キュレーターズノート
「ど れ に し よ う か な 天 の 神 様 の 言 う と お り ・・・」 あるいは「作者の死」
中井康之(国立国際美術館)
2021年08月01日号
京都、八坂神社の周囲の夏木立の茂る、日本料理店などが並ぶ一角にあるeN artsで、「eeny, meeny, miny, moe | green」が開催されていた。同名の展覧会がこれまで3回企画され、それぞれred、orange、yellowといった色彩を示す言葉が付されていた。今回はgreenという季節に合った色(例えばred、yellowは秋だった)が選ばれ、作家はTHE COPY TRAVELERS(以下、TCT)が担った。
THE COPY TRAVELERSのグリーン
その展覧会のタイトル「イーニー、ミーニー、マイニー、モー」は、何かを選ぶときに子どもが使う言い回しである。日本語で例えるならば「どれにしようかな天の神様の言うとおり……」という言葉遊びに相当するものらしい。個人的な記憶をたどっても、子どもの頃、数え切れない程その言い回しを用いていた。いまでも変わりなく使われているのだろうか……。いずれにしても、この展覧会のタイトルは、その言い回しに色彩名を付けることによって、色から連想される作品、作家によって構成されている展覧会であるというニュアンスを表わす。ただし、今回の展覧会の色彩に対する作家選択に関してはTCTからの逆指名だったようだ。「グリーンならばわれわれでしょう」という発言があったという。しかしながら、彼らの過去作品を少し探っても、植物のような緑色の固有色を多数用いてきたという事実には当たらない。もう少し話を詳しく聞くと、グリーンはグリーンでも、合成撮影の為のグリーンバックの使用に繋げて、彼らは発言していたようだ。
現在も続いているパンデミック禍のなか、個人的なリモート会議からNHKの大河ドラマの撮影まで、動画ではあまねく合成画像が用いられていることだろう。その画像処理の為に有効に利用されているのが、このグリーンバックなるものなのである。とはいえ、TCTのコピササイズ(コピー+エクササイズ)という、コピー機上にランダムにオブジェを配置し、それをコピー(あるいはスキャニングして画像処理)することによって作品とする彼らが知られるきっかけとなった制作手法で生み出されるイメージは、あくまでも固定した画像であり、動画を想定している訳ではないだろう。しかしながら、今回の展示では、そのランダムにオブジェやピンナップを一定の枠内に差し挟み排除するという動作を動画で連続して撮影し、その背景には、国内外のショッピングセンター、車の行き交う街頭、車窓風景……といった、おそらく彼らが旅先等で撮りためた日常的光景が用意されていた。その映像作品《テーブルクロス引きの達人》は、展示順路の最後、暗渠化した地下の展示室の床に、ひっそりと映し出されていたのである。
関西のアート・コレクティヴが問い続ける「作者」という概念
TCTがユニットとして活動を始めたのは2014年である。彼らの存在を関西という同じ地域で活動していたにも拘わらず意識してこなかったのは、たまたま彼らの活動を見る機会に恵まれなかったからではあるが、あるいは無意識的に、交流もあるアート・コレクティヴであるcontact Gonzoや広く知られたChim↑Pomのようなハードコアなグループと比べて、TCTを同様な活動形態のアートグループとして認識し難かったという側面もあるかもしれない。もちろん、あとの事項は私の認識不足によるものであり、アート・コレクティヴに決まり切った行動様式がある筈もなく、既成の表現様式では収まらないからこそ、そのようなアンチモダンともいうべき様態によって、これまでとは異なる表現を試みてきた(と考えるべきだろう)。
振り返ってみると、関西は、アンチモダンを標榜したアート・コレクティヴの歴史が連綿として存在してきた。まず、1965年に神戸在住の若手作家9名によって結成されたグループ「位」を取り上げることができるだろう。彼らは芸術の作者が「個人である」ことに疑問を持ち、それを無化するために「非人称」という概念を導入して、1965年8月に岐阜市内で開かれた「アンデパンダン・アートフェスティバル」でメンバー全員が長良川河畔に巨大な穴を堀る作品《穴》を実行する。さらに同年11月、やはりメンバー全員で同じ絵画を描き、作者を入れ替えて発表した「非人称展」という展覧会を実施している。
彼らの行動を継承するかのように1968年から69年には、柏原えつとむ、小泉博夫、前川欣三という3人の作家によって「Mr. Xとは何か?」プロジェクトが実施された。架空の作者Mr. Xを仮構し、Mr. X氏からの指示を3名別々に実行した作品を持ち寄り、複数の展覧会にわたって発表していくという手法で、やはり「個人」という主体に対する徹底した懐疑がこのような制作行為を実行させたのであろう。
また、多少前後するが、関西を拠点にするアート・コレクティヴを代表するのは、1967年から活動する美術家集団「ザ・プレイ」だろう。同グループの参加者はその都度募集され、主要メンバーさえ流動的で、すべてに参加しているのは池水慶一のみである。しかしながら池水がザ・プレイを代表しているわけではない。ザ・プレイに関わったすべての者は、それぞれのタイミングでその役割を果たした。その流動性が「ザ・プレイ」を特徴付けている。1969年には京都の宇治川から大阪の中之島まで、発泡スチロール製の矢印型の筏で下った《現代美術の流れ》は、2011年には国際美術館での展覧会「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」への参加に合わせて、中之島から大阪湾に向けて実行された。また、翌2012年にはパリのセーヌ川でも実施されている。さらに、彼らのハプニング的行為のなかでも特によく知られている、1977から1986年の毎夏、奈良県南部の吉野から和歌山県南部から三重県南部にかけての熊野へと連なる大峰山系の北に位置する鷲峰山の頂に、丸太材を用いて1辺約20mの三角錐の塔を組み、「雷雲から天空のエネルギーをおびき出し……正三角錐の脳天に100万ボルトの電撃を炸裂させようと」(「《雷》参加者募集案内」より)した伝説的行為《雷》は、落雷が実際に落ちることがなかった事実も含め、すべてが幻のように見えてくるのである。
今回、TCTのメンバー加納俊輔に、匿名的な集合体としてのTCTと、個人として作家による発表との関係(バランス)を、どのように取っているのかといった趣旨の質問をした。加納は、匿名性のある集合体で発表することの自由度の高さをまず主張した。続けて、個人で行なうより無責任に、より幅広い表現に結びつける可能性についても語ってくれた。その回答は、ある部分では予想した面もあり、作者概念を認識しているであろう語り口に私は同意した。彼らの制作行為が一見、無統制的に見えながらも、確信的に典型的な「作者」の位置付けを放棄することにより、安定した制作行為を担保し続けているものと受け止めた。先に述べてきた、関西に於けるアンチモダンな制作行為は、逆の視点から見れば、芸術作品の「作者」という概念にとらわれ続けている行為であると解釈できる。それに対してTCTのコピササイズは、そのような概念に対して、無責任な位置を想定することによって、「作者」という概念から自由になったのである。
展覧会のタイトル「イーニー、ミーニー、マイニー、モー」は、TCTの制作行為に対して付けられたものではないが、これまで述べてきたことからも明らかなように、TCTの作品内容に対して相応しい命名になっているだろう。要するに、この言い回しは、作り手側と受け手側の立場までもが相対化されていることを表しているように捉えることができる。そのような観点に気づいた時、ロラン・バルトの著名な文書を示唆的なものとして取り上げることができるだろう。
「現代の書き手にとっては(略)、手はあらゆる声から解放され、純然たる記入の動作(表現の動作ではない)に運ばれて、起源をもたない場を描きだす」(ロラン・バルト「作者の死」『物語の構造分析』[花輪光訳、みすず書房、1979、85頁])と、「作者」の地位を相対的に低くしたうえで、バルトは同じ文章の後半に以下のように記している。「一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、(略)この多元性が収斂する場がある。(略)読者である。(略)読者の誕生は、「作者」の死によってあがなわなければならないのだ」(同前、88-89頁)
THE COPY TRAVELERS「eeny, meeny, miny, moe | green」
会期:2021年7月2日(金)~7月31日(土)
会場:eN arts(エン アーツ)(京都市東山区祇園町北側627円山公園内八坂神社北側)