2021年09月15日号
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キュレーターズノート

Port B「サンシャイン63」──地肌と声の行路

阿部一直(山口情報芸術センター)

2009年04月15日号

 2月末から3月にかけて、池袋と西巣鴨で集中的に行なわれた演劇フェス「フェスティバル/トーキョー」において、パフォーマンスユニットPort B(演出:高山明)による舞台「雲。家。」(エルフリーデ・イェリネク原作の戯曲テキストの日本語翻訳上演)とパフォーマンス「サンシャイン63」が同時に再演された。ここでは、非常に特殊な上演方法をとる「サンシャイン63」を中心にレポートしてみたい。

 「サンシャイン63」は、いったいどのようなものかと言えば、演劇で観客にあたる人々は、すべて予約制で参加者として集合場所に集まり、そこで指示書やいくつかのデヴァイスを渡されるまま町中をさすらっていくというパフォーマンスである。さすらい方は、おおよその筋、レシは決められているが、どんなアクシデントがあるか、なにを発見するかは各自に委ねられている。Port Bは、この系譜として、2007年に行なった巣鴨地蔵通り商店街を探索する「一方通行路~サルタヒコへの旅~」、2008年のはとバスをチャーターして東京五輪と同時期の都市的産物遺物をツアーする「東京/オリンピック」についで、ちょうど1年前の2008年3月に、池袋のサンシャインシティとしての高層ビルと周辺地域を題材にした「サンシャイン62」を初演している。また同年12月には、高山明個人名義でのパフォーマンスとして、山口情報芸術センター主催で、山口市の商店街アーケード周辺地域を拠点とした「山口市営P」を行なっている。
 「サンシャイン」のこの「62」とか「63」はなにを意味しているのか。すでにタイトルからしてポイントとなっているのであるが、サンシャインシティ(超高層ビルサンシャイン60が中心)は、旧巣鴨刑務所跡地に建てられたものであり、太平洋戦争終了後の東京裁判による刑(A級戦犯7名ほか60名が処刑)が執行された年1946年から、昨年2008年が62年を経たということを指している。今年はその翌年であるから、「63」となるわけだ。しかし「サンシャイン63」には、ある部分の手直しや新規な内容が施されているので、新たな別の作品とみたほうがいい節もある。

 Port Bが仕掛ける、このようなまち歩きパフォーマンスは、2つの側面を少なくとも喚起するだろう。演出家が、演劇において意図的にさまざまなロケーションを連れ回すアイディア自体は目新しいものではなく、68年の五月革命後のルカ・ロンコーニやアリアーヌ・ムニューシュキン/太陽劇団による劇場内空間を多面利用するものや、都市の多数のサイトへ連れ回す演出のアンドレ・エンジェルとか、中継映像が劇場を脱出していってロケーションがわからなくなるハイナー・ゲッベルスなど、ヨーロッパ演劇ではしばしば援用される手法である。しかしこれらの演目は、脱劇場が主眼であり、そのネガとしての対象となる劇場というフレームそのものは、確固として揺るがないようにも見える。しかしながら、Port Bが提示する「サンシャイン」は、そこに「62」とか「63」とかが引っ付いた時点で、膨大な歴史編集の海こそが素地となり、そこにはたして劇場が存在するのかが問題とされているのである。あるいは劇場とは有限か、あるいは境界を持つものなのかといった主題である。いいかえれば劇場という均質空間がどこまで維持可能かということだ。自己ないしわれわれにとっての歴史のHDが現在、メモリー容量がいっぱいならば、新たな創造や召還タスクはその分の過去の喪失や代償につながることを、情報化時代は明らかにし自覚させる意味で、創造が安楽な行為でないことを教えてくれるのである。
 その点で、Port Bが提示する第2の側面は、可視的関係に対して、不可視の関係を浸食させていくこと(それは映像性に対しての、音性であるかもしれない)である。可視的なものは、どんなホラーであっても予測可能な安心させるものであり、あるフレームを維持確保させる。Port Bは、「サンシャイン63」と名付けることによって、不可視の可視性、あるいはまた可視の不可視性といった不安定性を突きつけるのである。この2つは相補的なものである。なんらかの基軸を巡って。Port Bにおいて、エンドレスな素地に対して、この不可視性の基軸を渡す行為が散策であり、投企であり、ある主題に対してのゾーンとしての演劇行為ともなる。これは、サイトスペシフィックなどという安穏な着地ではない、本質的抽象性への挑戦である。

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