キュレーターズノート

パンデミックと……、建築と……、

中井康之(国立国際美術館)

2020年04月15日号

新年度をこのような危機的状況で迎えることを、誰が想像していたであろうか。私自身、前回の学芸員レポートを用意していた2020年の1月後半から2月10日頃まで、韓国の国立現代美術館の学芸員と交わしたメールを見直すと、中国武漢での新型ウィルス発生に対して韓国と日本は水際で防御できると双方とも認識していたことが確認できる。

その時期はすでに、クルーズ船ダイアモンドプリンセス号から1月25日に香港で下船した乗客が新型コロナウィルスに感染していたことが明らかになっていた時期だった。とはいえ、2月3日に横浜に入港した同クルーズ船から乗客を下船させずに船内で検疫を行なうといった対応によって、日本政府は国内にウィルスを持ち込ませない姿勢で臨んでいた、と思われた。

早期終了した「インポッシブル・アーキテクチャー」展



ウラジーミル・タトリン《第3インターナショナル記念塔》(1919-1920) [撮影:福永一夫]
手前模型:野口直人建築設計事務所、第3インターナショナル記念塔、模型(1/500)
奥CG画像:映像制作監督 長倉威彦、ウラジーミル・タトリン 第3インターナショナル記念塔

潮目が変わったのは、日本で初めての死者が出た2月13日頃からかもしれない。私は2月15日に設定していた「インポッシブル・アーキテクチャー」展(以下、IA展)での磯崎新氏と浅田彰氏の対談の最終調整に入っていた。国内のウィルス感染者からの初めての死者が出たという報道に対応するかたちで沖縄に在住している磯崎氏側から来阪中止の連絡を受けたのが14日の夕刻だった。急遽調整作業に入り、美術館内部スタッフの尽力により、辛くもスカイプを介して、美術館で登壇する浅田氏と沖縄の磯崎氏アトリエを繋いでの対談というかたちで実現する見込みがついたのである。磯崎氏側の来阪中止の判断は、新型コロナウィルスは特に高齢者は重篤化しやすいという中国武漢における症例から、88歳を迎えていた磯崎氏周囲のスタッフが心配してのことだった。

対談当日、二人の登壇を待つ会場にはおよそ150人の聴講者が待ち受けていた。その多くの者がマスク着用という通常とは違った雰囲気のなか、磯崎氏は映像をとおしての登場となったのである。二人の対談はIA展への批評をベースとしながら、パンデミック・シティという緊急事態に沿ったかたちで話が展開し、そのパンデミック・シティを題材とした作品、また、このような緊急事態になると都市は閉じられた管理空間となるが本来の都市は開かれた空間であるべきであるといった意見が交わされた。さらにまた、IA展関連での話題としては、60年代のメタボリズムは重厚長大であったが、現在のバイオテクノロジーを援用するようなかたちで展開すれば、また違った可能性を見出すこともあるのではないかなど、さまざまな問題について磯崎氏と浅田氏は意見を交わし、十分に会場を盛り上げてくれた。



左:浅田彰氏 右:磯崎新氏 [写真提供:国立国際美術館]

それ以降の流れをタイムライン的に記そう。2月17日から始まる次の週は、まだ移動を制限されるということもなく、私は金沢、東京、三重へ用務の為に移動を重ねた。2月24日のIA展関連の講演会は、辛くも実施することはできた。講演者のアイリーン・ソヌ氏はコロンビア大学の建築ギャラリー・ディレクターで、この頃はニューヨークとの往来が普通に行われていたことがわかる(その後、ニューヨーク州は3月22日にロックダウン[都市封鎖]が実施された)。

2月26日に安倍首相より多くの人々が集うイベントに対する自粛が要請され、また27日には、やはり安倍首相より学校の臨時休校の要請が表明された(新型コロナウィルス感染症対策本部にて)。それらの方針に沿うかのように、国立美術館の展覧会業務自体も28日で休止することが決定した。そのため、3月に来館を予定していた方々へのお知らせもできないままに、IA展は2月28日に実質的に終了した訳である。

当初予定していた展覧会終了日である3月15日を待って、展示作品や資料を撤収し、3月末までには海外も含めてほぼ返却も終了した(とはいうものの、実際には貨物便の運休や進路変更、さらにはニューヨークの空港まで作品を届けても美術館職員が空港まで出向くことができないなど、多くのトラブルがあった)。そして現在、国際美術館では、次に開催を予定している「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」展の準備が進んではいるものの、4月の第2週に入った現在、美術館の再開日程自体はまだ見とおせないままなのである。



黒川紀章《東京計画1961-Helix計画》(1961) [撮影:福永一夫]
手前模型:制作 黒川紀章・植野石膏模型製作所、東京計画1961-Helix計画、模型
奥CG画像:ピエール=ジャン・ジルー、見えない都市#パート1#メタボリズム(2015)



ザハ・ハディド・アーキテクツ+設計JV《新国立競技場》案(2013-2015) [撮影:福永一夫]
手前模型:設計JV 構造用風洞実験模型(1/300、2点とも)
奥CG画像:ザハ・ハディド・アーキテクツ

不条理が襲った都市のなかで


このような不条理な出来事に対する、何とも言えない喪失感を、およそ四半世紀前にも体験している。但し、東日本大震災とそれに伴った福島第一原子力発電所事故という激甚な災害がその間に起こったため、現代史の観点からは過去の出来事として歴史化されてしまったような感もあるのだが、西日本で1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災のときの記憶である。この時の喪失感というのは、準備していた個展の対象である作家本人がその震災で亡くなってしまったということも大きな理由ではあったが、それだけではない。阪神間一帯がまるで戦争にでもあったかのようにすべてが崩壊し尽くし、多くの尊い人命が失われると共に、貴重な文化遺産が毀損したのである。地球規模で見れば一地域の出来事ということになるのであろうが、6400人余りの死者数は決して少なくはないだろう。

但し、負の側面ばかりではない。その震災からボランティア活動が日本では実質的に始まったことを多くの者が記憶していると思うが、美術界では全国美術館会議が中心となって救出作業が大規模に実施されたのもこの震災のときであった。その行動は、現在では文化財レスキュー事業となって存続している。私が以前に在籍していた西宮市大谷記念美術館へも救助の手が差し伸べられた。それらの経験は、東日本大震災でも継承され、また、先頃の川崎市の洪水発生による川崎市市民ミュージアムの浸水被害への対応などにも繋がっているだろう。

しかしながら、今回のような疫病の世界的流行、いわゆるパンデミックに対して、現在の社会はそれこそ免疫を持っていない。20世紀後半以降の世界情勢は、資本主義経済制度を基本とした国家間の或いは異なる体制間に於ける競争原理主義が中心となって動いてきた。イスラム世界の動きやテロリストの動向も含まれるだろう。そのような既成の体制や組織は、今回のような国境を軽々と超え、かつ収束までに長い時間を要するような、パンデミックという事態に対して有効な対処法を用意していない。新型コロナウィルス対応のワクチンが開発されない限り、感染ウィルスの拡散を阻止する有効な手段としては、原始的な人々の移動や交流を寸断するような方法しかないようだ。

中国武漢で1月23日から76日間の都市封鎖が実施され、ある程度の効果が見られたという。中国のような全体主義国家だけがそのような強硬策をとることができるものと、当初私は考えたが、3月に入り、急激に感染の広まったイタリア北部の大都市でもその都市封鎖、ロックダウンが実施され、その後スペイン、フランス、ドイツなどの大都市、そして3月後半にはアメリカの多くの州でロックダウンが実施された。日本でも感染者数がある閾値を超えた時には実施される可能性は高いと言われているが、未だ実行されないのは経済的なダメージの大きさを考える政府の姑息な判断があるのだろうか。人の命と経済を秤に掛けているような……。

それでは他の欧米諸国は経済を考えずに人命尊重の立場から強攻策を取っているのかと問えば、そういうことでもないだろう。感染者数がある閾値を超えた時には、都市封鎖を行なうことによって生じる経済的損失の方が、オーバーシュート(感染爆発)を起こして都市生活が崩壊に向かうより、相対的には経済的損失が少なくなるという判断があるとも考えられるからである。(この文書を書いている4月6日現在、動勢としては日本でも明日、東京や大阪といった都市部に緊急事態宣言が発令されるようだ。)

パンデミック・シティをめぐる磯崎新氏と浅田彰氏の対話


このような事態を、文学や美術といった芸術作品がどのように描いてきたのかといった観点からであろうか、ペストによって都市封鎖された世界という「不条理」のなかでの人々の生きた方を描き出したカミュの『ペスト』(1947)が、にわかに注目を集めているようだ。ここまで記して、今更ながらに気づいたのであるが、我々は今まさに、カミュの描いた不条理な世界に生きることを強いられようとしている。但し、日本における今回の措置は、物流や交通手段は維持されているわけで、不完全なかたちではある。とはいえ、これまでの日常からは逸脱した状況になるという意味では「不条理」な世界を擬似的に体験することになるのかもしれない。



磯崎氏が用意したスライド [写真提供:国立国際美術館]

さて、先にも記してきたように、辛うじて実施することができた磯崎氏と浅田氏の対談の冒頭部でも、パンデミック・シティが話題となった。二人が最初に取り交わしたのは、「インポッシブル」展と称しながらも、本質的な意味でインポッシブルなものと実現可能であったけれども政治的思惑等で実体化しなかったものが混在してしまった、という展覧会の批評であった。そして、続けて、今回の対談で主体的に関わっていただくことを想定していた磯崎氏が、遠く南の島から発せられた電子データによって交信しなければならなくなった元凶であるパンデミックについての話が始まったのである。

磯崎氏は、パンデミックという言葉からは閉鎖都市というイメージが呼び起こされると発言し、トーマス・マン『ベニスに死す』(1912)、アルベルト・カミュ『ペスト』といった、二人のノーベル賞作家によってパンデミック・シティが描かれてきた意味を問うべきという最初の問い掛けがあった。そして、過去の建築家、例えばアンドレーア・パッラーディオは、ヴェネツィアで猛威を振るったペスト禍が収まったことを記念し、また神への感謝を込めてそのヴェネツィア内のジュデッカ島にレデントーレ教会を設計し完成させているという例が示された。16世紀に古典建築様式を復活させ、20世紀に至るまでその影響を残した建築家の代表作ともいえるような建築物が、ペスト禍が収まり、パンデミックが終結したことによって建てられたことの意味を考えれば、自ずとその解答は得られるはずだという問い掛けであった。

磯崎氏は、都市最大のテーマは、ユートピアを作り上げることではなく、パンデミックをどのようにコントロールするか、という問題であると説いたのだ。インポッシブルというテーマで建築を取り上げるならば、何に対して不可能であるのかを、問わなければならない、といった趣旨の発言も為された。

二人の対話は、前に示してきたように、この他にも興味が尽きないテーマがいくつも提出されたが、ここはそれを詳細に載録する場所ではないので、磯崎氏のパンデミックと建築との関係に関する重い問い掛けがあったことを記すまでに留めたい。


アントニオ・グテーレス国連事務総長が3月31日、新型コロナウィルスのパンデミックについて、世界にとって第2次世界大戦以来の「最大の試練」だと警告しているように、現在、地球上で活動している何者も経験したことのない状況に直面しようとしている。それはこれまで規範としていた基準が通用しなくなったということなのである。過去の世界を覗いた時に、記念碑的なモニュメントではなく、教会建築という人々が祈りを捧げ続ける場所を作り上げた建築家の存在を、二人の対談後、一ヵ月以上経ってから実感している。パッラーディオが生きた時代から5世紀ほど後の同じ地球に生存する我々が、パッラーディオ以上の新しい拠り所のような何ものかを残すことができるのか。その不可能性について考える日々なのである。

「インポッシブル・アーキテクチャー ─建築家たちの夢」展

会期:2020年1月7日(火)~ 2月28日(金) (新型コロナウィルス感染症の感染予防・拡散防止のため、2月29日(土)より臨時休館たため事実上2月28日で終了。当初は3月15日まで開催の予定だった)
会場:国立国際美術館(大阪府大阪市北区中之島4-2-55))
関連イベント(対談)
開催日:2020年 2月15日(土) 14:00~
講師:磯崎新(建築家)×浅田彰(批評家)
会場:国立国際美術館B1階 講堂
*同展のギャラリートークの記録をfacebookアカウントから発信しています。
https://www.facebook.com/nmaoJP/posts/3877240115627034

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