キュレーターズノート
異なる視線をみる試み、あるいは協働と演劇の力学について──原田裕規「Unreal Ecology」
谷竜一(京都芸術センター)
2022年02月01日号
対象美術館
京都芸術センターでは、さまざまなアーティスト支援のプログラムを実施している。なかでもCo-programは、アーティストの主体的な創造に、京都芸術センターが全面的に協働して展開するプログラムであり、公演・展覧会・その他実験的なものなど、多種多様な事業が展開されている。
本稿ではこのCo-programの一例として、2021年度のカテゴリーB(展覧会事業)採択企画である原田裕規の展覧会「Unreal Ecology」をみていく。原田はまずはビジュアルアートの作家だといえるが、筆者の専門である演劇の観点から眺めることで、さまざまなジャンルが混交する京都芸術センターゆえに発見される、原田作品の魅力が垣間見えるのではないだろうか。
京都芸術センターのCo-program
京都芸術センターでは、Co-programという公募企画を実施している。これは、「異なるパラダイムの触発・融合・溶解の中から、新しく挑戦的な芸術文化を創造する」ことを目指し、創造の核となるアーティストや芸術団体との連携を強化し、その活動を支援することで、新たな価値を創造していくことを目的としている。
この公募は、事業形式によって募集カテゴリーが分かれており、カテゴリーAが演劇・ダンス・音楽・伝統芸能などの公演形式の事業、カテゴリーBが展覧会事業、カテゴリーCはこれらの枠にとらわれない実験的な形式となっている。カテゴリーA・B・Cについては、企画者と京都芸術センターの共同主催で実施する。カテゴリーDはいわゆる共催事業で、公演事業を対象とし、会場および付帯設備を提供する枠組みである。
カテゴリーA・B・Cの大きな特徴のひとつに、「アーティストや企画者が、京都芸術センターと協働してプランを実現すること」を打ち出している点がある。単にアーティストのプランを採択し、作品を展示上演するだけでなく、企画者の主体的な実施に京都芸術センターが多角的に関わり、内容や実施形式についても議論を深めながら、企画を展開している。また、制作費の一部を京都芸術センターが負担するほか、会場や付帯設備、場合によっては制作室も提供している。
このように、アーティスト支援としてみればかなり手厚いものになっているが、課題も少なくない。実際の実施にあたっては、京都芸術センターの施設特性や、京都という場所やシーンの性質について検討していくなかで、当初プランから内容を変化させざるを得ないことがほとんどである。
また、思い描く「共同」あるいは「協働」のありかたは、申請者のバックグラウンドによって大きく異なっている。展覧会事業では、企画単位で募集を行なっているが、アーティストが主体となる応募の場合、キュレーションやプロデュースを自身で行なったことがない応募者も多く、実際にはこうした部分を施設に求めていることも多い。あくまでアーティストの支援を旨とするため、企画実施におけるアーティストの主体性を盛り立てていきたい意向はあるものの、実際の分業についてはその都度議論をするほかない。そもそも少ない採択枠ではあるが、自己プロデュースが苦手なアーティストや、キュレーターやプロデューサーの助けを得られていない作品は、十分に取り上げることができていないのではないかという議論もある。
それから、これは公演事業においても同様だが、コンセプトメイキングや創作部分に施設がどこまで介入すべきかについては、非常に繊細な対応が求められる。そして、仮にアーティストが積極的に意見を受け入れようとしているとしても、作品に対して有効なアドバイスやフィードバックを返していくことは、簡単なことではない。
以上のような課題はあるとはいえ、資金面と発表会場、そして運営面でのスタッフによるサポートを備えたCo-programは、アーティストにとって、これまで挑戦が難しかったプランを実現する機会になっているとはいえるだろう。また、京都芸術センターにとっては、新たなアーティストや企画者、これまで取り組むことができなかったジャンルや手法との出会いの機会として機能している。そして、内部で働くスタッフにとってもまた、アーティストはもちろんのこと、彼ら彼女らが結び付けてくれた、異なる専門性を持つテクニカルスタッフ、キュレーターやマネージャーらとの協働から、多くの学びを得る機会になっている。
「Unreal Ecology」のなかのナレーション
2021年度のカテゴリーBでは、アーティストの原田裕規による個展企画を採択した。原田裕規は、現代の視覚文化をモチーフに、クリスチャン・ラッセン、心霊写真、CGなどに着目し、現代における「風景」が立ち上がるビューポイントを模索し、活動を展開するアーティストである。昨年(2021年)は、金沢21世紀美術館での個展「アペルト14 原田裕規『Waiting for』」で、33時間以上におよぶCGアニメーション/ナレーション・パフォーマンス作品《Waiting for》を発表し話題を呼んだが、新型コロナウィルスの影響による会期の短縮もあり、実際に作品をみることができた人はそう多くはないのではないだろうか。京都芸術センターでの個展「Unreal Ecology」でも、この《Waiting for》を含めた三つの作品を展開する。
《Waiting for》の映像は、ゲーム製作などに使用されるCGI(Computer-generated imagery)によって描かれている。「100万年前、あるいは100万年後の地球をイメージして生成された」という荒涼とした空間を、仮想のカメラがさまよう。
そこに流れるのは、地球上に現存するすべての動物の名前を読み上げる音声である。人間がいるとは到底思えない遥か遠い世界に読み上げられる動物たちの名前は、ノアの箱舟を連想させる。原田は、この動物の名前を自身で読み上げ収録している。何度かの中断をはさんだとは聞いているが、実時間で33時間超を実際に読み上げることを通じて、CGで描かれたこの人工的な風景とのなんらかの接点を見出そうとしている。この作品が単に「CGアニメーション作品」ではなく、「ナレーション・パフォーマンス作品」でもあるのは、このような原田の行為を含むからだ。
さて、私にとって原田のこの作品は、演劇の根源的な力学に支えられた作品でもあるように思われる。たとえば、この作品における「ナレーション」とはいったい何だろうか?
「narration」は、「順序立てて述べる」「物語る」といった意味を持つ「narrate」という動詞の名詞形である。《Waiting for》の場合、声の主は誰に向かってナレート(物語ろうと)しているのだろうか。この生成された荒涼な世界だろうか、あるいは鑑賞者だろうか。その対象者を確定することは難しい。
しかし、長時間の「ナレーション」を行なうことによって、目にはみえない原田自身に少なくない負荷がかかっていることは、容易に想像できる。原田の声のトーンが疲れてくることで、やがて鑑賞者にもその負荷が伝わってくる。この原田の「疲れ」への想像の余地が、茫洋とした世界と私たちとの、辛うじての接点であるようにも感じられる。この「接点」の持ち方は、演技あるいは演劇が持つ原理とダイレクトに接続している。多くの場合、演劇やダンスなどの舞台芸術は、パフォーマーと観客がともに時間を過ごすことを前提として構築されている。この「時間を共有している」という感覚自体が、一体感や共感を生み、またときには目の前で行為しているものへの違和感や批評を掻き立てる基盤となっている。
演劇やダンスにおいて、このような「時間の共有」を以て、アーティストが観客と共有あるいは分有しようとするものは、目にはみえない概念や、日常言語では十全に表現しえない感覚であったりする。観客は上演を観ながら、パフォーマーが、おそらく私たちと遠くない感覚を持つ人間であり、同じように時間を経ていつつも、同時に異なる世界にアクセスする様を垣間見る。このとき、パフォーマーは、単なる感情移入の対象であるというよりはむしろ、観客の身体性や視座と、日常とは異なる世界観を結ぶ、依り代として存在している。
《Waiting for》においてもまた、先述のように原田の「パフォーマンス」が依り代となることで、CGIによって生成された「エコロジー(生態系)」へと接続することが試みられている。33時間という物理的にも心情的にも付き合いきれない「ナレーション(物語り)」の長さは、眼前に生成された世界の果てしない冗長さを示唆している。そして、この長大な時間を経ることによる、原田の徒労とも思える「パフォーマンス」に垣間見える「疲れ」は、まさに彼が(鑑賞者とおなじく)人間であることをそれとなく意識させ、私たちを作品世界に繋ぎとめる。
さて、《Waiting for》という作品のタイトルからは、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら(英題:“Waiting for Godot”)』を想起しないわけにはいかない。『ゴドーを待ちながら』が、いつまで経っても来ない「ゴドー」を二人の男(ウラジミールとエストラゴン)が待っているという、ほとんど展開のない二幕劇であることは周知のことだろう。これを念頭におくと、それでは原田の《Waiting for》では、誰を待っているのだろうか? と考えてしまう。延々と終わらない画面に直面しながら、鑑賞者は茫漠と広がる《Waiting for》というゲームのプレイヤーになったような感覚に陥る。
この展示は、CG空間へアクセスしようとする原田の行為(プレイ)のリプレイ(追体験)でもあるといえるだろう。視点人物である自動再生のプレイヤーは、生成された空間をさまよいながら、特段に何も進展のない「物語り」の終わりを待っているともいえるのではないか。そして、このリプレイに付き合う鑑賞者にとって、その「終わり」は(一般的な鑑賞の時間においては)ほとんど来ないくらいに遠い。そのように考えると、この一見スタティックなインスタレーションを、きわめて演劇的なものとみることもできる。
異なるパラダイムの触発・融合・溶解
京都芸術センターでは展覧会のほかにも、演劇やダンス、音楽、伝統芸能といったパフォーマンスの上演もなされている。また、京都芸術センターの展示において、単に「パフォーマティブなもの」に関連するものを挙げれば、枚挙に暇がない
。さまざまなジャンルが隣接し活動しているがゆえに、たとえば美術の作品にダンサーに出演してもらうというような、いわゆる「コラボレーション」も頻繁に起こる。しかし、Co-programにも謳われている「異なるパラダイムの触発・融合・溶解」というのは、そのようなことだけには留まらないのではないだろうか。今回のCo-programの採択と協働を通じて、私は原田の「風景」への探求にふれ、思いがけずそこに演劇的な魅力を味わっている。
単に新たなジャンルを開拓しようとするというよりはむしろ、個々のアーティストの飽くなき注視と探求が、時には異なるジャンルからの視線を思わず引きつけ、結果、異なるジャンルの美学や力学、魅力を導入していることが発見される
。そのような混交もまた、京都芸術センターでは生まれているのではないだろうか。《One Million Seeings》での見る時間
「Unreal Ecology」に出展される、別の作品をみてみよう。
《One Million Seeings》は、原田が収集した「行き場のない写真」を見届ける様子を記録した映像作品である。 映像の出演者は、「写真との関係性が結ばれるまで見る」というレギュレーションのもと、自身と写真の間になんらかの関係性を見出そうとしている。カメラは写真にフォーカスしているが、画面には写真を持つ手も同時に写りこんでおり、「誰かがこの写真を見ている」という状態を、鑑賞者は観ることになる。
何気ない、出自不明の写真を、それを持つ手の主が保持する限り、じっと眺め続ける。そのときの観ることの停滞感は、たとえば、友人とともにマンガを読んでいるとき、一向に彼がページをめくらず読み進められない、あのもどかしさに似ている。そんな感覚を抱きながら、画面のなかの手の主が持つ写真を眺めていると、次第に、この写真にはなにか、自分には読み取りようのない重要なことが写っているのではないか? という気がしてくる。一体、この手の主の視線は、この写真のなにを見ているのだろうか。それこそ心霊写真のような、見えるはずのないなにかが写真のなかにみえるのだろうか。そのように疑問がうつり、私たちの視線が写真のなかの別のなにかを探しはじめたころに、不意に、写真は観終えられてしまう。そして画面に映る手は、次の写真を手に取る。視線の主が「写真との関係性が結ばれるまで見る」ことができたのとは裏腹に、観覧者が「視線しかない人物」と「写真」のあいだに関係を取り結ぼうという試みは、あえなく失敗に終わる。その、不意に「(ある時間が)終わる」ということが、この静かな作品のなかで、かすかに劇的な印象を鑑賞者に与える。
《Waiting for》と同様に長大な上映時間を持つこの作品には、こうした小さな、そして数多くの、手の主と写真との関係の終わりが刻まれている。この作品を真剣に観ようとすればするほど、鑑賞者は、膨大な数の「終わり」をみることになる。そしておそらく、この「視線しかない人物」の観ることの「終わり」について、得心したり、納得したりすることは、一度たりともできないだろう。そう考えると、さきほど大きな「終わり」をぼんやりと待っていた《Waiting for》においても、その長大な上映時間のなかに、小さな終わりが無数に存在することに気付く。ひとつの動物の名前を呼ぶと、「物語り」の終わりまで、その動物は二度と現われないのだ。
原田は両作品を通じて、人間には把握しきれないような、果てしない時間に視線を向けている。その視線を共有することの困難は、映像を用いたインスタレーション、あるいは上映という形式のなかで、あらわになる。第一に、それは演者と観客の距離として。そして次に、眼差しを向ける写真やCGといった、画像が持つ時間と、私たちの生きる時間との隔たりとして。
しかし同時に、原田の作品は、ある一定時間なんとなく観てしまう魅力も湛えている。それはたとえば、海辺に腰かけて波打ち際を眺めるような、人の操作の及ばないものを観る感覚にも似ている。観ることの共有の困難とともに、単にぼうっと眺めてしまうことの尊さや、ただ見ることの遊びとしての愉しさを、私たちは作品に向き合いながら思い出す。
本展にはもう一点、諏訪湖で撮影された新作映像《湖に見せる絵(諏訪湖)》が出展される。実は、Co-program採択当初のプランでは、《Waiting for》と《One Million Seeings》の二つの作品を軸に構成する予定だった。原田は京都芸術センタースタッフとの対話を進めるなかで、かねてから原田に構想のあったアイデアを実現できる可能性を感じたようで、新作を含む三点を展示することとなった。新作は、これを執筆する今現在、まさに制作中にあるので多くの言及は避けるが、やはりこの作品においても、原田の関与しようのない「時間」に接点を持とうとする、パフォーマティブな試みがみられるだろう。
原田の試行をみていると、なんとなく演劇やダンスの稽古を思い返したりもする。そこでは、確たる正解があるのかも疑わしいなかで、パフォーマーが同じセリフや動きを反復している。果てしない試行が、思いもよらない何かを表出させることを期待して、パフォーマンスは投げ出され、繰り返し試みられる。その試みの多くは、簡単に共有できるものでもなければ、容易に成功するものでもないだろう。
しかし、あらぬ方向に向けてまっすぐな、あるいは紆余曲折するアーティストたちの視線に、私たちの「観ること」の楽しみは支えられている。反転して言うならば、私たちはともによく観ることで、アーティストの試みを支えている。そして、その視線は時々交錯し、混交され、新たな時間を生むこともある。
原田裕規「Unreal Ecology」
会期:2022年1月29日(土)〜2022年2月27日(日)
会場:京都芸術センター ギャラリー北・南・和室「明倫」
(京都府京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2)
特設サイト:https://haradayuki.com/unreal-ecology/