キュレーターズノート

みんな、かつては版画家だった──教育版画運動と大田耕士旧蔵版画集から考える「私たち」の戦後美術史

町村悠香(町田市立国際版画美術館)

2021年12月01日号

一般的に「美術史」と言われるものが、果たしてどれだけ同時代の人の実感が伴うものなのか、自分がその時代に生きていたら見たり参加したりできるものだったのか、疑問に思うことがある。本当にこれは「私たち」の歴史なのだろうかと。近年、フェミニズムやジェンダーの視点から戦後の美術史を見直す動きが進み、女性作家の存在に光を当てることで主流とされてきた歴史を問う展覧会が数多く開催されている。こういった動きを見ていると、これ以外の視点からも「私たち」の側に引き寄せた戦後美術史があるのではと探りたくなる。


志賀中学校2年生5名《収穫》(1967、指導:前田良雄)

「私たち」と版画の接点

筆者は現在、勤務する町田市立国際版画美術館で開催する「彫刻刀が刻む戦後日本──2つの民衆版画運動」(2022年4月23日〜7月3日開催予定)の準備として、「教育版画運動」という民衆版画運動を調査している。この運動は日本で多くの人が図工や美術の授業で版画を作った経験と関わりがある。教育版画運動の調査を始めて以来、さまざまな出身地、世代の人に学校での版画の思い出について聞いている。すると、美術に関わる仕事をしている、いないにかかわらず、皆いろんな思い出を語ってくれる。話しを聞いているうちに、描いた絵の主題や、先生にかけられた言葉、絵を描くより版画のほうが好きだった気持ちや、嫌々授業でやらされていた思い出など、かなり細かく思い出していく人も少なくなかった。さらに朝鮮学校や、米軍基地内の学校に通っていた人も版画を作ったという広がりに驚かされた。(ちなみに筆者は記憶の限りでは、学校で版画を作ったことがない。こんなにも多くの人が参加したことがある営みに自分が加わっていないことに気付き、ひとり異文化に迷い込んだような気がして、さらに興味を掻き立てられた)

これまで、美術以外の仕事をしている初対面の人に版画美術館に勤めていることを伝えると、「版画って、子どものときに授業でやったアレね」と言われることが多く、学校で植え付けられた強いイメージから脱して版画の多様性を伝える難しさを感じてきた。ただ、こうして多くの人の話を聞いていくと、そもそも「版画」という美術の1ジャンルの存在を大衆に浸透させたのは学校教育に版画制作が取り入れられたからだと実感するようになった。

さて、このように日本では多くの人が学校で版画を作ったことがあるが(近年は図工・美術の時間数が減り、経験しない子どもも増えてきた)、じつはこれは世界的に見て珍しい事象だ。そのきっかけは1958年に改定され、1961年から実施された学習指導要領で、小学校全学年で「版画をつくる」という活動が推奨されたからだ。そして、義務教育に取り入れられる段階まで子どもの発達段階に応じたカリキュラムを整備する後押しをしたのが教育版画運動を主導した日本教育版画協会だった。1950年代は創造美育協会や新しい絵(画)の会など、民間教育団体による新しい美術教育の研究と普及活動が活発に行なわれており、日本教育版画協会はその代表に挙げられる。



機関誌『はんが』創刊の頃
大田耕士が教師と生徒双方に向けて編集し、1952年12月から1988年3月(412号)までほぼ月刊で発行した



左:第1回全国版画教育研究大会(長野県岡谷市、1954年8月2日〜4日)の様子。全国から約300人の教員が集まり、平塚運一、恩地孝四郎、武井武雄、関野凖一郎、山口進、上野誠、箕田源二郎ら版画家が指導(『はんが』No.19、1955年1月)
右:第4回全国版画教育研究大会(青森県十和田市、1958年6月2日〜4日)の研究授業の様子。現場の教員同士でも教え合い、ユニークな実践が発表されるようになる(『はんが』Vol.6 No.8、1958年8月)


同会の中心人物だった大田耕士は、戦前は小学校教員を務める傍ら、プロレタリア美術、風刺漫画に取り組み、リトグラフの風刺・風俗漫画雑誌『カリカレ』の創刊に携わった。大田は戦後も本名や変名を用いて風刺漫画に投稿。また1947年に日本で本格的に紹介された中国木刻の影響で盛り上がった1950年代の「戦後版画運動」にも積極的に参加した。この運動は平和を訴え、労働者や農民の現実を描き、彼らに版画を広めようとした。大田は運動を主導する「日本版画運動協会」の事務局を務めたのち、普及の対象を子どもにシフトしていく。創作版画運動を率いた平塚運一や恩地孝四郎らの協力を得て1951年に「日本教育版画協会」を設立し、学校教育のなかで版画を広めようとした。

大田が重要視したのは生活に根ざしたリアリズムだ。山形県山元村で無着成恭が行なった「生活綴方(作文)」の教育実践が『山びこ学校』として1951年に書籍で紹介され、映画化もされると、山奥の学校で行なわれた先進的な教育が広く知られていった。大田は「身の回りのことを観察し言葉にすることで社会や現実認識を深めていく」という生活綴り方の刺激を受け、「生活版画」と銘打ち版画でもそれを実践しようとした。自分の暮らし、父親の仕事や家庭のなかで働く母親、地域の生業に目を向けさせた。子どもも重要な働き手だった時代、働く人を通して社会を認識することには強い必然性があったのだ。

終戦後から1950年代半ばまではルポルタージュ絵画などリアリズム美術が一勢力を築いていたが、冷戦体制の確立とともに日本では美術の主流派から取り残されていく。版画が義務教育に取り入れられた際には、思想的背景が明示されたわけではない。だが大田を筆頭に日本教育版画協会に関わりユニークな版画教育を考案していった全国の教師は、リアリズム美術の系譜を受け継ぎ、子どもたちに伝えていった者が多い。名簿を見ると日本教育版画協会の会員は1970年には1245人を数えている。こうした美術観が教育現場では脈々と受け継がれていたことに注意を払うことは、教育史のみならず美術史を多面的にみることに寄与するのではないだろうか。

本稿で紹介する石川県の前田良雄、教育版画の指導者としてこれまで最も紹介されてきた青森県の坂本小九郎は生活リアリズムから指導を出発させた代表である。なお、坂本が八戸市湊中学校養護学級で指導した『虹の上をとぶ船』のうち1点は宮崎駿監督映画『魔女の宅急便』の劇中画にインスピレーションを与えた。宮崎は大田耕士の次女の夫で、教育版画運動に協力した。こういったエンタテインメントとの意外な接点も見逃せない。

志賀町の版画教育

新型コロナウイルスの影響も受けつつも、展覧会に向けた調査は少しずつ進んでいる。本展で紹介するなかでも重要なコレクションを持つのが、能登半島にある石川県羽咋郡志賀町だ。ここは版画教育が盛んな土地で、金沢駅から車で1時間ほどの距離にあり、稲作や名産の干し柿「ころ柿」の生産、漁業が盛んな土地だ。海岸沿いには原子力発電所もある。

志賀町で版画教育が盛んになったのは大田の薫陶を受け、志賀町の小中学校やクラブで版画を指導した教師・前田良雄の活動の賜物だ。筆者が昨年訪問した際に見た「こども版画50年のあゆみ 志賀町こども版画展」(主催:志賀町版画協会、会場:志賀町文化ホール、2020年11月21日〜23日)ではこの地の版画教育の流れがわかる作品約110点以上が展示されていた。



「こども版画50年のあゆみ 志賀町こども版画展」会場風景



「こども版画50年のあゆみ 志賀町こども版画展」会場風景


「50年」とあるが、実際には約70年の歴史を辿れる作品があった。私が展示を見ている間にも、町の多くの人が訪れて小中学校時代に自分や子どもが手がけた作品があるかどうか見ていた。老若男女が集まる様子から、ここが「版画のまち」であることを実感した。

前田良雄と『百姓に生えた子どもら』、『民話版画集 稲むかし』

93歳を迎えても自身の制作を続ける前田良雄氏に実際に会うこともできた。前田氏は1927年に石川県志賀町で生まれ、1948年に石川青年師範学校を卒業したあと、志賀町の小中学校の教員を務めた。1950年代に版画指導に熱を入れた多くの教員と同じく、前田も当初は担任のクラスで生活綴り方教育を始めた。無着成恭の『山びこ学校』の文集『炭焼き』で、子どもたちが作文だけでなく版画も載せたことが1951年に『美しい暮しの手帖』(現『暮しの手帖』)で紹介されると、大きな刺激を受け版画指導も始めるようになったという。



志賀町版画協会メンバー:左から森田真一、前田良雄、田端正敏(2020年11月撮影)
森田と田端は前田の小学校の教え子で、森田も志賀町の小学校教師として版画を指導した


初期に指導した『百姓に生えた子どもら』という版画集は、馬の世話の手伝い、田植えや稲刈りなど農作業、石切場で働く人や家の中で働く母親などが題材だ。生活綴り方と同様に子どもたちの身の回りのことに目を向けて描かせる生活版画の特徴がよく表われている。筆者は当初、タイトルを「はえた」と読んでしまっていたが、前田氏に「おえた」と読むのだと教えられた。人はみな生まれる場所を選ぶことはできないが、農家に生まれた宿命と現実を見つめ、暮らしから見えることを大切にしてほしいというメッセージが込められている。



左:志賀町加茂小学校4年生13名『版画集 百姓に生えた子どもら 第3集』(1956年)
右:同17名『版画集 百姓に生えた子どもら 第6集』(1957年)
ともに木版・謄写版、志賀町所蔵


1963年に指導した『稲(いな)むかし』では、題材が雨乞いの民話に展開している。子どもたちと一緒に近くのお年寄りを訪ね、土地に伝わる民話を話してもらい、それを作品にしていくのだ。口伝えで語られる物語を、視覚的なイメージに転換していくことで、子どもの想像力が発揮される。また描くためには歴史、昔の服や道具、植物の姿を本で調べる必要があるため、教科を横断した学びにつながるという。



志賀中学校2年生45名『稲むかし』木版・紙版・実物版、1963年、町田市立国際版画美術館蔵



志賀中学校2年生45名『稲むかし』木版・紙版・実物版、1963年、町田市立国際版画美術館蔵


この作品では、木版に加えて布や紙を版に使う「実物版(コラグラフ)」の技法を用いている。木版で多色刷りにするには見当を合わせるのが難しいが、実物版にすることで子どもでも多色刷りができ、また独特な質感を表現できるのだ。

当時は「日本民話の会」などが進める民話採集に注目が集まっている時期でもあり、前田が考案した民話版画集は、版画教育大会や機関紙、雑誌を通して、他地域の教員にも影響を与えていった。

全国の子どもたちが作った版画集・版画文集

志賀町ではこういった地元の教育版画のみならず、大田耕士の旧蔵品も約3,000点所蔵している。そこには各地の小中学校などで作られ大田のもとに送られた、版画集・版画文集500冊以上も含まれている。現在、筆者は協力者たちとともに1950年代から90年代までの教育版画の版画集の歴史がわかるこの貴重な作品群を調査している。



志賀町所蔵版画集の調査風景


1950年代初めの初期のものは生活版画の要素が強く、次第に民話、地域調べ、物語絵本、環境問題へとテーマが広がっていく。来年春の展覧会ではこのなかから約60冊・35都道府県程度の版画集を紹介し、教育版画の全国的な広がりを示す予定だ。さまざまな出身地の来館者に馴染みがある地名をみて、かつて自分が版画を作っていた記憶を呼び覚まし、さらに自分の体験が歴史的に位置付けられる機会をつくることができればと考えている。

力作揃いの版画集のページをめくっていくと、デザイン、装丁や造本にこだわった物も多く、また素朴であっても生徒や先生の美意識が反映されていることがわかる。奥付を見ると「紙を切った人」「ガリ版を刷った人」「紙を重ねた人」として生徒の名前が記されているものもあった。自分たちの彫った版画や作文が本の形にまとまり、完成品を手にしたときの子どもたちの喜びはいかばかりだっただろうか。それぞれの版画集が持つストーリーに想像を巡らせてしまう。

アートの民主化

本と美術の接続は近年、現代アートの文脈でも注目されている。2009年から開催されてきた「TOKYO ART BOOK FAIR」は手作りのZINEや、アートブック、アーティストブックなどが作者や販売者とコミュニケーションを取りながら購入できる場として、例年大勢の若者で賑わっている。

武蔵野美術大学 美術館・図書館で開催されていた「ART-BOOK: 絵画性と複製性——MAU M&L貴重書コレクション × Lubokの試み」は、監修者の高浜利也氏が「TOKYO ART BOOK FAIR」でアートブック、アーティストブックを手がけるドイツの出版社ルボーク・フェアラーグ(Lubok Verlag)に出会ったことが本展を開催するきっかけになったという。アトリウムにはルボーク・フェアラーグが発行するリノカットの本『Lubok』が置かれ、来館者も実際に手に取ることができた。壁面には主宰者のクリストフ・ルックへバーレの作品を展示し、印刷物のイメージが立体的に展開する、心掻き立てられる展示空間が広がっていた。また1階奥には同館所蔵のヨーロッパを中心とする貴重書も展示され、別室にはクリストフ・ルックへバーレの版画作品によるインスタレーションルームもあった。



「ART-BOOK: 絵画性と複製性——MAU M&L貴重書コレクション × Lubokの試み」展示風景[撮影:稲口俊太]



『Lubok』を実際に手にとって見ることができる[撮影:稲口俊太]


会社名にある「Lubok(ルボーク)」とは17世紀後半から19世紀にかけてのロシアの民衆版画のことである。「アートの民主化」を理念とするルボーク・フェアラーグは、誰もが手にすることができる印刷メディアを通して、オリジナルを手にしたときに感じる色、手触り、匂いに触れる喜びを人々の手に取り戻すことを目指しているという。

アートは誰ものものか、美術の歴史は「私たち」の手にあるのか。来年の「彫刻刀が刻む戦後日本」展では、子ども時代にはわれわれの多くが「版画家」であり、知らずに「アーティストブック」を作っていたことを思い出す機会をつくることで、まだ見ぬ戦後美術史の可能性を追っていきたい。


★──大田が中心となってほぼ月刊で発行されいたのは412号まで。それ以降は1992年11月まで季刊で発行され、最終号は430号。

彫刻刀が刻む戦後日本──2つの民衆版画運動──工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった

会期:2022年4月23日〜7月3日(予定)
会場:町田市立国際版画美術館
(東京都町田市原町田4-28-1)

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