キュレーターズノート
小清水漸退任記念展/小清水漸 個展「雪のひま」/菅木志雄──在るということ
中井康之(国立国際美術館)
2010年03月15日号
対象美術館
京都での個展に続き、東京で始まった小清水の個展は、その「作業台」シリーズによる新作《雪のひま》であった。「雪のひま」とは雪解けの頃の季語である。専門の辞書を繙くと「雪原などで雪がひと所ぽかりと解けているところ」とある。そう説明されれば、そのような春の息吹を感じさせる光景が目の前に浮かぶようでもある。さらには、大地の上に降りかかる雪というものは、感覚的な意味で重力から自由な雰囲気を持つものであり、大地と物との緩衝物的なものという解釈を施せば、小清水の「作業台」と同様の働きをする自然物のようなとらえ方ができるかもしれない。しかしながら小清水の作品《雪のひま》では、作業台のテーブル部上部が酸化して黒変化した銀箔によって覆われていたのである。テーブルの少しくぼんだ部分には大きめの丸い自然石が置かれ、全体に丸みを帯びたそのテーブルは、雪のような可塑性の高いものを暗示している。素直に受け取れば、その酸化した銀は時間の経過を表わすものであり、この作家が、雪解けの季節を迎え、過ぎ去った時間を、作業台の表面を舞台に表わし出しているものなのかもしれない。
2月に入り、金沢の中心部に、金沢美術工芸大学のギャラリーが菅木志雄の個展によってオープンした。言わずと知れた、もの派を代表するもう一人の作家である。
先に述べてきた論理で解釈するならば、菅の作品は「関係性による彫刻」ということで括ることが、とりあえずはできるだろう。その個展会場の入口に設置された、コの字型に並んだ石柱を木材が連結させた作品《縁帯》に代表されるように、異なる素材の絶妙な混成によって全体となった作品たちが、その会場に見事なバランスで存在していた。
特に今回の展示作品で注目したのは新作として出品されていた《空積性》という作品である。それは大きな木枠(中の棚がすべて外れた等身大以上の本棚を想像してもらえば良いと思うが)の中に、縦三列に十数個ずつの土嚢が積まれ、それを中心として同心円状に三重に土嚢が並べられている。その同心円状に並べられた途中に、一個の土嚢と同じ程度の体積を持つ高さ30cm程の砂の入った一斗缶が置かれている。
これは、関係性の彫刻をつくり続けてきた菅にとっては、極めて異質な作品だと感じた。関係性の彫刻というのは、物と物という相互に力学的な関係を及ぼすことによって、反−重力的な、あるいは非−重力的な側面が見えてくる。それは、単体のパラフィンを積んだだけの作品《並列層》においても、一個体のパラフィンが置かれた状況によって、個々が異なる形体の変化を生み出し、全体として歪んだ形体が重力に対する抵抗のかたちとして表われてきていたのである。
それに対して、今回の作品《空積性》に用いられた土嚢は、その性質上、重力に対してまったく無抵抗であり、十全に重力に依存している形体としてそこに在るのである。菅はその性質を一個の木枠を用いることによって、そのだらしがない形体をまるでショウケースに入れられたようなものとして展示空間に露出し、見る者に提示したわけである。加えて、そのショーケースの下では、床に並べられた土嚢の中に砂の入った一斗缶が置かれることによって、土嚢のだらしがない形体を際立たせている訳である。
今回の展覧会のタイトルが「在ること」という、これまでにない言葉が使われていたのも、この作品《空積性》が在ることによってなのだと思う。しかしながら、菅の今回の作品が、前述してきた存在の彫刻の系譜にははまらないものであろう。菅は見る者にまた大きな謎を残したのである。