キュレーターズノート

松尾直樹 展「Spacing3(登場と退場)」/児玉靖枝 展「深韻」/栗田咲子 展「インストール」/ROBERT PLATT「huntorama 2」/放課後の展覧会

中井康之(国立国際美術館)

2009年06月15日号

 2つ前のレポートから触れているように、京都の画廊地図がゆっくりと変わろうとしている。もちろん、新旧交代ということはいつの時代でもあることだが、ここで改めて取り上げようというのは、東京の有力なコマーシャル・ギャラリーである小山登美夫ギャラリータカ・イシイギャラリーによる共同のスペースが生まれ、さらに東京でアート・コンプレックスを展開している児玉画廊が大阪から撤退し京都に移転するといった外側からの働きかけばかりではなく、風情があるとは言いながらも狭小なスペースだったモリユウギャラリーは移転して十分な空間になり、下鴨で特徴のある展開をしてきたヴォイス・ギャラリーも京都駅南の広い空間に移るなど、いわゆる現代美術を支える周辺環境が変わりつつあるかのようにも思える。このような動きは、中国を中心とした東アジア・アートバブルの余波が、かなりのタイムラグを挟みながらも、及んできたものと考えれば、過去にもそのようなことがあったかもしれないという結論が導き出されるかもしれない。

 とはいえ、現状として、いわゆるパラダイムシフトがここ関西においても現われてきたのか、と問われたときには、それはいまだ表面的には変わりないように見える、と答えるしかないだろう。小山登美夫にしても、タカ・イシイにしても、手持ちの作家によって慣らし運転をしているに過ぎず、ヤノベケンジの《タンキング・マシーン》(1990)、やなぎみわの《My Grandmothers》(2000)などが発表されたアートスペース虹、森村泰昌が《ヴァン・ゴッホ》(1985)などの自画像による作品を発表したギャラリー16、あるいは束芋が卒業制作で発表した《にっぽんの台所》(1999)を展示したギャラリー射手座など、いわゆる貸画廊と言われるこれら画廊の潜在的な力は維持されている、と思われる。そして、話を敷衍すれば、上記のような作家たちが、今日では時代遅れとも見なされる場から輩出されてきたのは偶然ではない。1980年代に大阪・神戸を含めたそのような場を舞台に、森村泰昌、石原友明、松井智恵、松井紫朗、中原浩大、中西學……といった作家たちが表現主義的な、あるいは物語性のある作品群を発表することによって関西ニューウェーヴと称されるような状況が生み出され、彼らを憧憬するようなかたちでヤノベ世代が生まれたのである。もちろん、そのような雰囲気的な事だけではなく、上記の石原、松井(紫朗)、中原は京都芸大の教壇に立ち後進の指導にあたり、実際的な継承も行なわれている、であろう。さらに遡れば、その石原あるいは森村に表現の作法を導いたのはあの伝説的とも言える写真家アーネスト・サトウである。ここには、表現者たちのある連鎖または批判的継承とでも呼ばれるべき現象を見ることができるだろう。

 閑話休題。今期、そのギャラリー16において関西ニューウェーヴの一躍を担っていた松尾直樹の旧作を中心とした展覧会が開かれていた。同画廊が不定期で開催している80年代考シリーズの第4弾である。このような批判的思考に基づいた事業が行なえる事自体が、たいへんな驚きであると同時に、貸しスペースというような蔑称とは裏腹に、若手作家が発表する場所を提供するという目的によって始まったこの画廊が、文字通り存在事由を求める行為としての連鎖展ではある。先にも記したように、表現主義的ともいえるその荒々しい筆触の集積は、恐竜やデビルマンといった、今日の絵画のある傾向との共通点を見いだせそうな図像によりながらも、熱かったその時代の空気を甦らせるのである。
 京都の旧世代型画廊のもう一方の雄であるアートスペース虹では、先に例示した攻撃的とも言えるような表現とは対蹠的なところに位置するであろう児玉靖枝の新作展が開かれていた。児玉は世代的には関西ニューウェーヴに属する世代ではあるが、静謐な静物画から展開していった緊張感を生み出しながらも詩情を漂わせる筆触による抽象絵画によって知られるようになった彼女には、常に同世代の彼らとは異なった場所が用意され、静かな、しかしながら確たる存在感を持つ作品を制作し続けてきた。児玉は2000年に入る頃から、自然の事物から採った形や色に触発されながら、絵具の媒体自体の美しさと、事物をかたどろうと変化するその間合いを見せるような表現を続けている。今回も、自然景の美しさから感じ取られるであろうある情景が、精妙な色合いの絵具に溶け込んでいくような世界を見せていた。
 同時期に、三条通に新しい画廊が誕生していた。冒頭で示したような華やかな話題は特にはないが、実はその画廊が開廊した場所には、かつてギャラリーココという画廊があった(という)。60年代後半に活動を始めたその画廊では関西ニューウェーヴのさらに一世代前の関西の現代美術の作家が活動する場であった(らしい)。実はその新しくオープンした「ギャラリー・モーニング」の画廊主は、そのギャラリーココで美術作品と触れ合うことのよろこびを覚えたのだという。そして、そのギャラリーココで90年代後半から積極的に発表を続けていた栗田咲子を、オープニング展にするということは、その精神を引き継ごうとする画廊主の意志表明であることは言うまでもない。その栗田咲子であるが、彼女は現在の具象的傾向の絵画を描く一群の作家たちの先行世代の筈であったが、地勢的な位置関係と時代的な僅かなずれによって割を食っているような気もする。今回発表された作品群からは、すぐれて感性的な面を維持し続けていると判断することができるだろう。


松尾直樹《Heavy Corpus》1985


児玉靖枝 展「深韻」、会場風景
撮影=トム・シュワーブ


右=栗田咲子《桜と椿のその》2006、左=同《クロウバト》2007

  • マーティン・クリード展
  • 松尾直樹 展「Spacing3(登場と退場)」/児玉靖枝 展「深韻」/栗田咲子 展「インストール」/ROBERT PLATT「huntorama 2」/放課後の展覧会