キュレーターズノート

国立美術館巡回展/FLAT LAND──絵画の力/實松亮+安部貴住「循環と置換」

中井康之(国立国際美術館)

2010年12月15日号

 さて、もうひとつ取り上げるのは、前回のレポートでも少し触れることとなった梅香堂というアートスペースで開催されていた展覧会である。身内に近いような場所2箇所を取り上げることに僅かな抵抗を覚えるのだが、身近であるからといって見るべき対象を取り上げないことのほうが不合理だと思うのでここに記しておきたい。それは實松亮と安部貴住による 「循環と置換」と題された展覧会で、2人とも愚直なまでに、映像とは、絵画とは、なにものであるのか、を真剣に問い直そうとする態度がそのままかたちになったような作品だった。
 安部の作品は大きな木製の額に透過性のある布が張られ、それらに黒いポイントのマーカーが無数に貼られている作品である。その無数の黒い点は不思議な連関を結んでいるように感じられたのであるが、作家によれば、木漏れ日のような具体的な主題があり、それを丁寧にマーキングしていったということであった。そのような三次元の事物が投影されて二次元の図像に還元されながら、それを再度、三次元性を生み出す絵画空間的な場所に写し出すことによって、それを見る者にある幻のような現象を生み出すのだろう。絵画のイリュージョンとはなにものであるのか、あらためて見る者に問い質しをうながすような力を湛えた作品であった。
 實松の映像作品は、ノイズがプロジェクションされた、とてもシンプルな構造によって成立している。映像というのは、多くは現実界を光の屈折・反射によって構成された物の形姿を、時間軸を追って記録されたものであることとして認識しているが、それ自体というものは、例えばアナログのテレビ受像器であれば485本程度の走査線によって構成されたもので、映像それ自体というのは、いうなれば単なる光のノイズであろう。實松は、そこで、可視化されにくい呼吸というものを、例えば顔のクローズアップによって微細な頬の筋肉細胞の動きを見せる、というような方法ではなく、直接的にいわゆるノイズと呼称されるような映像によって表現しているのである。もちろん、それ自体、特に新しい表現でもなんでもないだろう。しかしながら、愚直に映像というものを問うような作品を目にすることが極めて少なくなった現在の状況のなかで、見る側の姿勢も問われているかのように感じるのである。

 冒頭の前置きと、今回のレポートがどのように繋がるのか、という質問が当然出てくると思う。文化の動きというものが、大きな枠組みとは別のレベルで進行していくものだというようなアナクロニスティックな方法がいつまで有効なのかという苛立ちは、例えば、近年続けて扇情的な著書を刊行している村上隆にも見て取れる。その著書の内容はともかくとして、基本的な姿勢は理解できるところではある。ではあるが、やはり表現することのプリンシプルというものをそれぞれ個々の作家が愚直に探し出していく姿勢を見失うべきではないだろう。もちろん、それを現実界に活かすための基盤を築かなければならないことは言を待たない。後者の改革は急を要していると私も感じている。


安部貴住《Circulate(frame)》2010
提供=梅香堂


實松亮《Breathing》2010 (左)
ともに提供=梅香堂

實松亮+安部貴住「循環と置換」

会場:梅香堂
大阪市此花区梅香1-15-18/Tel. 06- 6460-7620
会期:2010年10月11日(月)〜11月14日(日)

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