キュレーターズノート

ニューヨークの芸術における障害とアクセシビリティの現在

田中みゆき(キュレーター/プロデューサー)

2022年11月01日号

私は今年の7月からアジアン・カルチュラル・カウンシルのニューヨークフェローシップでニューヨークに滞在している。ニューヨーク大学の障害学センタータンドン・スクール・オブ・エンジニアリングの客員研究員として、ニューヨークを中心としたアメリカにおける芸術に関するアクセシビリティやインクルーシブなプログラムの動向を調査している。現場の話だけでなく、アメリカにおける障害を巡る理論や文化について学びたかったので、大学院で障害学の授業を取りながら調査を進めている。今回は日本にいたときにはもちえなかったアクセシビリティに対する価値観の変化について書きたいと思う。

イメージ・ディスクリプション:黒人とパレスチナ人の2人が手をつないでいる絵です。黒人はオレンジ色の囚人服を着て、囚人用の鉄格子を背に車いすを使っています。パレスチナ人は白い服を着てヒジャブを被り、切断された片腕と片足に包帯を巻いて、ロケット弾やミサイルが撃ち込まれて炎上している建物の前で地面に座っています。テキストには、「Disability Justiceとは、独房から野外刑務所まで、共に抵抗することだ。存在することは抵抗することである」と書かれています。
Sins Invalid《DISABILITY JUSTICE FOR PALESTINE》[Art by Micah Bazant]

イメージ・ディスクリプション:黒人とパレスチナ人の2人が手をつないでいる絵です。黒人はオレンジ色の囚人服を着て、囚人用の鉄格子を背に車いすを使っています。パレスチナ人は白い服を着てヒジャブを被り、切断された片腕と片足に包帯を巻いて、ロケット弾やミサイルが撃ち込まれて炎上している建物の前で地面に座っています。テキストには、「Disability Justiceとは、独房から野外刑務所まで、共に抵抗することだ。存在することは抵抗することである」と書かれています。

Sins Invalidはサンフランシスコを拠点に、障害があり、特に有色人種やクィアのアーティストをインキュベートするパフォーマンスプロジェクトを展開する団体。彼らは「Disability Justice」を10の原則とともに提唱しており、障害に関する議論で度々参照される。https://www.sinsinvalid.org/blog/10-principles-of-disability-justice


コロナの影響

7月からブロードウェイでマスクの着用義務が撤廃になったり、イベントに参加するたびに「2年ぶりの対面……」などの挨拶から始まったりするのを見ると、この頃からようやくイベントがオンラインではなく現場で開催され始めたことが伺える(そのままハイブリッドの形式をとるものも多い)。その他劇場やミュージアムからも、マスクが「必須」から「推奨」に変わるという連絡が9月頃から届き始めてきた。ただマスク着用に関してはさまざまな意見や意向があるため、パブリックシアターなどではマスクの着用が必須の日とそうでない日を設け、観客が選ぶことができるようにしている。

ワシントンDCにあるナショナル・ギャラリー・オブ・アートは、コロナ禍をきっかけにウェブサイト上の作品画像に視覚障害者向けの説明文を書く「Image Description」のプロジェクトを始めた(ナショナル・ギャラリー・オブ・アートはクリエイティブ・コモンズ・ゼロのもとに商用・非商用問わず作品のデジタル画像を無料で利用可能にしている)。プロジェクトでの経験をもとに、言葉遣いや文章の構成、分量など、彼らなりの方針をまとめたウェブサイトが最近公開された。ユニークなのは、美術館内の全職員に呼びかけ、警備や法務など、学芸員や教育普及担当以外の職員もチームに参加してきたという点だ。

コロナによる影響の大きなものとしてもう一つ挙げられるのは、組織内の人の入れ替わりだ。私が接してきた劇場やミュージアムのアクセシビリティに携わる人たちのなかで、この1年以内にその仕事を始めた人は少なくない。コロナによってニューヨークを離れた人や職場を変える人も多くいたことに加え、Black Lives Matterなどの影響もあり、これまで白人で占められていた文化施設の中に有色人種が増える(これについてはコロナ前から始まっていたという人もいる)など、多様性を意識した組織改変が進んでいる。また、アクセシビリティやインクルージョンの部署で働く障害当事者も多く目にする。

障害をめぐるアイデンティティ

アメリカの障害者に関する政策は、当事者による運動抜きには語ることはできない。中核を担うのは1990年に制定された「The Americans with Disabilities Act(略称ADA、障害のあるアメリカ人法)」だが、これには1964年に制定された「公民権法」には障害者は含まれず、1973年に制定された「リハビリテーション法」504条では障害に基づく差別の禁止という条文が定められたものの、形だけで実際には施行されない状況があった。そのため、1970年代頃から障害者と支援者が集結し、全米で抗議運動を展開したことに端を発している。長期にわたる立て篭もりの末、504条の施行が約束され、その後の継続的な働きかけにより障害者が健常者と同様に生活を営むことができる機会を保証する「ADA(障害のあるアメリカ人法)」が生まれた。これらの動向はNetflixで配信されているドキュメンタリー映画『CRIP CAMP: A DISABILITY REVOLUTION』(2020)をぜひ観ていただきたい。ちなみに邦題は『ハンディキャップ・キャンプ:障がい者運動の夜明け』とされているが、英語のタイトルとの印象の差は大きい。英語の「crip」は、かつては障害者にスティグマ(不名誉、汚名、烙印などの意味)を植え付け、抑圧してきた言葉だが、当事者たちによって捉え直され、敢えて自分たちの誇りを示す意図や、「欠落」でも「病的」でもない、独自の文化を持つことを主張する文脈で用いられている(「queer」も同様の経緯をもっている)。そういった意味で、日本語の「ハンディキャップ」とはまったく異なる文脈や背景、意志をもっていることは邦題では踏まえられていない。


CRIP CAMP: A DISABILITY REVOLUTION | Official Trailer | Netflix | Documentary


ちなみに、ADAにおける障害の定義は日本よりも広く、(すべてが明記されている訳ではないが)喘息や糖尿病、がんなどの慢性疾患も含むとされている。また、日本よりも「ニューロダイバージェント★1」の認識が普及しており、いわゆる「グレーゾーン」にいる人たちで障害を積極的に自認する人も多く含まれる。しかしそのことによって障害がより広く身近に社会に受け入れられているかというとそれはまた別の話で、いまだにバリアや偏見は数多く存在する。ただ、ADAが存在することによって、施設や公演、展示などに対するアクセシビリティがない場合は誰でも訴えることが可能となっており、文化施設を相手にした勝訴の事例も存在する。

アメリカに来て日々感じるのは、抑圧を語る語彙の豊富さだ。それはもちろん黒人(「crip」や「queer」同様、「black」も文化や誇りを示すために用いられるため、敢えてこの言葉を用いる)による公民権運動を始めとした抑圧を巡る長い歴史が社会全体の下敷きになっている前提がある。そのうえで、障害のある人たちは「障害」を共通項にするというよりも、「マジョリティの権力によって抑圧され周縁に置かれた存在」として声を上げ、最近は特に「Disability Justice」が盛んに叫ばれている。「Disability Justice」とは、これまで白人男性が中心だった障害者の権利運動において見過ごされてきた人種や国籍、性自認、経済的状況など、複数の抑圧の構造と結びつく「ableism(社会的に構築された概念である正常性や生産性、知性や健康さなどにもとづいて人々の体や精神を価値づけしようとするシステム)」に注意を喚起する考え方だ。そのことがほかのマイノリティ集団との交差性を生みながらコミュニティを形成しているのも特徴だ。実際に障害に関連するイベントに行くと、人種や国籍はもちろんのことクィアの人たちを少なからず見かけるし、周りを見回せば「Intersectionality(人種、障害、性自認など複数のアイデンティティが組み合わさることによって起こる差別や抑圧を理解する枠組み)」を体現していない人はいないのではないかと気づく。同じであることが殊更に強調されてきた日本と違い、個人のなかにある複数のアイデンティティを一人ひとりが見つめ、それぞれが違うことを前提に、つながれる拠り所を探っているように見える。

ミュージアムや劇場におけるアクセシビリティ

では実際に文化施設においてどれくらいアクセシビリティは取り入れられているのだろうか。ADAでは、障害のある人が公共施設で提供されているサービスにアクセスできなければいけないが、それが恒常的なものか、会期中に一度鑑賞ツアーがあればいいのかまでは定められていない。そのため、館によって考え方はバラバラだ。情報保障としての音声解説(audio descriptionとverbal descriptionという言い方が混在している)やろう者・難聴者向けのASL(アメリカ手話)と字幕による作品解説動画はウェブサイトに一部上がっていることはあっても、現場でわかりやすく提供されている訳ではない。コンテンツの更新頻度を見ても、むしろ情報保障には以前ほど重きが置かれていないように見受けられる。

一方、障害のある人と直接交流するいわゆる鑑賞プログラムは「アクセスプログラム」と呼ばれていることが多く、メトロポリタン美術館近代美術館ホイットニー美術館を中心に継続的に実施されている。主には視覚障害者、ろう者・難聴者、発達障害者に加えて、認知症の人向けのプログラムがあるのがスタンダードな構成となっている(ADAでは明記されていないが、一部の認知症も障害に含まれるとされている)。そこではアートについて知ってもらうというより、自らが手を動かし、つくる時間を共有することでコミュニティが形成されるようなプログラムが展開されている。特筆すべきは、ミュージアムにおいてはアクセシビリティを専門に扱う部署やチームを設置するところが増えていることだ。先述したナショナル・ギャラリー・オブ・アートのように、アクセシビリティの部署やチームは、部署を横断して全館をつなぐような役割を担う可能性を持っており、日本でも必要性は認識され始めているのではないだろうか。

劇場のアクセシビリティはミュージアムよりもさらに乏しく、ほとんどの劇場では実施されていない。また、アクセシビリティの部署やチームも普及していない。ただ、日本の「UDCast(映画館で音声ガイドや日本語字幕、手話動画などを再生することができるアプリ)」の劇場版と言える「GalaPro」というアプリがあるが、まったく告知されていないので、私以外に実際に利用している人を見たことはない。手話通訳付きの上演や、「Sensory Friendly Performance」あるいは「Autism Friendly Performance」と言われる自閉症や発達障害の子どもがよりリラックスした環境で鑑賞できる上演形式(イギリスでは「Relaxed Performance」と呼ばれている)も非営利団体を中心に行なわれてはいるが、選ばれた公演のなかで一日のみ。そこにはチケット代金の高さ(アメリカには障害者割引が存在しない)など、さまざまなハードルが関係しているようだ。ちなみにパブリックシアターの主催で毎年無料で行なわれている「Shakespeare in the park」という枠組みでは素晴らしい手話通訳付き上演が行なわれているので、関心のある方はこちらをご覧いただきたい。

アクセシビリティの政治性と正当性

最後に、先述した「Disability Justice」に関連する最近のアクセシビリティの課題と、興味深いプロジェクトについて触れておきたいと思う。障害はその当事者個人の問題であり、治療されるべきものとするのが障害の「医学モデル」と呼ばれる。その一方で、障害は個人ではなく社会によってつくられたものであり、社会環境こそ変えなければならないという考え方を障害の「社会モデル」というが、社会モデルも万能なものではまったくない。むしろ疑うべきものは前提となる社会そのもので、そこに存在するあらゆる「規範」に埋め込まれている差別や不当性に厳しい目を向けなければいけない、というのがいまの障害者コミュニティが抱える問題意識だと感じる。だからこそ、同様に不当な扱いを受けてきたほかのコミュニティとも連帯することの意義を多くの人が感じているのだろう。

冒頭で「Image Description」の話をしたが、描写にも規範が表われる。例えば近年、観客の多様性を意識したイベントをするとき、登壇者が最初に自分の「Self-Description」をするのが決まりごととなっている。視覚障害者がいることを前提に自分の容姿をできる限り簡潔に言葉で描写しつつ、自分が認識する性別に合わせた代名詞(he/him、she/her、they/themなど)を加える。そのとき、人種について触れるのはタブーとされ(そのことが抑圧の構造を生むため)、肌の色を代わりに言うことが推奨されているが(Image Descriptionの統一されたルールはまだなく、ほかの意見もある)、白人は自分の肌の色について言及しないことがままある。もし有色人種のみが言うことになると、それはそもそも白人であることが前提となっていて公平ではない、という指摘がある。このように、“客観的に”描写するという視点に、すでに既存の権力構造が埋め込まれているということがあり得るのだ。また、手話通訳の人種も大きな問題となっている。例えば黒人の歴史に触れた内容を白人が手話通訳するのと、黒人が手話通訳をするのでは、黒人の観客が受け取る意味はまったく異なる。内容が歴史でなかったとしても、手話通訳を当事者の表象と捉えたときに、抑圧されてきた黒人の表象を抑圧してきた白人が行なうのは避けなければならないという意図からだ。いずれの例にも、アクセシビリティが単なるコミュニケーションのツールではなく、当事者の文化や背景を伴う極めて政治的なものであるという意識が表われている。


イメージ・ディスクリプション:『Alt-Text as Poetry』ワークショップの様子。左:大きな窓から光が注ぐ部屋でレンガの壁を背景にBojanaとShannonがワークショップ参加者に説明をする様子。<br  />右:さまざまな人種や性別の参加者が机を前に横並びに座り、テキストを考えている様子。
『Alt-Text as Poetry』ワークショップの様子。左の写真は、大きな窓から光が注ぐ部屋でレンガの壁を背景にBojanaとShannonがワークショップ参加者に説明をする様子。右の写真は、さまざまな人種や性別の参加者が机を前に横並びに座り、テキストを考えている様子。[Photo by Christine Butler]


ニューヨークの障害に関する活動は、大部分が障害当事者によってリードされている。文化施設よりもインディペンデントな活動の方が圧倒的に面白く、ここでは紹介しきれないが、「Image Description」に関連して、Bojana CoklyatとShannon Finneganによる『Alt-Text as Poetry』というプロジェクトを紹介したい。「Alt-Text」とは、ウェブサイトに掲載されている画像や動画に付けられる代替テキストのことで、音声読み上げに対応しており、SNSの投稿にも付けることができる。視覚障害者に向けたアクセシビリティである「Alt-Text」を、本来の目的を最優先しつつ、簡潔でありながら想像力を掻き立てる詩の特性を生かすことで、みんなで楽しみながらwebのアクセシビリティを高めていけないか、というのが狙いのプロジェクトだ。アメリカではダンスや美術などのジャンルを問わず、ワークショップの参加者の言葉を集めて詩にするという場面に度々遭遇してきた。そういった土壌があるうえで、彼女たちもワークショップを開催したり、ワークブックを公開して、アクセシビリティを文化としてコミュニティで共有するような活動を行なっている。

もはや自分の言葉にどのような政治性が含まれているか、自分一人の力で確認することは誰にとっても不可能だ。そこで必要なのは自分と異なる他者であり、逃れられない抑圧構造のなかで、常に互いに更新し合っていくしかないのだろう★2。そのように、個人対作品という構図ではなく、コミュニティの問題としてアクセシビリティを捉えると、また異なるかたちのコミュニケーションが生まれ得るのではないかと、日々考えを巡らせている。


★1──脳の機能が異なることによる物事の受け取り方などのさまざまな違いを示す個人のこと。神経発達の多様性から生まれた造語で、肯定的な意味合いをもつ。
★2──法律家であり活動家のTaila A. lewisは先に述べたableismの定義を毎年更新しており、障害学で広く参照されている。以下は2022年の最新版で、これを読むといかにableismが多くの人に当てはまるものであるかがわかる。https://www.talilalewis.com/blog/working-definition-of-ableism-january-2022-update


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