アート・アーカイブ探求
作者不明《吉祥天像》天下太平の女神としての尊像──「谷口耕生」
影山幸一
2011年05月15日号
神仏習合の結晶
天武天皇が680年に創建を発願した由緒ある法相宗(ほっそうしゅう)大本山薬師寺。奈良市西ノ京にあり、ユネスコ世界遺産にも登録されている。その薬師寺金堂では、毎年元旦より1月15日まで、《吉祥天像》を本尊として、一年の罪過を懺悔し、国家安穏、五穀豊穣を祈願する「修正会吉祥悔過法要(しゅしょうえきちじょうけかほうよう、以下、吉祥悔過)」が行なわれている。《吉祥天像》は絵画であり、本尊でもあるのだ。礼拝の対象として1000年以上存在してきた神様で、本来は鑑賞するものではない。
吉祥悔過とは、奈良後期の天皇・称徳天皇(718〜770)が始めたと伝えられ、神護景雲元年(767)に護国経典として尊ばれた『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』という経典の講讃とともに吉祥悔過が行なわれた、と奈良時代の基本史料『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されている。経典の「大吉祥天女品(てんにょほん)」と「大吉祥天女増長財物品(ぞうちょうざいもつほん)」を典拠とする。
吉祥天は、毘沙門天や弁財天など、天と言われるインド在地の神様のなかで筆頭に挙げられる女神である。『金光明最勝王経』を象徴する神様で、衆生に福徳を与える。谷口氏は、薬師寺の吉祥悔過については、『薬師寺濫觴(らんしょう)私考』『薬師寺縁起国史抄』『続日本紀』より、宝亀3年(772)に始まったとみており、《吉祥天像》はこの吉祥悔過創始に際して制作された可能性が高いと言う。
谷口氏はまた、次のように《吉祥天像》の伝来を述べている。「明治21年(1888)設置の臨時全国宝物取調局の調査台帳には、《吉祥天像》について“八幡大菩薩同龕(どうがん)”と記述され、発見当時、薬師寺境内の鎮守八幡宮(休ヶ岡八幡宮)に安置されていたことが知られている。この八幡宮は寛平年中(889〜897)に、薬師寺別当の栄紹(えいしょう)大法師が八幡神を勧請し、薬師寺金堂から同社に移したものと見られる。以後、《吉祥天像》は明治期まで長らく八幡宮にて秘仏として祀られてきたのだろう。《吉祥天像》は、日本古来の神祇信仰と、外来宗教である仏教が融合して生み出した美の結晶、神仏習合儀礼としての“吉祥悔過”の伝統を如実に物語る稀有な事例としても極めて貴重。仏教にとって神様の問題は常に重要な問題だった。善神たちが仏法をいかに守護するか、この思想が神仏習合の根本的なところにある」。薬師寺は、日本最古の吉祥天画像を本尊とし、歴史のある吉祥悔過を今に伝えている。
【吉祥天像の見方】
(1)モチーフ
幸運をもたらす立像の女神。奈良時代に重視された密教経典の『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』に、吉祥天(同経典では功徳天)像を画像として描く際の規定として「取未嫁女年十五者(その姿は年齢15歳くらいの未婚の女性をモデル)」と説かれている。
(2)構図
斜めを向いたS字形の立ち姿。正面ではなく斜め向き。違和感はあるが一対になるものではなく、初めからこういう形の尊像だったと思われる。頭光(ずこう)を付け、左手に霊験を表わす宝珠(ほうじゅ)を捧持し、右手は、胸前で人々の恐れを取り除くことを表わす施無畏印(せむいいん)の印相(いんぞう)。
(3)サイズ
縦53.0×横31.7cm。寸法については『陀羅尼集経』に、髷の頂上から沓(くつ)の底まで一尺三寸五分(天平尺で換算すると40cm弱)と書かれている。異例の小ささだが現物の寸法とほぼ同じ。
(4)色彩
赤、白、青、緑、紫、黒、金など、豊富な色を白色の下地の上に用いている。『陀羅尼集経』に「肌の色を赤、白の絵具を使って描きなさい」とあり、肌の色は特に意識して描かれている。画面全体を油で覆ったような妙な光沢がある。
(5)画材
麻布著色。奈良時代の絵は麻に描くことが多いが、本図は極めて緻密な麻布。金箔あるいは金泥が認められる。絵具は、日本画絵具のようだが粒子が細かく、経年劣化した絵具が何か、接着剤が何かははっきりとしない。
(6)技法
顔は、淡墨細線でくくり、細かい墨線を重ねてほつれ毛を表わしている。三日月形の眉毛は緑色で縁取り、中を黒で埋める。黒い丸で表わした瞳と上瞼を濃墨、下瞼を淡い細墨線で引いている。朱の隈取りで描かれた細い指先が下描き線と重なり合い、指数が多く見える。宝珠は赤系の暈繝(うんげん)
で彩色。手首の飾りは朱線と金で表わす。(7)制作年
奈良時代8世紀。昭和31年(1956)から32年にかけて行なわれた修理以前に、室町時代と鎌倉時代に大きな修理が行なわれている。1200年を経てきた作品であり、当初のままでないことは確かだが、極めて良好な保存状態。
(8)作者
大陸系の情報と技術を持っていた人。当時、造東大寺司(ぞうとうだいじし)という写経や仏画を描く官僚機構の専門集団があった。そのような場で大陸の絵をもとに吉祥天像が描かれていたのかもしれない。日本で描かれたものであろう。
(9)額装
杉材格子組みの木枠に、下張り紙を貼って麻の布を着装。木枠の構造が《鳥毛立女屏風》とほとんど変わらない。額装は奈良時代当初のものである可能性が高い。大きい画像を切り取ったものではなく、オリジナルの形態。
(10)鑑賞のポイント
仏画という以前に、純粋に美人画としても鑑賞できる。透明感のある衣と、白い肌に太く赤い唇、耳にかかるほつれ毛、細く長い指、そして豊かな胸のふくらみなどが艶めく。小さい絵ではあるが、盛唐絵画の影響が認められる衣はカラフルで華やかさがある。衣の襞のつくり方など近寄ってみたくなる。近寄って見ると、さらにいろいろなものが見えてくる魅力がある。かんざし、ひし形の文様なども細かく、グラデーションをつけて描いている。
1200年前の高精彩カラー画像
吉祥天は、起源的には古代インドの美と豊饒の女神・ラクシュミーが、仏教に取り込まれて信仰されるようになった天女であり、また毘沙門天の妻との説もある。
《吉祥天像》は、唐代8世紀後期に活躍した中国の美人画家、周昉(しゅうぼう)や張萱(ちょうけん)の影響が見られるといわれる。その髷を結った頭髪に、華やかな髪飾りをつけて、肩を覆う背子(はいし)は薄い桃色の地に唐花風の文様。袖口が優雅に垂れる大袖(おおそで)は紫色の団花文(だんかもん)、腰から下にまとった裳(も)は縦縞模様、前掛けは緑地に菱形文を配置したデザイン。爪先が上に反った沓(くつ)、薄いスカーフ状の天衣(てんね)は風になびいて気品に富む優雅な装いに仕上げられた。
今から千数百年前に中国大陸や朝鮮半島、あるいは海路を経由して絵画の素材や技法が日本に伝えられた。主にそれらは仏教絵画であったが、素材は作品の完成と同時に劣化が進む脆いものであった。そのため今日に伝えられている古典絵画の多くは修理、修復を繰り返した結果でもある。特に仏画は礼拝の対象として、香煙や護摩によって、黒化したものが多く、制作時とは印象が異なると思われる。《吉祥天像》を調査し、当時の状態を復元した《吉祥天像復元模写》を見てみると、その色彩の余りの鮮やかさに一時は目を疑った。しかし奈良時代にこの画像を神様として礼拝する人の心境を想像すれば、現代人の3Dバーチャルリアリティーと同様、異空間を体験するような世界、つまり今までに見たことのない非日常的な高精彩カラー画像を求めた気持ちが少し理解できる気がしてくる。