キュレーターズノート
坂口恭平「熊本0円ハウス」/岡田裕子「翳りゆく部屋」
坂本顕子(熊本市現代美術館)
2010年01月15日号
対象美術館
他方、その坂口展と強烈な対比をなしていたのが、ミヅマアートギャラリーで行なわれた岡田裕子の個展「翳りゆく部屋」だ。岡田裕子は、男性の妊娠をテーマとした《俺の産んだ子》や《未来図》、主婦の孕む狂気を描いた《SINGIN' IN THE PAIN》などの、「結婚」し「出産」した「女」というジェンダー的なテーマに、毒と笑いを盛り込んで、閉塞状況にあるフェミニズムを突破していくような痛快さが特徴であるが、今回はその延長上にある「老い」と「汚い」がモチーフになっている。
会場の、いわゆる「ゴミ屋敷」を模したインスタレーションのなかで、「ゴミじゃないのよ〜!!」という岡田扮する老いた女の絶叫するビデオが流れる。テレビのワイドショーでよく見かける、あの光景だ。
女は、立ち入ってきた行政風の職員に対して、一つひとつのゴミに込められた、彼女の人生の「思い出」を語る。そして、いざ、職員が撤去にかからんとするその時、盛大な音楽とともに会場が暗転することで、それがリアルなルポルタージュではなく、岡田主演のコミカルな、しかし、苦い余韻を残す一幕劇であることを知らしめる。
坂口と岡田の作品を、作者やモチーフなどから、男性的/女性的と単純化して語ることに対しては、慎重にならなくてはいけない。しかし、坂口がフィールドワークを通して出会った路上生活者の家のほとんどが男性によるものであることに注目したい。その前提に、路上生活者には女性が圧倒的に少ないという背景があるが、そこには、女性という性に由来する現実性や社会性、そして、男性に比べてパートナーや家族に収入面を依存することが社会的に許される風潮にある点、性の商品化を含めた就労形態の多様さ、および、母子家庭などへの生活保護などの厚遇などを物語っている。
一方で、岡田の指し示す「ゴミ屋敷」の住人には、比較的性差がない。その理由として、男女問わず罹患する痴呆症や、統合失調症、また、ADHDなどの「病」がひとつの根底にあるからであろう。そこでは、もはや「家」というものの外観が消失し、孤独や不安を埋める、ある種美化された「思い出」の代替物としてのゴミが(岡田がビデオで語っていたのもパートナーや息子といった「男」の思い出であった点も興味深い)、要塞のように新たなその人を守る「家」をかたちづくっている。
坂口の希望と岡田の絶望。両者の語り口は異なるが、これらは同じ延長線上にある。0円ハウス、ゴミ屋敷、そして冒頭に触れた、公設派遣村入所者のカプセルホテル。ここには、さまざまな「家」のかたち、そして、人間の生きるありようがあり、それは、そのまま私たちの現在の生き方を痛烈に照らし出している。