キュレーターズノート

京芸Transmit Program#1 「きょう・せい」/レゾナンス 共鳴──人と響き合うアート
会田誠《滝の絵》公開制作

中井康之(国立国際美術館)

2010年06月15日号

 今春の関西の美術界で社会的にも話題となったのは、コンテンポラリー・アートによるアート・フェアが京都のホテルを会場として開催されたことであろうか。じつは諸般の事情で、私自身は伺うことができなかったのであるが、近年、東京や大阪でも同様の試みが為されていたように、少し既視感のともなうイベントのように感じる。見ていないものに関して意見を述べる愚は避けるべきであろうが、その既視感の理由はそれだけではない。京都のザ・パレスサイドホテルを舞台に開催されてきた“Art in transit”を思い出したからである。ところで、京都でのアート・フェアであるが、ホテルだけにとどまらず「超京都」という名で文化財級の町屋でも開催された。こちらへは足を伸ばすことができたのだが、やはりある既視感に襲われた。それは、少し敷居の高い古門前の古美術商を徘徊し陶器などを眺めていた経験からきたものだったろう。ようするに、鳴り物入りで始まったアート・フェアではあったが、すでにこの古都では経験されてきたことであったと考えてもいいだろう。もちろん、東京のギャラリーも参加してこのようなフェアが開催されたのは、およそ一年半程前から京都の画廊地図が変わってきていたことが、良い意味である結果を生み出したようにも感じている。

  さて、アート・フェアほどの話題を呼ぶことはなかったが、今年の4月には二条城の東端近くに京都市立芸術大学が学外にギャラリーをオープンさせた。特になんの先入観もなく、そのオープニングの「きょう・せい」展に向かったのである。
 会場に足を踏み入れたとき、正直、言葉を失うような衝撃を受けた。混沌、と言ってしまえば話は早いのだが、その混沌を生み出している状況というものが直ぐには理解できなかったのである。広いとは言えない展示会場に、僅かに全体を取り込むような形態で、細い木材を組んだ上や仮設壁面にブルーシートを掛けた貴志真生也の作品が確認できたのだが、彼の作品にとって空間の中の解放空間を生み出すために必要と思われる空虚で在って欲しい場所に、他の作家の作品が組み込んでいくのである。そのような作品の相互干渉が連綿と入れ子状態のようになっていたのである。あるいはその展覧会は第2会場があり、そこでは宮永亮の映像作品が支配的ではあるのだが、それに拮抗するかのような矢津吉隆のキネティック・アートのような作品が光と音が不協和音を奏でるのである。
 混沌とは言っても、例えば大野智史が小山登美夫ギャラリーや横浜のZAIMで展開していた絵画や立体を林立させて床面に砂絵を施したような混沌は、一人の作家が制御したことが直ぐに読み解けるだろう。しかしながら「きょう・せい」においては、およそ10名の作家による40点の作品が、それぞれに発言の機会を失ったかのように混在したのである。このように述べると評価していないように思われてしまうかもしれないが、そうではない。じつはこの「きょう・せい」展は、2つの会期によって構成され、第2期は普通に仮設壁によって仕切られた個展形式となり落ち着いて鑑賞することができた。例えば、最初の部屋に並んでいた水田寛のコーナーでは、これまで彼が取り組んできた試みがある形を取り始めていたことが感じられるなど、普通の展覧会になっていた。と同時に、問題を感じないが故の欠如感という矛盾した欲望が自らのなかに胚胎してきたのである。その第1期の展覧会で感じた不条理感、それぞれが個性を食い合うようにして、とは言いながらも、故意に混沌とした状況を見せるような、例えば前述した大野の砂絵のような行為ではなく、それぞれの表現者が他者の表現と微妙な不協和音を重ねながら総体として奏でる奇妙な表現する者たちのリアリティを、第2期の静寂の中で懐かしく感じたのである。おそらくは再現不可能な展覧会であり、それが本来的に望ましいものであるのかどうかもわからないのだが、表現することの恐ろしさを久しぶりに感じさせた展覧会であったことも、また事実なのである。


左=「きょう・せい」展、第1期展示風景
右=同、第2期展示風景

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