キュレーターズノート

災害とアート──伝承のためのアーティスティックな試み

山内宏泰(リアス・アーク美術館)

2020年03月01日号

大災害等によって機能停止し、拠り所を見失った非日常的な被災社会にとって、アートは現状を打破するために必要な興奮剤、あるいは一時の安らぎを与えてくれる精神安定剤として大きな影響力を持つことになるのだが……。
東日本大震災の発生以降、私は国内外の大規模災害被災地を訪れ、現地の防災構造物や伝承施設、復興記念施設やモニュメントなどを視察調査してきた。本稿ではその一部を紹介しつつ、調査活動から垣間見えてきた災害とアートの関係性について私見を述べるとともに、気仙沼市で現在進められている復興祈念公園整備事業におけるアーティスティックな試みについて紹介する。

はじめに



気仙沼市震災遺構 旧向洋高校(2011年11月)[筆者撮影]


東日本大震災の発生から9年が経過する。国主導による震災復興事業は2020年度内に完了することになっており、地域によっては2021年3月11日をその日として、声高に震災復興を宣言することになるのかもしれない。しかしながら、私が暮らす気仙沼市を例にすれば、同年度内に市内の道路地図を発行することも難しそうだ。復興完了などまだまだ先の話である。

被災した各市町村では災害伝承施設の設置や災害遺構の保存措置が急ピッチで進められている。気仙沼市の場合、同様の事業は昨年度で完了し、施設等はすでに公開されている。地元在住の専門家として、私はそれら施設の設置に深く関わってきた。

2013年4月、自館に「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示を設置した私は、それ以降、国内外の大規模災害被災地を訪れ、現地の防災構造物や伝承施設、復興記念施設やモニュメントなどを視察調査してきた。本稿ではその一部を紹介するとともに、同活動から垣間見えてきた災害とアートの関係性について私見を述べつつ、気仙沼市で現在進められている復興祈念公園整備事業の内容を紹介してみたいと思う。



気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(2019年3月)[筆者撮影]


災害文化とアート

大災害が発生した被災地で、災害の衝撃から人々が立ち直るまでの一定期間続く特有の活動、その一過性の活動と精神性の蓄積を社会学の分野では「災害文化」と呼ぶのだが、大規模災害被災地で行なわれる大小さまざま、多種多様な切り口のアートイベントは現代社会における災害文化の代表例かもしれない。

平常時ならば、生活必需品とは言えないアートが地域社会全体に影響を与えるほどの存在として重要視されることはまずない。しかしながら大災害等によって機能停止し、拠り所を見失って悲嘆に暮れる社会にとって、アートは現状を打破するために必要な興奮剤、あるいは一時の安らぎを与えてくれる鎮静剤、精神安定剤として大きな影響力を誇示することになる。

著名なタレントやミュージシャン、芸術家が集い、被災地に人を招き入れて経済を活性化させてくれるアートイベントは、被災という現実を一時的に忘れさせてくれる非常に魅力的なコンテンツである。しかし、非日常の延長上に生み出されたアート、アートイベントが日常を回復させる特効薬には成り得ないこと、常用できる薬ではないことを忘れてはならない。

文化的進化とアートの働き

地域文化を根本から変えてしまう程の大規模災害被災地では、日常の回復に長い時間を必要とする。10年どころではなく、20年、30年もの年月が費やされる。そのような場において求められるアートの働きは、一過性の興奮剤(鎮静剤)としての働きではなく、日常的な社会にあってその進化をサポートするものであるべきだ。投薬治療のような場当たり的なアプローチではなく、体質改善、ライフスタイルの改善といった根本的な変化をもたらすアートの働き、日常的な生活文化を再構築するためのアーティスティック(芸術的)なアプローチが必要なのである。

2011年2月22日、ニュージーランドで発生した地震を覚えているだろうか? 震源地近郊のクライストチャーチ市では住宅やビル、教会などが倒壊し、ニュータウンは大規模な液状化で泥に沈んだ。死者185名、内28名は日本人だった。

2015年4月に現地を訪れた私は、30年計画で復旧工事が行なわれているという街のいたるところで、さまざまに壁画が施された震災遺構を目にした。破壊された街に彩を添えるこの活動は、取り壊しを前提とする一過性の表現であり、モニュメントのような意味合いはないとのことだった。



ニュージーランド、クライストチャーチの震災遺構
左:トリックアート壁画 右:壁画が施された被災ビル(2015年4月)[筆者撮影]


三宮センター街などを例とするように、阪神淡路大震災(1995年1月17日に発生)によって被災した神戸市内には、さまざまなアート作品が設置されている。いわゆる復興を「祈念する」、あるいは「記念する」アート作品、モニュメントであり、それらの多くはパーマネントな作品として設置されている。

東日本大震災の被災地である宮城県石巻市ではリボーンアート・フェスティバルという大規模なアートイベントが2017年から継続開催されている。「アート、音楽、食を楽しむお祭り」とされており、地域内外から多くの観光客を集めている。

前述の3例は災害文化として非日常下で生み出されたアート作品、アートイベントなのだが、非日常から生み出された特殊なモノ(アート)は、日常が回復する過程で徐々に機能を失い、社会的使命が希薄化することになる。おそらく前述の3例も、そしてこれから生み出される東日本大震災関連のものについても、その社会的機能は時間の経過とともに失われていくはずである。しかしながら、時を経ても本来の機能を失うことなく日常に息づいている事例がないわけではない。

1950年代から現在に至るまで、広島市内ではテーマ性も表現様式も多種多様なアート作品、アーティスティックに表現されたモノが設置、公開され続けてきた。被爆体験を伝えるもの、反戦、反原子力利用を訴えるもの、慰霊を目的とするものなど、終戦以来、被爆者らを中心に絶え間なく継承されてきた平和を願う人々の意識は世代をこえて共有され、今日では既成概念として日常に定着している。ゆえに広島のアート作品は戦災復興期という災害文化の時期を過ぎた現在でも「無用のもの、過去の物」とは見なされず、社会的使命を保ったまま日常生活内に寄り添い息づいているのだろう。



広島市、平和記念公園内に立つ彫刻(2018年1月)[筆者撮影]



左:同彫刻拡大 右:同彫刻台座裏面の碑文(2018年1月)[筆者撮影]


災害伝承とアート


1993年、北海道南西沖地震津波の被害を受けた奥尻島には、高さ11m、総延長14㎞にも及ぶ津波防潮堤や、人工地盤なる大型構造物が建設されている。津波防潮堤の社会的使命は「津波の浸水を一時的にブロックすることで残存する住民の避難時間を1分1秒でも長く稼ぐこと」であるが、津波が発生しない限り機能することはなく、その佇まいはまるで巨大なアート作品のようだ。



奥尻島の人工地盤(2016年8月)[筆者撮影]



奥尻島の人工地盤(2016年8月)[筆者撮影]



奥尻島高さ11メートルの巨大防潮堤(2016年8月)[筆者撮影]


日常において異彩を放つ防災構造物を、例えば災害伝承を目的としてアーティスティックに利活用できるとすれば、これはなかなか面白い伝承装置になりそうな気がする。しかしそれらを管理する国土交通省などが、防災構造物の目的外使用を許可することはまずない。日常との接点を持たない防災構造物は、時の経過とともに無用の長物と見なされ、その存在意義も見失われていくことになるだろう。

「伝承」という言葉は、前世代からの伝統的文化遺産を次世代が引き継ぐこと、または継承されたその内容を意味する。文化的要素が世代を経て伝達されるためには、次世代における「日常的必要性」が前提とされるのだが、不定期あるいは長周期で発生する自然災害の場合、日常的必要性の持続は難しい。ゆえにその伝承行為も簡単なことではない。しかし広島市のように、「過去から未来へ記憶を橋渡しする者の責任、人の重要性」を意識させ続けることができれば、伝えるべき信念は日常に息づき、やがては世代をこえた文化として定着していくはずだ。

和歌山県広川町は安政元(1854)年11月5日の安政南海地震津波によって大きな被害を受けた地であり、地元実業家の濱口梧陵はまぐちごりょうが津波から村人を救った史実を基にする物語「稲むらの火」の舞台として知られる。小泉八雲によって芸術的に昇華された「物語」は今もこの地に息づいている。

濱口の私財と村民の手によって安政5(1858)年に完成した広村堤防(国指定史跡)は、その後幾度かの高波や津波から村を守ってきた。村民による定期的な補修作業は明治36(1903)年に津浪祭となり、現在では地元住民や地元小学校児童、中学校生徒が堤防に「土盛り」を行なうとともに、津波で亡くなった人々の慰霊と、堤防を築いた濱口梧陵らの遺徳を偲びつつ防災意識を共有する行事として毎年11月5日に開催されている。11月5日は2015年、国連において「世界津波の日」に制定された。



広村堤防(2019年2月)[筆者撮影]



稲むらの火の館 濱口梧陵記念館 津波防災教育センター(2019年2月)[筆者撮影]


津浪祭は災害伝承に不可欠な「日常的必要性、記憶を橋渡しする者の責任」を子供たちに意識させる伝統行事として文化的に定着した貴重な例である。

おわりに──気仙沼で行なわれていること


現在、気仙沼市では市単独の事業として復興祈念公園の整備が進められている。同事業は2020年度内の完成を目標とせず、必要な時間をかけて整備を進めることになっている。追悼・伝承・再生をテーマとする同公園設置計画では、公園整備と並行する形で伝承ワーキングチームが組織されており、現在、私はそこで座長を務めている。

「科学的事実をただ書き連ねただけの東日本大震災解説看板のようなものではなく、感性に訴えかけるアーティスティックな仕掛けが欲しい」との市長の想いを形にするべく、現在、市担当職員、公園設計者、彫刻家などとともに仮称「伝承オブジェ」の創造を進めている。具体的には、彫刻作品と短い文章を軸に、東日本大震災にまつわるさまざまなストーリーや感情を引き出すシステムの構築を試みているのだが、彫刻家にとっては非常に酷な仕事内容である。

作家とは、自分自身の創作意欲によって、自身の芸術的テーマを追求、表現するものである。しかし、本伝承オブジェプロジェクトにおいては、作家自身の芸術的テーマの追求ではなく、被災社会と被災者が未来に伝えようとするテーマを表現することに徹底していただいている。つまり、好きなようにつくることは許されない仕事なのである。

われわれが求めているものはアート作品ではなく、アーティスティックな表現である。著名作家の作品が欲しいのではなく、優れた作家の表現力を欲しているのである。「表現していただきたいのは被災者の想いであり、作家の想いではない」、普通ならばこんな注文を聞いてくれる作家はまずいないのだが、幸いなことに、ある作家の協力によって気仙沼市ではそれが実現されつつある。まだ数年かかる事業ではあるが、他に類似する事例がない独特な伝承活動が展開されるはずであり、是非とも心に留めておいていただきたい事業である。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館

住所:宮城県気仙沼市波路上瀬向9-1

稲むらの火の館 濱口梧陵記念館 津波防災教育センター

住所:和歌山県有田郡広川町広671