティバルとしての継続性にも期待したい。

We Age──成長と成熟の間で


そのような多様な新しい動きがあるなか、京都芸術センターの20周年事業のテーマは「We Age」とした。これは事業を担当するアートコーディネーターとプログラムディレクターで話し合って決めたものだ。世界中のどこよりも早く超高齢社会となった日本で、芸術創造の現場で何かできるのか。若手芸術家の支援をミッションとして掲げる京都芸術センターでこのようなテーマを取り扱うことには反発もあった。しかし、歳をとるという現象は誰にとっても平等な事柄で、無関係なひとはなく、現代の課題であり未来を考えることにもつながる。何度かの話し合いのなかで辿り着いた「We Age=私たちは年をとる」というテーマは、とても自然で納得できるものだった。単に高齢者福祉や社会包摂を意識した事業ということだけではないアプローチを、多彩な事業をとおして行なっていきたい。老いや時間の流れ、その積み重なりと未来を考えるヒントを用意している。


関連レビュー

KAC Performing Arts Program / LOVERS |高嶋慈:artscapeレビュー (2016年08月15日号)

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