キュレーターズノート

アーティストが社会運動の主体になること──「『二つの栃木』の架け橋 小口一郎展 足尾鉱毒事件を描く」から

町村悠香(町田市立国際版画美術館)

2023年03月15日号

日本の公害問題の原点とされる明治期の足尾銅山鉱毒事件の存在は、その窮状を天皇に直訴した田中正造の名前とともに、授業で学んだ人は多いだろう。だがこの事件をライフワークとして描いた画家がいたことはあまり知られていない。
栃木県立美術館で開催されている「『二つの栃木』の架け橋 小口一郎展 足尾鉱毒事件を描く」は、小山市を拠点に油彩画から版画へと展開した小口一郎(こぐち・いちろう、1914-1979)の画業の全貌を紹介する画期的な展覧会だ。


本展チラシ


本展の最大の見どころは、小口が20年以上にわたりライフワークとして描いた足尾鉱毒事件3部作全作品が初めて一堂に会したことだ。そして副題が示す通り、足尾鉱毒事件が契機となって生まれた「もうひとつの栃木」にフォーカスし、小口が両者を結ぶうえで重要な役割を果たした点に光を当てている。筆者は昨年「彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動」展を企画し、戦後版画運動の文脈で小口の作品も紹介したが、そこでは扱いきれなかった小口の活動の全貌を知ることができた。

展覧会は4部構成で、第1章が前半部分にあたり、後半の第2〜4章で足尾鉱毒事件3部作が展示される。後半は見応えがあるだけでなく、詞書の読み応えもあり、じっくり観るには3時間以上かかる。こうして作品をまとまって観ることができるのは、小口一郎を長年顕彰してきた篠崎清次を中心とする小口一郎研究会と、これまでも戦後版画運動に関する作家を紹介してきた栃木県立美術館の活動の賜物である。

「第1章 画家・小口一郎」 油彩画から版画へ

第1章では、3部作を除く戦前から晩年までの小口の油彩画と版画あわせて約100点と、主宰したサークルの活動を紹介する。小口は幼いころ両親を亡くして早くから奉公に出た。一時期デッサンなどを洋画家に教わるが、工場労働、看板屋などさまざまな仕事に就きながら、ほぼ独学で油彩画を習得していく。1940年代までは主に風景や労働者、農民を主題とする油彩画を手がけていたが、中国木刻の影響で始まり、版画を通じて社会問題を訴えた戦後版画運動の盛り上がりのなかで、「民族的」な主題と技法に関心を持ち、版画へと制作の幅を広げていく。



『わが町わが村』 展示風景


初期に制作した版画作品が、ひとつ目の展示ケースに置かれていた鈴木賢二との共作『わが町わが村』(1951)だ。彼らが住む町の政治腐敗や貧困を絵と文章で伝える冊子状の作品で、近所で売って歩いたという。中国木刻の「連環画」の影響が指摘できると同時に、小口にとって版画制作はルポルタージュのような、社会的な出来事を言葉とともに伝える行為から出発していることがわかる。

一方で油彩画も継続して手がけており、特に風景画には版画とは異なる魅力がある。足尾銅山、佐呂間ほか、3部作の取材過程で訪れた場所の風景も多いが、夕暮れが沈む様子など情景描写が見どころの作品でも画家としての力量を発揮している。

足尾鉱毒事件3部作

展覧会後半では足尾鉱毒事件3部作の『野に叫ぶ人々』『鉱毒に追われて』『盤圧に耐えて』を通覧できる。2章以降は絵と詞書がセットになったナラティブ・アートであり、読みながら歩を進め、小口が物語る3部作の叙事詩的世界に入っていくことに、本展の眼目があるだろう。

小口自身は1950年に入って初めて鉱毒事件のことを知った。足尾鉱毒事件は今でこそ公害問題の原点として教科書でも取り上げられるが、当時は一般的には知られていなかった。地元の近くで起こった出来事を知らなかった自分を恥じて、研究会に加わり歴史を学び、また自転車を漕いで旧谷中村があった現場に何度も赴き取材を重ねた。

小口がこの事件に関心を抱いたきっかけは「農民が土地を奪われる痛み」への共感だった。1950年代は内灘闘争や砂川闘争など、日本各地で米軍基地拡張とそれに反対する農民や漁民の抵抗運動が起きていた。鉱毒で土地が汚染され収穫ができなくなり、さらには土地すら奪われ生活の基盤がなくなってしまった足尾鉱毒事件の被害者に光を当てたのは、小口の同時代的な問題意識からだった。この同時代性は、今でいえば原発事故が原因で廃業した農家に心を寄せるような行為だろう。

『野に叫ぶ人々』

第1部『野に叫ぶ人々』では足尾銅山鉱毒事件を世の中に伝えることに使命感を持ち、約15年かけてシリーズを完成させた。連作のうち30点が出来上がった1968年から仲間内や第22回日本アンデパンダン展などで公開。改変、追加を経て1970年に全40点組のシリーズとなった。



『野に叫ぶ人々』 展示風景


物語はかつての豊かだった渡良瀬川流域の農村の様子から始まる。明治10年代から洪水の度に流域の田畑の収穫量が減るようになり、上流の足尾銅山から流れる鉱毒が原因だとわかっていくものの、政府や銅山経営者に訴えても有効な手立てが打たれない。窮状を知った田中正造が議会で問題提起、さらには天皇に直訴する。また農民たちも繰り返し政府に抗議しても鎮圧されてしまう。問題収束の犠牲になるかたちで抵抗者が多かった谷中村が明治39年(1906)に強制廃村の憂き目に遭い、住民は各地への移住を余儀なくされ、一部は遠く北海道佐呂間まで渡った。と、こういった事件の流れが農民の視点に立って語られていく。


1950年代の農民の基地闘争との共通性を見出して制作し始めた『野に叫ぶ人々』は、公害問題が社会的なトピックになっていく時代の変化のなかで、その原点を扱ったシリーズとして新たな同時代性を帯びていく★1。1969年の日本アンデパンダン展で反響があり、70年代に20カ所以上で巡回展が開かれたのはそうした情勢とマッチしたからだった。また水俣病の問題に取り組んだ石牟礼道子が足尾を訪れて小口と交流したことは、新聞でも報じられた。ただ、こうした活動は美術・文化の話題としてよりも、社会的な出来事として扱われている。

『鉱毒に追われて』

第1部が完成したのち、小口は谷中村出身者が明治44年(1911)に北海道へ入植し、開拓して栃木集落を築いたことに関心を持った。戦後版画運動に参加した北見市の版画家・景川弘道の紹介で、栃木集落の歴史を調べていた北海道北見市の教師・小池喜孝との出会い、これが現地取材に繋がる。



『鉱毒に追われて』 展示風景


小口は文献調査、現地調査やインタビューをもとに北海道での開拓の苦労、貧しい生活とそのなかでの喜びを作品にしていく。現地を訪れたことで、移住民が戦前に3度にわたって帰郷運動を起こしたが叶わず、その息子や孫の世代で栃木への帰還を望んでいる人々がいること知り、小池とともに彼らの帰郷運動を支援していく。1974年に発表された『鉱毒に追われて』(全40点)では、1972年に運動が実って実際に栃木に移り住んだ世帯もあったことも語られている。

本シリーズ以降は文章も小口が手がけ、絵と文のバランスが始めから計算に入れられている。ダイナミックな構図の作品の訴求力が強く、絵と語りがセットになったときに効果を発揮していた。

『盤圧に耐えて』


『盤圧に耐えて』 展示風景


第2部までは鉱毒の被害にあった農民の視点から語ってきたのに対し、第3部ではパースペクティブを変え、足尾銅山の労働者に注目する。江戸時代に鉱脈が発見されてから1973年に閉山するまでの長い歴史を80点に及ぶ作品で綴っている。



『盤圧に耐えて』より「26 軍隊による鎮圧」「25 暴動争議」


戦前から戦後にかけての労働運動史を踏まえた内容で、特に明治40年(1907)に足尾銅山の坑夫が待遇改善を訴えて起こした争議で、軍隊まで出動した足尾暴動事件が詳しく紹介されている。さらに戦中の朝鮮半島、中国からの強制労働、連合国捕虜の強制労働にも触れる点が意義深い。イデオロギーを反映した解説文が長く、説明的な印象も拭えないが、鉱山で働いていた労働者からの聞き取りに基づく、生活の様子が垣間見える作品に実感がこもっていた。

この3部作を鑑賞し終えて展示室出口に行き着くと、小口が鉱毒問題を長い時間軸と多様な視点で捉えようとし、特定の個人を非難するのでなく、足尾銅山をテーマに近代社会の矛盾、構造的問題を思考する内容に深まっていくことが体感できる。小口は『盤圧に耐えて』制作中から病に侵され、完成して数年後にこの世を去る。3部作は小口の人生を賭けたライフワークとして完結した。

移住元、移住先と開拓史

ここまで足尾鉱毒事件3部作を中心に本展の流れを紹介した。そのうえで本展の特色は、特に『鉱毒に追われて』の制作を通じて、小口が栃木県と北海道佐呂間の栃木集落という「二つの栃木」の架け橋になったことに光を当てたことにある。

北海道移住を扱った美術展示の流れから考えると、『鉱毒に追われて』にフォーカスすることにいかなる意義があるだろうか。筆者が近年見ることができた北海道への移住をテーマにした展示として、谷本研+中村裕太のユニットが北海道北広島市に注目した「タイルとホコラとツーリズムseason6 《もうひとつの広島(フィールド・オブ・ドリームス)》」(広島市立現代美術館、2019)、北海道江別市世田谷を紹介した「新雪の時代──江別市世田谷の暮らしと文化」展(世田谷生活工房、2019)、進藤冬華『移住の子』(「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」森美術館、2022-2023[2019年のモエレ沼公園での個展「移住の子」の再構成])がある。

前者2つは移住元側の地域の美術館で開催され、移住先の開拓と文化の歴史、両地域の交流史を紹介した展覧会だった。それに対し「移住の子」は、札幌生まれで移住者/入植者の子孫である作家が、自身の立ち位置を強く意識し、先住民であるアイヌの存在にも目をむけ、「北海道開拓史観」のオルタナティブを探ろうとしている。

小口一郎展は移住元の企画であり、小口の『鉱毒に追われて』は移住にまつわる負の歴史や2世、3世を取り扱いつつも開拓者の視点に立ち、栃木集落の開拓の苦難を紹介する点で前者2つの展示と共通する。そのうえで『鉱毒に追われて』の独自性は、作品制作を通じたアーティストの社会運動が、分断されていた移住元と移住先を再び結びつけたことにある。

制作から社会運動へ

北海道から栃木県に「帰郷」した者の多くは2世、3世であり、生まれたのは北海道だ。産業構造の転換で農村が過疎化しているとはいえ、栃木県に行っても希望していた先祖の土地への帰還や農業を続けることはできない。それでも複雑な心境のなか栃木県に移住したいと願ったのは、1世から足尾銅山鉱毒事件で追いやられたという無念の思いを聞かされていたからだったという。この心情が、小口の第1部、2部を貫く「農民が土地を奪われる痛み」への共感と響き合うものだった。



『鉱毒に追われて』より「三代目の窮地」「二代目に引き継がれた請願」 展示風景


小口は、自身が過去の歴史として描いていた足尾鉱毒事件が、60年を経て世代が変わっても移住を余儀なくされた者の子孫がいまも抱える傷であることを知り、帰郷運動にコミットしていく。小口自身が世話役となり栃木県知事に嘆願書を渡すなど、栃木県内の支援者として重要な役割を果たした。こうした運動やマスコミ報道の影響で、県が帰郷者の受入を決め、6世帯が実際に帰郷することになる。



『鉱毒に追われて』より「鍬を捨てて労働者に」「帰郷」 展示風景


小口や小池喜孝らが栃木集落を訪れて聞き取りをし、本や作品にまとめたのは、谷中村からの移住民の苦難を歴史化、歴史物語化していく行為だった。これが取材を受けた2世、3世の歴史意識を強め、1世の無念を自身のアイデンティティに組み込んでいくという、聞き手と語り手の相互作用があったのではないだろうか。小口のような現実にコミットする取材対象との密接な関わり方は、日本の戦後美術史のなかでのアーティストと社会の関わりを振り返っても珍しい例だろう★2。企画者の木村理恵子学芸員が、よく知られる足尾鉱毒事件や田中正造だけではなく、この点に注目させようとしたことの意義は大きい。

帰郷運動で分断されたもの

ところで栃木集落内部の状況に目を向けると、帰郷運動が起きたときに集落に住んでいた者のルーツは、栃木県出身だが鉱毒事件が理由で移住したわけではない者や栃木県以外の出身者も多かった。展示室内のイスにそっと置かれた、佐呂間町が用意したクリアファイル「もう一つの『栃木』 語り継ぐべき苦悩の歴史★3」には、開拓の先人の苦労が記されていた。だが帰郷運動については、全国的に公害問題が注目される時代背景から佐呂間の栃木集落の運動にマスコミの取材が殺到し、「地域が大きく揺れ動く」と書かれている。マスコミは集落全体が未開で困窮した地域であるかのように紹介。これは栃木県ルーツでない者にとっては苦労して開拓を進めた「故郷」に対する風評被害と受け止められ、地域を分断してしまった。だがこれも今では過去の出来事となり、佐呂間町は本展を特別協賛して支援していることは強調しておきたい。

あくまで足尾鉱毒事件の影響で移住した農民とその子孫の側に立つ『鉱毒に追われて』では、こうした視点は描かれていない。もちろん『鉱毒に追われて』のこうした一面性を指摘するのは簡単だ。だが表現としてみた時に、絵と文が一体となり農民視点が貫かれている第1部、2部は講談を聴くかのように感情を掻き立てるのに対し、前述したように労働者に着目しながら多くのパースペクティブに立った第3部は説明的な印象で、多面的に紹介する目配りの良さや「正しさ」が、必ずしも作品的な面白さと一致しない難しさがある。

アーティストが社会運動に関わること

あいちトリエンナーレ2019以来、歴史修正主義に反対するアーティストの動きが強まっている。さらに2020年代に入ってから、美術や表現に関わる人々の労働状況を改善しようとする動きが活発だ。例えばハラスメントやジェンダーバランスを調査する「表現の現場調査団」や、2023年2月には初のアーティストによる労働組合が結成された。これらは広く#MeToo運動や、コロナ流行後のフリーランス、非正規雇用の労働問題への関心の高まりに呼応した、ある種の社会運動だと捉えられるだろう。

今回の小口一郎の個展は、社会にコミットしつづけた画家の生き様を考えさせる。前述したように事実と表現をめぐる一筋縄ではいかない葛藤を抱えつつも、足尾銅山をめぐる近代社会の矛盾を語る3部作は、他者のために立ち上がった、いちアーティストの社会実践と芸術表現の軌跡を知ることができるかけがえのないシリーズだ。本シリーズを通覧できる空前絶後の機会は、現代を生きる者として私たちがいかに行動するか、大きな勇気とヒントを与えてくれるだろう。



最後に、4年間執筆してきた「キュレーターズノート」の筆者の担当は今回で終了する。読者の方々と自由な執筆の機会を下さった編集部に感謝の気持ちを伝えたい。



★1──農民と土地という小口の視点を反映し、同時代の公害問題を扱った報道や文学より、汚染による健康被害を扱った作品が少ないのも特徴として挙げられる。
★2──ほかの例として、若林奮が1990年代に日の出町のゴミ処理場計画に反対するトラスト運動に参加したことが挙げられる。
★3──ほぼ同様の内容は佐呂間町ホームページ「もう一つの栃木」でも閲覧可能。https://www.town.saroma.hokkaido.jp/shoukai/saromanorekisi.html なお、このファイルは佐呂間町町長が初日に持参し、会場への設置を依頼したものである。

「二つの栃木」の架け橋 小口一郎展 足尾鉱毒事件を描く

会期:2023年1月21日(土)~3月26日(日)
会場:栃木県立美術館(栃木県宇都宮市桜4-2-7)

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