キュレーターズノート
Port B「サンシャイン63」──地肌と声の行路
阿部一直(山口情報芸術センター)
2009年04月15日号
つまり、このツアーパフォーマンスの渦中では、ほとんど仕込まれた係の人物は出てはこず、対峙する人物=演技者=身体を欠いたまま、コンティニュイティが実行されていくのである。唯一の演者は傍受する録音された声だけである(ツアーの途中で幾度となく特殊帯域に振られたFMチャンネルを携帯ラジオで傍受するのであるが、命綱的スリリングさが正直あるのだ。ローメディアとしてラジオは依然、クールを凌駕したホットである。この傍受行為に、もう少し自由度やオプション、リスクがあるとさらに面白いのだが)。ここで視覚はなにをしているのか。超高層ビルサンシャインは、どこかしことなく、さまざまな威容を見せる。Port Bは、ツアーのなかに霊峰富士のアイコンを周到に紛れ込ませている。近代国家としての興国と同期した富士信仰の富士塚跡、サンシャイン創設記念レリーフの富士、展望台から見えるはずの富士。いずれもこれらは、見えていて見えない存在として、日常意識のなかからは埋没させられている。富士山とは、江戸時代の多数の富嶽図、江戸名所百景などに必ず貫入的に登場するように、つねに強制的といえるほど、可視的な存在として存在するものである。つまりわれわれが富士山を見ているのでなく、つねに見られている/見守られている存在であることになる。岡崎乾二郎は、イサムノグチを批評した彫刻論で、モニュメントとは、そのもののオブジェが見られていようがいまいがにかかわらず、視覚行為を超えて、見守る/見守られている関係を構築することに本質があると言及していたが、いいかえれば可視的なものが可視性を超えて、不可視の可視的関係を築くということになる。ここ「63」では、サンシャインビルは富士に代替・代入されている。
ヨッヘン・ゲルツは、かつてのファシズム専制を明記する負のモニュメント制作において、鑑賞者がそのオブジェに到達した時点で、徐々にオブジェを実際に欠落させることを求め、モニュメントを見る=意識することが喪失を生み出すことを顕在させた。では、サンシャインに見守られているはずのわれわれとはどこに在るのか。喪失を生み出す主体はあるのか。この回答のなさにこそ、このツアーの本論があるように見える。とりあえず敷設された不可視の見守られる関係性に対して、抗うものが、ラジオから傍受される方向性を欠いた声である。多数の個別の声は当然のように偏在するにもかかわらず、表象される時点で多重に加算されることで、ある志向性が選ばれ、多数性は意味を失う。ある声は他の声を制する存在なのである。われわれは通常の劇場内ではそのようなことを意識することなく人物の発声を傾聴するが、はたしてそれは本質的な行為なのか。Port Bのツアーにおいては、ある発声は他の声の喪失を暗示すると同時に、わずかな振動する共存在の可能性の芽を感じさせる存在ともなる。その制圧と逸脱の微妙さ加減を意識させるのだ。
同時期に東京でようやく展示される機会があった、ジェネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーのインスタレーション(恵比寿映像祭@東京都写真美術館、メゾンエルメス8階フォーラム)が、声のサラウンド再生技術の多用によって、徹底的にヨーロッパ的な劇場再現的な構築的空間を呼び起こすのに貢献していたとすれば、Port Bにおける声の存在は、見守られているべきフレームの存在の判別、内外の区別は決定できないまでも、少なくとも不可視の振動と傍受を紛れ込ませる可能性を伝えている。Port Bにおける声が、直接的身体からではなく、通信技術的再現性の利用によっていることも面白い点である。しかし、技術の対象となる構築空間が、ハイデガーのいう究極的な技術の本質であるGe-stell〈組み立て〉=〈総駆り立て〉にあるとするとするなら(もちろんITのみならず都市=建築空間もそれらに該当するのはいうまでもない)、完全に構築されるべき=駆り立てられた空間に充ちている声は、志向性を持って聞こえる声、あるいは反対に喪失すべき声であっても、呟きめいた不可視の声の発生の可能性はそこにはないだろう。Port Bは、偏在と傍受を技術的再生によって、その構築空間管理に、残響ないしある種の聞こえ難さを対置させることでそれを凌いでいる。意識にインプットされた地図(地肌)と声。これは面白いコントラストである。地肌の隣接性、声から声の伝承的な重複性、といった無方向の情報の弱い残響がたしかに存在する。
前作「サンシャイン62」では、エピローグとしての体験に、セカンドライフ上に構築されたサンシャイン60に参加が促されたが(これはイェリネクのパートナーであるヒュングスベルクが「雲。家。」のビデオゲーム化を実行したと言ったエピソード[ドラマトゥルク・林立騎氏の翻訳解題より]に触発されているようにも見えるが)、「63」ではそれらは姿を消し、その代わりとして、視覚過剰の世界である超高層のサンシャインの展望台に取り残され、なにごとも起きないまま、だれも登場することのないまま、ただ終わり(あるいは終わりではない?)、という結末は、ここでは有効に感じられた。
遡って、昨年12月に山口情報芸術センターで開催された、演出:高山明とドラマトゥルク:林立騎コンビによる「山口市営P」にも言及しておきたい。この作品は、Port Bと市民ボランティアが1年間かけてリサーチから上演までを行う目的で企画されたもので、やはり市街地自体を上演の素地とするアイディアとなった。そのリサーチの過程で、今や日本全国の地表上増殖の一途をたどる駐車場がキータームとして浮上し、要するに駐車場とは、その地に過去になにがあったのかを完全に喪失し、覆い隠す符丁である。「山口市営P」のPはもちろんパーキングであるが、隣接するパッサージュでもあり、パージとかパーミッションとか、プリズンとかファントム、はたまたパトスとかをも想起させる。舞台となった山口市中心部の商店街はパッサージュとしてのアーケードが直線で1キロほど続く構造を成しており、市内の新旧のさまざまなエリアや機能の結界を形作っているともいえる。
そのエリアの巨大な敷地に、数十年が経過していまや廃墟然としている坂倉準三建築研究所制作の立体市営パーキング(道場門前大駐車場)があり、そこが最初のキーポイントされている。誰も行くはずのないその屋上へ、タクシーでツアーが導かれ、そこからさらに地上を通過しながら、第2のポイントである通常入場不可のアーケードの屋上まで、延々と歩行させていくという激しい高低を含んだ行程が「山口市営P」の中心的な眼目である。「サンシャイン63」と同じようにツアーガイドはほとんどつかず、参加者たちは指示書だけを頼りに、自分たちだけでその通路をたどっていくことになる。興味深い体験は、それらメインのポイントに至るまでに、普通のアーケード商店街を、地上目線でまず歩くように促されるが、その過程で、ある古びたタバコ屋の裏の狭い破屋にツアーメンバーは通されていく。そこでは、周囲が溶暗となり視覚が奪われるようになっており、次にさまざまな語りが浮き出すように重なり、聞こえてくるのだ。それはPort Bとスタッフがフィールドワークでインタビューした、録音再生による近隣住民の場所の記憶の語りであると同時に、破屋の隣人の住人がリアルタイムで実際に会話している声の塊でもあるのである(このPort Bの『山口市営P』のドキュメントが、YCAMからDVD化されているので、興味のある方はYCAMまでアクセスしてください。限定部数配布可。問い合わせ=information@ycam.jp)。
Port B「サンシャイン63」
会場:池袋周辺地域
公演日:2009年3月4日(水)~8日(日)、3月11日(水)~15日(日)
Port B「山口市営P」
会場:山口中心商店街エリア
公演日:2008年12月5日(金)~7日(日)