キュレーターズノート
“自己満足”が人の生にもたらすもの:「誰も知らない」展の準備のさなかで/開館20周年に向けて
坂本顕子(熊本市現代美術館)
2022年06月15日号
対象美術館
「誰も知らない驚きの表現をしている人を探しています」。4月の半ばにこんな募集記事を美術館のSNSに流してみた。そもそも「誰も知らない」とは? また、「驚きの表現」の「驚く」とは一体何のことか? と募集する側も少々悩みつつも、このようなハードルの低い、ゆるやかな問いかけに対して、ありがたいことに熊本を中心に九州から30件以上の情報が寄せられた。
思わぬ表現をする人が、実は近くにいるのかもしれない
この募集記事は、2022年の11月に熊本市現代美術館のギャラリーⅢで実施予定の小企画展「誰も知らない」の作品調査の一環として掲載したものである。このギャラリーⅢは開館以来、学芸員が九州・熊本の作家を紹介していくスペースとして運営され、同展で147回目となる。開館20周年を迎える今回、自分たちの調査フィールドをさらに広げ、まだ「知らない」表現者との出会いを探るため、このように広く一般からの情報を募ることとした。
実は、この企画を立ち上げたのは、熊本市に住む田口Bossというひとりの画家との出会いがきっかけだった。美術館に勤務していると、日々、作品の持ち込みに対応する機会がある。その多くはポートフォリオ、最近はホームページなどが多いが、親族の紹介で訪れたBossの場合は「家にはほかにも同じようなのがどれだけでもあるから」と大きいものでは全紙サイズを含む、100枚を超える細密な色鉛筆画を持参してきた。本人は明るく快活で若々しい印象だが、驚くことに今年で77歳になる。熊本地震の被害のため、それまで経営していたヨーロッパのおもちゃ店を人に譲って以降、自宅の一室をアトリエにして、来る日も来る日も、色鉛筆画の制作に打ち込んでいるらしい。そしてこれまで、家族や限られた知り合い以外、ほとんど人に見せることはなかったという。「こんな人が世の中にいたのか」というのが新鮮な驚きだった。それと同時に「自分たちが知らないだけで、こんな人が実は身近にいるのかもしれない」と感じたのが企画の始まりである。
誰に向けるでもない、自分のためだけの絵
Bossの1日は作品制作がその中心に据えられている。朝、家事を済ますとすぐに2時間の制作に入る。夫がつくるお昼ご飯を食べると、また夕方まで引き続き3時間集中する。終わる頃には手が痛くて、鉛筆を持った形に固まってしまうほどだと言う。散歩などの運動をして、残りの家事をすると、あっという間に1日が終わる。描かれるモチーフも独特だ。モノトーンのペン画や、水彩画を試みた時期もあるが、そのほとんどは色鉛筆画である。日本製にはない独特のキッチュな色調のリーズナブルな色鉛筆が気に入ってからは、細胞のようなモチーフを繰り返し描いてきた。新型コロナウイルスの流行が始まってからは、ウイルスを擬人化したようなモチーフが顔を出し、ロシアのウクライナ侵攻が始まると平和や永遠をイメージした丸型モチーフが次第に増えてきた。
Bossというペンネームもなかなかユニークだ。その由来は、長年幼児教育に携わってきたプレイリーダーとしての名前にあるのだと言う。自宅を訪問すると、綺麗に整頓された画材の横に、読み込まれたモンテッソーリなどの児童教育書が、まるで大学の研究室のように並んでいる。かつて主宰していたあそびのアトリエを紹介する冊子の表紙には「ゆっくり・しっかり・まちがってもよい」とある。Bossが夫とともに打ち込んできた幼児教育家としての哲学が、この言葉に象徴されているように感じられた。
熊本地震がそのきっかけになったが、Bossは「絵を描くこと」に集中し始めた。「やっと自由が手に入った」「絵を描くなんて、こんな面白いことやめられるわけがない」と、Bossはそれまで、子どもやその親たちに注いできたエネルギーを、すべて自分のために使うことにした。「生活していくだけの最低限のお金があったら、あとは死ぬまで絵を描いて暮らす」と決めたという。誰かのためではなく、また誰に見せるわけでもない、自分のためだけの絵。人生の終わりを意識するからこそ、絵に全集中を続けるBossの内なる冒険はまだまだ続いていく。
ほぼ毎日、ひとりで巨大壁画を描く
この募集を始めてから間もなく、隣県の大分県佐伯市から連絡があった。送られてきた情報によると、河川敷の壁面に、高さ4メートル80センチ、長さ180メートルに渡り、谷川広人という画家がたったひとりで《佐伯竜宮図》なる壁画を描いているという。そして、それほど巨大であるにもかかわらず、ほとんど「誰も知らない」という。これは実物を見てみなければと思い、佐伯まで車を走らせてみることにした。壁画のある場所は、大分県の山間部から佐伯湾に向かって流れる番匠川の河口付近。Google Mapsにはかろうじて記載があるものの、それ以外に特に看板のようなものがあるわけではない。かつては軍港として栄えたという佐伯湾一帯には、いまも大型船やフェリーが行き来している。干潮時には一面に干潟が広がっており、水遊びに来た何組かの家族連れや、散歩や釣りに行く人の姿はあるが、壁画を目的に河川敷に来ている様子でもなく、あくまで日常の風景の一端に過ぎないようだ。
《佐伯竜宮図》は、かつて海亀が産卵に訪れたという番匠川と佐伯湾の水が混じり合う汽水域で、浦島伝説をモチーフに、タイやトビウオやイセエビ、カサゴにリュウグウノツカイといった海水魚、アユやナマズやヤマメといった淡水魚、ホタルやサギ、カワセミに、果てはペットの猫まで、30種類以上の佐伯という土地の山と海に生きる多様な生きものたちの姿が生き生きと描かれている。そもそも、谷川はいわゆる「画家」としては、大分で知られる存在である。70年代に独学で油絵を始め、県美展などで入選を重ねたものの、制作と家業の土木業との両立に悩み、筆を折った。その後、約20年にわたって制作から遠ざかっていたが、ある日を境に「ここで絵を描かないと一生後悔する」との思いから、再び描き始めるようになったという。別府現代絵画展やアジアビエンナーレ、英展など九州の主要なコンテストに多数入選、個展も開いているキャリアの持ち主が、いまは「誰も知らない」壁画にその画家人生を捧げている。
谷川は、この4年間、しばらく中断した時期を除き、雨の日以外はほぼ毎日この河川敷に来て《佐伯竜宮図》を描き続けているという。壁画と言っても、描くための支持体となる堤防には傾斜があり、ブロックでデコボコなうえに、積年の汚れが溜まり草まで生えている。キャンバスとは違い、絵を描き始める前には、国土交通省に許可を取ったり、ブロックを掃除して草を取り、下地を3度塗りするなどの現実的な手続きがある。行政などに頼まれたり、何か支援を受けたりするわけでもなく、塗料代もすべて自前で、作業も基本的にはすべてひとりで行なっている。しかし、山の斜面のような傾斜でかつデコボコした表面に、前傾姿勢を続けながら絵を描き続けるのは並大抵のことではない。しかも遮るものが何もない河川敷には直射日光が当たり、サングラスなしでは立っていられないほどだ。画面の紫外線による劣化を防ぐために、油性ウレタン塗料の上からクリアで保護している。しかも、開始から180メートルの地点まで描き進んできているが、時間が経つと初めの部分から草が生え始めるので、手入れが必要になる。そして、ブロック壁面に描く技術が向上し、ドローンで全体図を確認できるようになった現在では、出だしの部分のタッチが気に入らず、その部分を描き直し始めているという。
現地を訪問するまでは、なぜこんな無為にも近い行為を続けるのか、その意味についてまったく見当がつかなかった。けれども、番匠川の河口に立って、川面を吹き抜ける潮の香りの混じった風を感じると、画家は絵を描くために河川敷に通っているのではなく、この風景の中に佇んでいたくて、その手段として絵を描いているだけなのかもしれない。そして、つい「まだこれからも描くんですか?」という問いを発してしまった。その答えは、「もし描ける壁があるのなら、まだまだ描きたい」「描けば描くほどイメージがわいてくるし、発想が浮かんでくる」。田口Bossもそうだったし、先般、熊本で巡回展を行なった塔本シスコもそうだった。同じ答えをまたここでも聞くことになった。この人並外れた「自己満足力」、これこそが、私たちがいま、失いかけているものであり、人間の生に幸せをもたらすもののような気がしてならない。
G3-Vol.147「誰も知らない──ひそやかな表現者たち」(仮)
会期:2022年11月2日(水)~2023年1月15日(日)※予定
会場:熊本市現代美術館 ギャラリーⅢ(熊本県熊本市中央区上通町2-3)
※公式サイトは後日公開
熊本市現代美術館開館20周年クラウドファンディング
新館長による「御用聞き」
早いもので、本年10月12日をもって熊本市現代美術館は開館20周年を迎える。昨年度、田中幸人、南嶌宏、桜井武に続き、4代目の館長(非常勤)にアーティストの日比野克彦を迎えて以来、当館は新たなチャレンジを続けている。そのユニークな取り組みのひとつが「御用聞き」。東京藝術大学学長、岐阜県美術館館長(非常勤)と多忙をきわめる日比野だが、来熊時にさまざまな用務の合間に、熊本市役所のなかの市街地整備課や都市デザイン課、政策企画課、公園課、環境政策課、商業金融課、国際課、青少年教育課といった、一見およそ美術と関係なさそうな課へと出かけていき、「ウォーカブル推進都市」「フェアトレード」「総合計画」などさまざまなテーマについて職員の話に耳を傾け、アーティストとしての立場から情報収集をしたり、コメントをしていくというものだ。これらは基本的に「言いっぱなし/聞きっぱなし」で、何かすべてがすぐに具体的なアクションや解決につながるわけではない。ただ、対話を重ねることで、自らの固定化した考えに気づかされたり、アーティストという自由な立場からヒントを得たり、まったく普段交わることのないところから始まる関係性を育んでいくことに主眼がある。
そして、例えばこれらの「御用聞き」などの対話を行なうオープンなスペースを館内に開こうとリノベーションを計画しているのが「アートラボマーケット」である。日比野が館長に就任して、最初に関心を示したのが、ミュージアムショップであり、熊本地震とコロナのダブルパンチにより長らくテナント不在が続いていたカフェ跡地の利活用であった。日比野が描いたイメージスケッチを基に、ショップとカフェを改装し「アートラボマーケット」と名付けた、創作とコミュニケーションのためのスペースをオープンさせる。また、可動式のテーブルや椅子などを新たにデザインし、経年劣化が著しい美術図書室の家具として使用する計画を立てている。
「まち」に開かれた美術館を続けていくために
筆者も準備室時代からこの館に勤務し、20年が過ぎた。これまでメディアギャラリーを子育てひろばに、キッズサロンをアートスカイギャラリーへと小規模な改装は行なってきたが、今回は初の中規模の改修に着手することになる。思えば、2007年に日比野館長の個展「HIGO BY HIBINO」では、美術館を「まち」へと開いていくために、さまざまなプロジェクトを行なった。そこで生まれたつながりは、現在も脈々と生きており、これだけ「まち」と近い存在の美術館はほかにないのではないかというささやかな自負も生まれた。
そして、これからさらに20年、30年という時間を、多くの方々と積み重ねていくために、熊本市現代美術館は今回初めてクラウドファンディングにチャレンジすることにした。当然ながら不安も多いのが正直なところだが、ぜひ多くの皆様のご支援を賜りたく、心からお願いする次第である。