キュレーターズノート
境界を揺さぶる《元気炉》──入善町 下山芸術の森 発電所美術館「栗林隆展」
野中祐美子(金沢21世紀美術館)
2021年03月01日号
対象美術館
北アルプスを背景に広がる田園風景のなかに、1926年に建設されたレンガ造りの水力発電所を再生した「下山芸術の森 発電所美術館」がある。1995年4月のオープン以来、国内では珍しく発電所を改装した美術館として注目を集めたのはもちろんのこと、発電所の面影を残す特徴的な大空間を活かした展示は、多くの鑑賞者を魅了してきたし、何よりもこの空間に挑むアーティストの想像力と創造力を十分に刺激してきたことは間違いない。決して利便性のいい立地とは言えないが、この場所でしか味わえないアートに出会うために、筆者も幾度となくこの場所を訪れてきた。今回の栗林隆による個展は、開館25周年にふさわしい空間と場所を存分に活かし、且つ現代美術や美術館という枠組みを大いに逸脱、あるいは拡張した展示であった。
美術館の中のスチームサウナ
栗林が発表した新作は《元気炉》と名付けられたスチームサウナだ。
と、書いたそばからそれは美術作品のどのカテゴリーに位置付けたらいいのか実は迷っている。体験型インスタレーションというのが通常なのかもしれないが、どうもその言葉もしっくりこない。
タイトルからも推測できるかもしれないが、何よりも作品を目の当たりにしたら即座に原子炉との関係を想起させられる。元水力発電所の大空間が小さく見えるほど巨大な作品は、福島第一原発で使用されていたGE マークI型の原子炉を模した形状をとり、大量の木材で作られている。木でできているからかどこか暖かみのある造形物にも見え、不思議な感覚を覚えた。材料として残った木材は展示室の壁沿いに立てかけられ、足場が作品を取り囲み、まるでまだ建設途中かのような現場の雰囲気が残っている。
展示室と屋外との間を遮断する大扉が開放され、巨大な木造の建造物ともいえる作品に向かって屋外に置かれた釜から細い配管が渡されている。
実は筆者は今回の栗林の作品がどういうものであるのか何も知らずに、タオルと着替えを持参して行くよう知人から聞いただけで、いぶかしみながら現地へ向かったのである。
福島第一原発GE マークI型サウナ
《元気炉》は、高さ約6.5メートル、幅約8メートルにも及ぶ巨大なスチームサウナである。そもそも、美術館でスチームサウナが作品、というのは一体どういうことなのか。
美術館の展示室内に原子炉の形をした建造物が聳え立っており、脱衣所、回廊(原子炉の圧力抑制プールの部分)をとおって中心部のサウナに到達する。この作品を体験する来場者は、かつて巨大なタービンが設置されていた壁に開いた穴を利用した仮設の脱衣所で裸になり、用意された布を巻いてサウナへ向かう(水着持参の来場者もいるようである)。美術館での鑑賞に衣類を脱ぐという行為を促されること自体新しい体験であり、作品鑑賞というよりも温泉地に来たような気分にさえなっていた。しかし、ここは美術館。曲がりなりにも美術館学芸員の職に就いている筆者は、思わず職業病が出てしまい、この鑑賞方法は今後問題が続出するのではないか? といらぬ心配ばかり頭をよぎっていた。また、何事も経験だと思う反面、ある一定の羞恥心も抱きつつ、複雑な心境でサウナへと向かった。
回廊も外見と同じで木材でできており、木の香りとスチームから漂う薬草の香りとが混ざり合い、サウナに入る前から心地良い。サウナの中の檜の香りがさらに気分を高揚させてくれる。六角形の室内には椅子が用意され、そこに座ってサウナを体験する。屋外の釜で薬草を煎じ、そのアロマを含んだスチームが配管をとおってサウナ室に送られるシステム。室内は湯気で真っ白だが、そこにしばらく座ってみると、徐々に汗が出てきて薬草のエキスが身体に染み込んでいくのがわかる。次第に暑くて我慢できなくなるのだが、なんと床板を外すと水瓶があり、その水風呂に入って一気に身体を冷却して再びサウナを満喫することができるのだ。
そして、さらに驚くべきは天井である。室内の状況に慣れてくると天井には煙突の穴が続いていることに気が付く。煙突の内側に長方形の小さな鏡片が無数に貼りめぐらされ、その先端には青空が見える。この青空の写真は栗林が福島第一原発近くの海の中から撮影したものだそうだ。鏡にはその青空が反射しどこまでも続いているように見える。サウナ内のスチームの量が少ない時にはこの青空がはっきりと見えるのである。
原子炉の形状。福島の青空。冷却装置。
2011年3月11日以降の出来事がすぐに想起されるだろう。
自分で体験することから得ること
もう間もなく東日本大震災とそれに伴う原発事故から10年が経つ。これまで多くのアーティストが震災と原発事故を受け、作品制作に取り組んできた。栗林は原発事故よりも以前から仲間と共に原発への危険と反対を訴えるため、東北地方や日本海沿岸地域へ通っていたが、3.11以後は毎年福島へ通い、福島の人や海と接してきた。もともと、「境界」をテーマに自然と向き合ってきた栗林だが、この10年間はとりわけ原発問題を下敷きにした作品を精力的に制作し続けている。今回は作家も認めるとおり、ある意味、この10年間問い続けてきた栗林なりの回答とも言える作品ではないだろうか。
栗林のステートメントを彼のFacebookから確認することができる。
「我々が目で見ていることと体験することではまったく違う世界がある。情報に惑わされてはいけない。常識に囚われてはいけない。自分が体験したことだけが、自分の情報であり真実なのである」
栗林は、世の中の情報や常識に対して常に懐疑的である。例えば、福島から離れた土地で得ていた同地の情報と実際に自分の目で見て、対話して得られた情報や感覚とでは大きな隔たりがある違和感。メディアの情報しか受け取っていない大半の外部の人たちにとって、福島の状況はとても深刻でネガティブに映っていた。しかし、現地へ足を運び地元の人たちと会うなかで栗林が感じたことは正反対で、彼らは驚くほどポジティブでむしろ自分たちの方が元気をもらい続けていた、と言う。栗林はこの感覚を本作品で体現しようとする。
《元気炉》は、外から見たら明らかに原子炉を模し、さまざまなことを想起させ決していい印象を与えない。ところが、ひとたび中に入ってみると最初の印象とは裏腹に、サウナを体験することでスッキリとしたなんとも清々しい気持ちになる。外側と内側を体験することで生じるギャップ。これを鑑賞者に体験してもらいたかったのだろう。スチームサウナのあの体験はここでどれだけ言葉を尽くしても伝えきれるものではないが、中に入ると日頃の忙しさや悩み、雑念のようなものまで一切何も考えなくなり、ただ薬草の香りに癒され肌から放出する汗とそこに染み込むスチーム、なんとも言えない快楽と、身体が生まれ変わるような感覚を覚える。そして精神的にも穏やかな気持ちになる。美術館で衣類を脱ぐという信じられない行為にある程度の抵抗感や羞恥心もありながらサウナに入ったこともいつの間にか忘れ、心身ともに清々しい状態で外に出る。そこが美術館であることももはや関係なく、サウナから出てくる人々は皆、満面の笑顔で出てくるのである。これを栗林は「仕上がる」と表現する。仕上がった人々は、釜の中で煎じられているハーブティーを差し出される。サウナでほてった身体に北陸の厳しい寒さが心地よく、そこに温かいハーブティー。もう「最高!」と思わず声に出してしまう。
ステートメントには次のような一文もある。
「エネルギー問題を考えたとき、1番のエネルギーを発するものは何かと考えたとき、それは人間であり、人間の幸せなエネルギーと波動であり、喜びであることに辿り着いた」
栗林は、この心から自然に発する「最高!」という一言と笑顔が人間に最も必要なエネルギーであり、それをアートによってもたらすこと、それが一人のアーティストとして取り組むべき責務だと考えている。
また、身体性という観点も重要だろう。栗林のこれまでの作品を振り返ってみても、そこには人間の身体を包み込むような体験的なリアリティが基本にあった。栗林の作品が一貫しているのは、常に彼が自分の目で見て、自分の身体で感じたことしか信じていない、栗林自身の身体が起点にある、という点だ。さらに、その自らの身体を起点にしながら鑑賞者を作品へいざない固定概念に囚われがちな私たちの眼差しを解放させ、物事に対して新しい見方を提案する。本作品ほど体験した者とそうでない者との違いが出てしまう作品はない、と栗林も示唆するように、この《元気炉》は鑑賞者の体験とそれによって引き起こされる快感や喜びによって「稼働」する作品であり、体験、すなわち鑑賞者の身体無くして作品は成立しえないのである。
意識下の境界を揺さぶる
さらに、栗林が取り組んできた「境界」というテーマで本作品を見てみると、さまざまな「境界」が見え隠れしている。外と内、経験と非経験のみならず、美術館という制度の枠組みのなかで展示していることは注目すべき点であろう。通常、美術館では水や火、植物といった素材はタブーとされてきた。それでもさまざまな処置をすることで水や植物あたりは美術館でも近年多く見られるようになってきた。しかし、火は流石に難しい。さらに、鑑賞者が裸になる、飲み物を飲むといった行為も難しい、というより思いつかない。そう、「思いつかない」のである。私たちは制度やルールというあらゆる取り決めのなかで思考し行動していると、疑うことなくその範囲のなかで物事を完結させてしまう。それほど恐ろしいことはないと頭ではわかっていても、実際は気がついていないのである。
栗林は本展で規則と自由の境界を揺さぶり、私たちに新しい世界を見せてくれた。このような鑑賞体験があることや、そして鑑賞した後に自分に返ってくる出来事の大きさに今なお私は驚きと期待で満たされている。
美術作品というのは多かれ少なかれ、見る人に何らかの影響を与える。それは感動だったり、怒りだったり、驚きだったり。しかし、栗林はもう一歩先を見ている。あるラジオ番組
で彼は次のように述べている。「自分の作品をとおして、生活に変化を与えられるような、もう一歩先に進められるようなものを作りたい」と。今回のスチームサウナはその入り口のようなものかもしれない。鑑賞(体験)することで、無意識に健康(心の健康を含む)を促進させられる。このプラスアルファの要素を作品に組み込もうとしたのである。自身のアートへの考え方について聞かれ次のようにも語る。「物を作るというより、そのアートで社会に貢献していくような、コミュニティが作られるためにアートがあるべき」と。栗林にとってアートは人々の生活や考え方へ介入し未来へと向かう装置としての役割があるのではないだろうか。筆者は現代美術館と呼ばれる場所に身を置き、現代美術作品と呼ばれるものと向き合っている。前々回の論考で、現代美術館について「未来を考え、創造するための場」であると提示した。そして、結論部分ではクレア・ビショップの次の言説も引用した。
美術館とは「我々が、豊かで多様な歴史にアクセスすることや、現在に疑問を投げかけることや、そして異なる未来を実現することをできるようにする」場であり、そしてその未来を切り開くために現代という時代を「我々が集団的に感じ取り理解するために有効でありうるものが、現代美術館なのである」
現代を生きるアーティストに求められていることもまた然りである。つまり、アートとは、表現行為とは、未来に対して一歩踏み出し変化を与える行為である。栗林はそのことを十分に理解し、作品を発表し続けている。
アートワールドという世界が仮にあったとしよう。私たちはそれに依存しすぎてはいないか。栗林が今回発表した《元気炉》は、我々の知っている「アート」という領域を軽々と超えて、さらに先ヘと導いてくれる。まさに「未来を考え、創造するための場」が北アルプスを背景に広がる田園風景のなかで展開された。栗林のどの作品にも自然と人間との関係が見られるが、今回の作品はその場所性も極めて重要な要素のひとつだったように感じる。「自然から学び続ける」このことこそ、栗林にとって永遠のテーマであり、我々人類が忘れてはならないテーマであろう。自然と共存し未来を作る、栗林隆というアーティストの力に心を動かされた貴重な展覧会であった。
栗林隆展
会期:2020年11月21日(土)~2021年3月21日(日)
会場:入善町 下山芸術の森 発電所美術館(富山県下新川郡入善町下山364-1)
展覧会ウェブサイト:https://www.town.nyuzen.toyama.jp/gyosei/bijutsukan/3805.html