キュレーターズノート

身体と視覚の言語から批評をつくる──「手話で語るろう者のための批評ワークショップ」

田中みゆき(キュレーター/プロデューサー)

2023年04月01日号

この数年、映画『Coda コーダ あいのうた』に始まり、映画『ケイコ 目を澄ませて』、ドラマ『silent』など、ろう者や難聴者が脚光を浴びる作品が続いている。しかし、残念ながら特に国内では、主要なキャストがろう者や難聴者という設定の場合、その役柄は当事者ではなく聴者によって演じられてきた。それは、ただでさえオーディズム(聴能至上主義:聞こえることが優れていることを前提とした差別)により抑圧されてきたろう者・難聴者が表象する文化を聴者の文化に取り込もうとする文化の盗用のかたちであり、そのままでは社会構造の不平等は何らなくならない。少しでも減らしていくためには、演じる/つくる側だけでなく、見る側のそういった作品を語る言葉にも、当事者の視点が反映されるべきではないだろうか。しかし、日本語が母語でないろう者や難聴者(詳しくは後述するが、日本手話は日本語とはまったく別の言語である)が日本語で語ることは、日本語の規範や正しさという抑圧構造のなかで、彼らはやはり不利な状況にあることを意味する。ろう者が主体となって始まった「手話で語るろう者のための批評ワークショップ」は、ろう者・難聴者が自らの言葉である手話で芸術や文化を批評的に語るための土壌をつくる取り組みである。

背景


『LOVE LIFE』チラシ


昨年公開された映画『LOVE LIFE』は、ろう者である主人公の元夫の役にろう者の俳優をキャスティングしたことで話題となったが、深田晃司監督はインタビューで、商業的な理由や経費負担への不安から、当初は製作陣の一定数から聴者の俳優を推す声があったと語っている。その根底には、聴者が「ろう者」の当事者性を職業や性格のように演じられるものと捉えている、無理解や誤解がある。例えば海外では、マイノリティの文化は「lived experience(生きられた経験)」と不可分であるとされているように、身ぶりや表情などの見えている要素は訓練によってなぞることができても、当事者の体や文化を生きられているかはまた別の話だ。では、なぜ今のような状況が続いてきたのだろうか。

まず、業界の規範や慣習が聴者によってつくられてきたことが挙げられる。そのうえで、資本主義のもとで商業的成功が優先され、マイノリティの文化が目新しさで取り入れられるものの十分に検証がされず、当事者の参加機会もないまま、聴者にとってわかりやすくパッケージングされてきた(これはろう者・難聴者に限った話ではない)。また、その演技の真正性を聴者は本質的に認識できないにも関わらず、そうしてつくられた作品の評価も聴者の規範にもとづいて行なわれてきた。それゆえに、話題性がもたらす商業的成功や俳優への賛辞の裏で、当事者が演じることの意義が軽んじられてきた。これだけでも、あらゆる側面における不平等の連鎖が見てとれるだろう。演技力や芸術性のみで評価を下すことができる以前の段階に私たちはいるのだ。

日本語とは異なる手話言語

昨年発売された月刊誌『ユリイカ』の三宅唱特集(2022年12月号)のなかで、『ケイコ 目を澄ませて』について、聴者の評が占めるなかで二人のろう者が寄稿しているのは、わずかな進歩のように思えるかもしれない。そのうちのひとり、牧原依里は、自身も映画作家であり、東京国際ろう映画祭を主宰する。牧原は、ユリイカ編集部から日本語で批評を書いてほしいという依頼があった際、最初は何度か断ったという。ろう者の両親のもとに育った彼女の第一言語は、日本手話だからである。その後、どうしても書いてほしいという編集部の要望に対し、手話で語ったものをほかの人に翻訳を依頼するという方法で、書記日本語(文字として書かれた日本語)で原稿をまとめることとなった(日本語の原稿の冒頭には、元の手話による批評動画へのリンクが掲載されている)。そのなかで牧原は、ろう者・難聴者や手話を扱う映画について聴者からの視点とろう者・難聴者からの視点が交錯することの重要性について触れている。

ろう者・難聴者に対するイメージは、手話や筆談が一般的だろう。しかし、それらがまったく別の言語ということは、どれくらい認識されているだろうか。ろう者・難聴者コミュニティは、複雑な多様性をもっている。例えば、生まれながらにろう者で手話を第一言語とする人、聴者の親の元に生まれて日本語で育ったろう者、大人になってから聴力を失いろう者のコミュニティで自然発生した日本手話とは別に、日本語対応手話と言われる日本語の語順に沿って手話単語や指文字を表わす人など、さまざまに異なる言語と文化をもっている。また、日本手話は単に日本語をジェスチャーに置き換えたものではなく、日本語とは語順も異なり、独自の音韻や文法構造をもった言語である。さらに、ものの動きや位置、形や大きさなどを表わすCL表現や、視線、眉の上げ下げ、目の細め・見開き、 首の傾き・振り、あごの引き・出し、上体の傾けなど、手話言語独特の表現がある。一方、そのように空間において身体と視覚を用いた言語である手話には、一般的な書き言葉が存在しない。そのため、ろう者のなかには書記日本語が苦手な人も少なくない。



日本手話のNM表現 左:眉上げ・目の見開き・舌出し 中央:目を細める・口を閉じる・顎上げ 右:眉上げ・目の見開き・口をすぼめる (前述の『ユリイカ』掲載の原稿、牧原依里「『ケイコ 目を澄ませて』とろう者の世界の接点」のもととなった手話での談話動画よりキャプチャー)


書き言葉が存在しない言語を第一言語として使う人たちが手話を介さず始めから書き言葉で批評を行なうということは、母語ではなく、第二言語として身につけた日本語能力に頼らざるを得ないことを意味する。そこでは、本来母語では伝えられていたはずのニュアンスや文脈が、第二言語ではそのまま伝わらない可能性を大いに含んでいる。そのような人たちにとって日本語至上主義は、自由な言論や表現を萎縮させ、抑圧するものとなりかねない。そこで始まったのが、「育成x手話x芸術プロジェクト」による「手話で語るろう者のための批評ワークショップ」である。「育成x手話x芸術プロジェクト」は、演劇・映画・美術それぞれの部門で芸術文化に関わるろう者・難聴者の人材を育成することを目的に、トット基金を母体に2018年度から始まった。私は昨年から美術部門のモデレーターとして、牧原と菅野奈津美、徳江サダシ、南雲麻衣という事務局のメンバーと共に企画段階から関わってきた。同プロジェクトは、2020年に横浜トリエンナーレ組織委員会との共催企画として「ろう者のための美術鑑賞ワークショップ」を行なった。その発展形として、今年度はろう者・難聴者がろう者や手話をテーマとした作品への批評的思考を育む「手話で語るろう者のための批評ワークショップ」が全4回にわたり開催された。海外でも近年障害のある人や移民に特化した批評やアドボカシーのワークショップは行なわれているが、手話を用いてというのはほかに例を見ない。

ワークショップの構成と批評に選んだ作品

講師に聴者の思考家・作家の佐々木敦、ろう者で批評家・画家の佐藤譲二を迎え、10名のろう者の参加者と共にワークショップは進められた。初回は佐々木による批評の定義やその役割についての講義、第2回は佐藤によるろう者として批評することについての講義と、全員でテッド・エヴァンズ監督の短編作品『彼について』(2018)を鑑賞し批評を発表、それについての講評を行なった。それらを経て、今回批評してもらった作品は、アーティストの飯山由貴監督による映像作品『オールド ロング ステイ』(2020)だ。在日コリアンのろう者と障害者の無年金問題について、京都で起こった裁判の原告と支援者へのインタビューや過去の記録映像を通して描く、170分に及ぶ長編作品。まずはろう者の当事者性を含んだ作品であることと、作家を招いて直接対話の場がもてることを前提に選んだ。第3回は、各自で試聴した参加者が批評の試作を共有した後、飯山を招いて質疑と対話を行なった。そして最後となる第4回は、再び佐々木と佐藤が合流し、参加者による最終的な批評に対して講評を行なう、という流れで構成した。

佐々木の講義では、批評のやり方の多様さや、「価値判断や順位づけをしない」「自己表現のためではない」批評のあり方、時に批評を通して作品が作者を超えることがあること、二項対立ではなく他者と異なる視点をもつことの重要性などが語られた。佐藤からは、ろう者として日本語で批評する自身の方法や、ろう者を身体的存在(聞こえない、視覚的身体、手話など)と社会的存在(言語的少数者、音声社会を生きていることなど)という二つの側面から検討する視点が共有された。佐藤は、上述した牧原のユリイカの原稿を日本語に翻訳した経緯があり、そのやり取りの過程から手話による批評ができる可能性を感じたと話した。

ワークショップの参加者は、芸術活動を実践したり関心があったりするものの、普段から批評を行なっているわけではない。そのため第3回の試作は、まずは参加者がろう者同士で安心して批評を共有するため、聴者の飯山は参加しない状態で行なわれた。その後飯山が登場し、まず京都の無年金問題に興味をもち、それについて運動をしているのがろう者を中心としたコミュニティだったことなど、作品の経緯が語られた。飯山は、作品中で日本手話という日本語ではない別の言語を扱っているという自覚があまりにも少なかったと後になって気づいたという。その後、参加者から映像の構成や登場人物の撮り方の違いなどについて質問が投げかけられた。



ワークショップの様子


生まれた批評と、自らの言葉で語る当事者がもたらすもの

4回のワークショップを通して、参加者がそれぞれ独自の視点を見つけ、それを言語化していく様子は今後の可能性を大いに感じさせるものだったと思う。「音のない声」というテーマで批評した數見陽子は、運動の中心人物が手話で訴える声だけでなく、ろう者の自分には地域のろう者や手話サークル関係者、手話通訳たちなど、聴者たちが見えない、知らない声も見えてきたと語った。自身も役所で働いているという萩原昌子は、「この国」というタイトルで、映像の最後に映し出される黒い画面の黒をメタファーに、人間の営みの色を打ち消すように重くのしかかる国家の歴史や制度と、それにより見えなくさせられている自分たちの存在を語った。また、上山預宣福は、作品で取り上げられているNPO法人京都コリアン生活センターエルファの人たちがつくった粘土の人形(上山は埴輪と呼んでいる)が登場するシーンを追いながら、その意味や表象について「埴輪の旅」というタイトルで論じた。ほかにも、粘土の人形の「個」を表わすような弱々しさと作品中に出てくる工場や墓などの重苦しさという視覚的な対比を軸に批評する人や、運動の中心人物として描かれているキム・スヨンの手話から伝わる情熱や苦しみに絞って語る人など、さまざまな観点から批評が展開された。講評のなかでは、佐々木から、厚生労働省と原告側とのシリアスな交渉の場面に粘土の人形を合成させた飯山の狙いは「異化効果」であり、あの場面をどう読むかがこの作品の解釈のポイントではないかなど、映像の見方についてコメントがあった。また佐藤からは、意味ではなく形式から批評するという視点や、最後の真っ黒の画面に音声の字幕だけが映るのはろう者としてはただの黒い画面で切り離された感覚があったが、ろう者としてどう考えるかという問いかけがなされた。



飯山由貴『オールド ロング ステイ』(2020)、映像、170分


全4回という限られた時間のなかでは、批評とは何かに対する答えや自分なりのやり方については、まだ模索が始まったところといえる。しかし、参加者からは「最初は怖いと思っていたけれど、批評をしてみると批評する前とは自分が変わったことがわかるのが良いなと思った」「日本語では掴みきれないところがあっても誰も教えてくれないので、手話でほかの人の意見などがわかるのはやはり良い」「仕事の経験から深く何かを考えるときは日本語で考えることが多くなっていたけれど、手話で考える良い機会になった」「手話表現に対してもっとみんなで話ができる場が欲しい」など、手話に特化することの意義や今後への期待も窺えた。講師として参加した佐々木は、「これまで手話が書き言葉に翻訳されるか手話通訳が音声言語にしてくれたものでしか受け取っていなかったので、日本語とは別の言語だとこんなにはっきり感じとれた機会はこれまでなかった。手話の批評を動画として残していくことで、迂回したり脱線したりといった、翻訳を通して受け取っているもの以上のことを残すことは、凄く意味があると思う。そこから見えていくものがあるのではないか」と語った。佐藤は、「日本語と日本手話という、書き言葉と話し言葉の違いをどう批評に結びつけていくか。手話で批評する意味は何なのかまで考えていきたい。そのためにも個々ではなく集って話し合う場をつくることが重要ではないか」と今後の課題を語った。牧原は、「今度は、批評する作品も、音声言語に依存しない視覚の使い方や手話で表現された、ろう当事者が自らつくった作品を見て手話で語ることで、手話で批評することの意味をもう一歩先に進められるかもしれない」と話す。

最初に書いた通り、当事者を演じることの表象の問題は、業界の構造がもつ不平等や歪みが完全に是正されるまでにはまだまだ時間がかかるだろうが、深田のように自分の作品から変えていこうという監督が出始めていることには希望が感じられる。一方、創作においては、演じる側/つくる側だけでなく、見る側の当事者性についても十分に意識を巡らせ、多様な身体性や文化をもった人が鑑賞する可能性や方法が考慮されるべきである。さらに、ただそれらの人たちが鑑賞機会を得るだけでなく、マジョリティと異なる視点と解像度をもつ当事者による批評が多くの人の目に触れ、その批評性が育まれる必要がある。例えば、飯山の作品の最後では、黒い画面にろう者の悲痛な叫びが音声で聞こえるが、佐藤やほかの参加者も指摘していたように、字幕にはその内容が示されるのみで、それがどのような声なのか、ろう者の視聴者には聴者のように想像する術がない。もしろう者が見る可能性が予めもっと強く意識されていたならば、飯山のつくり方も変わっていたのではないだろうか。それは制約ではなく、作品の届け方について思いを巡らせる範囲をより開かれた方向に広げるものだと私は思う。そうした批評と創造が対等に作用し合う可能性を秘めた実践が、始まろうとしている。



以下は、参加者の批評の例である。これらは、参加者が手話で語る内容を聴者も理解できるよう、事務局のろう者が日本語に起こしたものである。


批評:數見陽子「音のない声」



この映画の撮り方は実に現実的で荒々しい。ニュース風でもなく、ビジュアル風でもない。よくみるドキュメンタリー映画が動的なのに対してこの映画は静的だ。実際に映し出されている物体は揺れているが、俯瞰で観ると写真のようである。そして開花した桜や眩い光、青い空など鮮やかな色で明るく彩られている。そのなかで自然に生活を営んでいる人たちと街。そこには差別を受けてきた在日コリアンのろう者を含む障害者たちがいる。その彼らを代表する二人のろう者、逝去されたキム氏と日本人の藤林晋一郎氏が在日無年金問題に立ち向かって闘っていく。この二人が手話で訴える声は聴者からみるとまさに「音のない声」である。しかしろう者の私には、地域のろう者や手話サークル関係者、手話通訳たちなど、聴者たちが見えない、知らない声も見えてきた。キム氏と藤林氏が闘っていたあの時代はろう者のアイデンティティがそこまで強くなかった頃だ。「ろう者だから」と自分を見下し、聴者や社会に遠慮してきたろう者たちの本音が、二人の叫びを通して浮かび上がってくる。

光が溢れている画面と、国に訴えても無視される現状。その対照的な関係性が映像上で続き、最後にシャットダウンされたように突然真っ黒になる。その画面にも音のない声が続いている。


批評:上山預宣福「埴輪の旅」


当事者たちに取材を行なうかたちで高齢者の在日コリアン障害者が抱えている在日無年金問題を取り上げた約3時間の映画。埴輪たちが出てくる表現に非常に惹かれた。

京都にあるエルファで粘土を使ってさまざまな形の埴輪を作り、彼らに色を塗っていく在日コリアンたち。その埴輪たちが旅をし始めるのだ。彼らが目指す場所は福岡。そのための交通手段なのか、空港の巨大な窓の前に5体の埴輪、電車のホームに4体の埴輪が立っている。よく見ると、その埴輪が一体一体異なっていることから、彼らがそれぞれのルートで別行動しているのがわかる。
そして福岡を象徴する煙突が映し出され、埴輪の旅が始まっていく。埴輪を作った人たちは彼らに自分の一部を委ねている。なぜその人たちは実際に福岡に行かないのか──実は福岡は麻生太郎氏に縁のある場所だ。もし在日コリアンたちが直接行ったら、向こうは拒絶するかもしれない。しかし日本文化のひとつでもある埴輪に擬装することで日本人とみなされ、入ることができる。そうして埴輪たちは福岡のさまざまな場所をめぐっていく。そして麻生氏関連の工場や建物、九州大学石炭研究資料センターが映し出される。しかしそこには埴輪たちの姿が見当たらない。実はその画角こそ、埴輪がみる視線なのではないか。最後は11体の埴輪が集まり、楽しそうに写真撮影をするなど、彼らの自然な姿が表われている。

そのあとに、厚生労働省の職員と、ろう者やほかの障害者たちの在日コリアンが対峙している重苦しい場面が流れる。そこに突然、埴輪たちが次から次へとぽわんと現われる。その違和感によって強烈に印象づけられる。
飯山監督は実際にその場に行って撮影したのだという。当事者の訴えを聞く耳を一切持たない役人たちの態度。監督はその場面を延々と映し出すことに意義を見出せなかったのではないか。それよりも当事者たちそのものをみよう。楽しくて明るい未来をみよう。踊り出す埴輪が監督の意思を象徴しているように見えた。

日本人が知らされていない在日無年金問題を記録として残していく監督の姿勢に称賛を送るとともに、今後の新しい作品が楽しみである。


★──「都合良く使われる“演技論”は疑ってかかるべき ろう者役を聴者が演じる意味を考えたい」(MOVIE Collection、2023年1月22日)https://www.moviecollection.jp/news/180817/


協力:育成x手話x芸術プロジェクト事務局



「手話で語るろう者のための批評ワークショップ

開催日:2023年3月5日(日)、3月12日(日)、3月21日(火・祝)、3月26日(日)
会場:トット文化館(東京都品川区西品川2-2-16)