キュレーターズノート

故郷での展示から始まる新たな探求──塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記

坂本顕子(熊本市現代美術館)

2022年04月01日号

世田谷美術館で昨年秋に立ち上がり、今年2月5日から当館でスタートした塔本シスコ展も、間もなく4月10日で会期が終了し、岐阜県美術館、滋賀県立美術館へと巡回する。熊本はシスコの生まれ故郷であることから、会期中も地元を中心にさまざまな情報が日々寄せられ、それらの調査や裏付け作業を会期中、継続的に行なってきた。ここでその一端をご紹介したい。

フミ上げ漁

今年の仕事始めは1月4日。大潮の昼すぎ、不知火海の堤防で、フミ上げ漁を行なう漁師、俵さんの船を待っていた。風が強かったものの晴天に恵まれ、陽光にきらめく波の美しさに見とれていると、ポイントとなる漁場に船がやってくる。漁は俵さんひとりで行なう。船を係留すると、すぐに間に網を張った2本の杭を海面に向けて伸ばして扇形に広げ、杭の根元を固定した。5分ほど経った頃だろうか、おもむろに杭の根元を何度かゆすり、全身を使って、杭を押し下げる。そうすると、テコの原理で網が上に上がってくるという仕組みだ。網の中にはキラキラとした、ごく小さな魚のようなものが見える。それをタモで掬い上げると、また網を海中に沈め、5〜10分おきにその動作をひたすら繰り返す。魚が入ってくるのをただ待つだけの漁では決してない。かなりの重労働である。


不知火海で行われるフミ上げ漁


塔本シスコ 《ふるさとの海》(1992/熊本市現代美術館蔵)に描かれた漁の様子(部分)


この漁は、塔本シスコの《ふるさとの海》のなかで、シスコの父・伝八と弟の正月が行なう漁として描かれていたが、具体的にどのような漁であったかは、これまで調査が行き届いていなかった。しかし、今回宇城市不知火美術館の協力を得て、漁師さんをご紹介いただき、漁の様子を動画で撮影することができた。作品と現在の漁の様子を比べてみると、漁の形式自体は大きく変わってはいない。けれども、時代の変遷により、いくつかの変化が認められる。

ひとつは漁をする場所である。シスコは「満潮になると アミが大野川へ上ってくる。それをおって 色々な魚が来る」と語っているが、現在は土砂堆積により川底が浅くなり、漁はより海側で行なわれている。また、本作はシスコが20歳頃の昭和初期の風景を、60年後の平成初期に思い出して描いたものだが、当時は木製の小型の船だったものが現在ではエンジン付きに変化している。そして一番の違いは、これほど多くの魚が獲れなくなったことであろう。船さえ出せばすぐに魚が獲れ、それが家族の食事になった。この魚を食べて兄弟9人が育ったという。漁の後に、俵さんに獲れた魚を見せてもらった。シスコが描いているアミ、白魚、白エビ、鯛などが獲れ、これらは熊本市内の市場に出荷されている。

本展では、「塔本シスコ展におけるデジタル・コンテンツを用いた鑑賞活動」として美術館連絡協議会の助成を受け、フミ上げ漁の動画や制作時のホームビデオに字幕をつけた動画を制作した。併せて、シスコ作品の裏側に注目してアーカイブした「シスコの裏側美術館」(展覧会情報の下にコーナーとして掲載)や、熊本市教育委員会などと連携した不登校などの子どもたちを対象にしたオンライン中継でも動画を活用し、漁の様子やシスコが描いた世界を追体験してもらうことにした。



塔本シスコ「ふるさとの海」紹介動画


シスコが描く乗り物

シスコがふるさとを描くとき、よく蒸気機関車が登場する。本展の出品作では《ふるさとの海》《ふるさとの海 不知火海 潮まねきカニ》や《ウマイレガワ》《古里の家》のほか、大阪に移住当初に住んだ枚方市長尾駅周辺の《長尾の田植風景》においても大きなひまわりの奥に蒸気機関車が走っている。シスコにとって蒸気機関車は、楽しかったふるさとの記憶のなかに自分を運んでいってくれる象徴としての乗り物だったのだろうか。

シスコが見ていた蒸気機関車はどんな形だったのか探ってみようと、展覧会の関連イベントとして「旧鹿児島本線を走る蒸気機関車の写真」をSNS上で募集した。驚くべきことに開始7分で、八代の著名な鉄道マニア、故小澤年満さんのご家族を紹介いただいた。小澤さんは八代で小学校の教師として勤めるかたわら、鉄道写真の撮影や収集、研究などを長年にわたって行なわれてきた方である。ついには蒸気機関車を個人で購入し、最終的に大井川鉄道に寄贈し、それが現在走行しているという鉄道界のレジェンドであった。その小澤さんのご紹介で出会ったのが、昭和40年代に松橋町にある熊本日日新聞の支局に勤務されていた中村弘之さんである。鉄道マニアでもある中村さんは、複線化、電化が進み間もなく姿を消す鹿児島本線の蒸気機関車の写真を大量に撮られていて、シスコ作品にも描かれる永代鉄橋を走る見事な写真を拝見することができた。


旧鹿児島本線松橋付近を走る蒸気機関車(昭和42-44)[撮影:中村弘之]


そして寄せられたなかでもっとも古い時代の写真は、熊本県芦北町在住の方より寄せられた横8.6×5.4㎝ほどの名刺サイズのものであった。その裏には「永代橋附近 汽車ヲ寫ス」と書き込みがある。明治生まれのご家族のアルバムにあったというその写真が撮られたのはおそらく戦前、永代橋を走る蒸気機関車は8620形。シスコが生まれた翌年の1914(大正3)年から製造が始まった同汽車は、シスコと同じ時代を走り抜けている。


「永代橋附近 汽車ヲ寫ス」戦前と思われる写真(個人蔵)


もうひとつ、シスコの時代で印象的な乗り物が「船」である。フミ上げ漁の部分でも触れたように、不知火海や、また球磨川などの沿岸部に暮らす人にとって、船は生活必需品であった。

いまで言うと自家用車のような感覚であろうか。《ふるさとの海》の画面右側にはひときわ大きく「天草 べべん子丸」と記された船が描かれている。現在の様子からは考えにくいが、天草五橋が1966(昭和41)年に開通するまで、天草への交通手段は船であった。そして、松橋は多くの船が乗り入れる港町であった。天草と松橋は船で結ばれ、肥育され売買される牛が運びこまれ、松橋駅から熊本方面ほか、遠くは関西まで出荷されていったという。


びつくりたまげた絵

「熊本県宇土ノ花園ノ五色山へ原先生と三人で行きびつくりたまげた絵 スミ子10才シスコ9才ノ時」と、こちらがびっくりたまげるぐらい絵の中に大きく文字が書かれた作品がある。シスコが75才のときに描いた《五色山の想い出》だ。山の上には背広姿の原先生と、着物に赤い草履をはいたシスコとスミ子。山の中腹にいる5人の女の子には、ご丁寧に全部「シスコ」という名前、右端には「大正十年今は昔ノ想影ナシ」と文章が書き込まれている。そして何より「たまげる」のが、はっきりとした赤・黄・紫色で塗られた山肌らしき部分であり、それらを取り囲むように植物や古墳が描かれている。


塔本シスコ《五色山の想い出》(1988)


こんなに派手な色をした五色山という山があるのだろうかと不思議に思いながら、車を走らせた。五色山は熊本県宇土市の国道から入ってすぐの住宅地にある、標高96メートルほどの低山で、近年は地域の「五色山ふれあい会」などによって里山としての整備が行なわれている。同会メンバーの南部さんに作品の写真をお見せすると、先生やシスコが立っていたと思われる場所へと案内してくださった。長年、手入れがされず放置されていた五色山は樹木が伸び荒れ放題になっていたが、近年散策コースなどの整備を行なっているという。確かにコース内の看板になる昭和50年頃の写真を見ると、周辺の学校が遠足によく訪れ草すべりをしていたことがわかる。その話をもとに改めて山の中腹に描かれたシスコの姿を見ると、何かに乗って斜面を滑っているか、膝をそろえて座っているかのように見えなくもない。

また、シスコは親戚から五色山の珍しい色の土を送ってもらったことをきっかけにこの絵を描いたとされるが、同山の地質について、熊本県博物館ネットワークセンターに聞くと、現在は地表面に草木が生い茂っているが、五色山は五色の地層が表面に現在も部分的に露出しており、かつまた水平ではなく斜めに地層が入っていることで知られているという。シスコ作品は部分的にデフォルメされることはあるものの、空想ではなく基本的には見たものをそのまま忠実に描いていることが多いことを示すエピソードである。

また今回、地元の方の情報提供を受けて、絵の中に描かれた「原先生」のお孫さんに面会することができた。「原先生」こと原竧(はら・ただし)先生は、シスコが暮らした松橋町で長く小学校の教師を務め、1200人以上の子どもたちを受け持ち、地域の人に慕われる存在であったという。絵が好きで、個人的にも水彩画などを描き、ときには子どもたちに大きな襖に絵を描かせていたという原先生は、大正10年当時、20代前半の若き教師であった。学級全員ではなく先生とスミ子さんと3人だけで五色山に行った記憶は、少女時代の特別な思い出だったのではないだろうか。シスコは翌大正11年、家業が傾いたために小学校を4年で中退し、奉公に出ることとなる。

シスコ作品に見る100年前の風景

これまで熊本県内では1995年に「塔本シスコはキャンバスを耕す」(熊本県立美術館分館)、2013年に「この喜びは何だろう 生誕100年塔本シスコ展」(宇城市不知火美術館)、あるいは画廊喫茶 三点鐘などでたびたびシスコの展示が行なわれていたが、今回、全国の4館で巡回し、Eテレの日曜美術館などでも紹介されたことで、「こんな人がいたことを知らなかった」という声を地元・熊本でも耳にした。これだけの作品が良好な状態で保管されており、作品の情報を裏付ける本人のコメントや写真、果ては制作風景の動画までふんだんに素材が残されていることは、ひとえにシスコの息子である賢一さんやそのご家族の献身的な努力によるものである。学芸員としては、それらの資料を活用させていただきながら、さらにもう一歩その作品世界を探求していく必要がある。

そして今回、シスコ作品の調査では、地域の区長さん、漁師さん、さまざまな分野の学芸員、シスコが通った小学校や、奉公先の関係者、鉄道関係者、行政や議員関係者など、数えきれないほどのさまざまな立場の方との新たな出会いがあった。とりわけ、シスコが描いたおよそ100年前の風景を探っていく試みのなかで、ひとりの等身大の生活者であったシスコの目線を通して見たふるさとの風景を前に、初対面の者同士が共感し、次々と協力の輪が広がっていったことが、ひとつのあたたかい奇跡のようであった。


塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記

会期:2022年2月5日(土)〜 4月10日(日)
会場:熊本市現代美術館(熊本県熊本市中央区上通町2番3号)
公式サイト:https://www.camk.jp/exhibition/tomotoshisuko/
※2022年4月23日(土)〜6月26日(日)に岐阜県美術館、7月9日(土)〜9月4日(日)に滋賀県立美術館に巡回。


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